第五章 マスコミへの発表
東京都知事及び警視総監は、これ以上手紙について秘匿する事は困難であり、流言により間違った情報が伝わり、世情の不安をあおるよりも、正しい情報と水道の安全性を強調して、人身を落ち着かせた方が良いとの結論に至り、マスコミに発表する事にした。
〔1〕マスコミの動き
霞ヶ関の警視庁記者クラブ内の、東京中央新聞の記者皆藤が公安部員の飯田と話をしているのを、目敏く見つけた他社の記者がいた。
毎朝日報の藤山勇吉である。
「カイさん、飯田さんと何をこそこそ話してたんだ?」と藤山に聞かれた皆藤は「別に、いつもの探りだよ。」と惚けて答えた。
「最近これと言った事件が無いから、ネタを探しているんだ。」
「フジユウさんこそ、良いネタ持ってんじゃないの?」と尋ね返した。
お互いに記者クラブに詰めて3年以上になるので、顔なじみであり、愛称で呼び合う仲であった。
表面上は仲良く見えるが、お互いライバルであり常に出し抜いてやろうと思っている敵であるので、いつも腹の探りあいを演じている。
その頃公安委員の飯田は、課長の友野に先ほどの皆藤との会話の内容を伝えていた。
友野は「怪人21面相」に付いての知識は持っていた。
だが、その事件は三十年以上前のもので有り、その時の犯人はその後全く息を潜めているし、すでに60歳を過ぎていると思える老人が、再び活動を始めるとは思えなかった。
「それは悪戯の可能性が高いな。中高生の間で噂になっているだけだろう。」と友野は否定的に答えた。
飯田は「他の部署から、そんな情報は入っていませんか?」と確認して欲しげに尋ねた。
「そんな話は初耳だよ。」と友野はこの件を終わらせるように、書類の一部を取り上げた。
それでも飯田は、「ちょと確認していただけませんか?」と哀願するように言葉を続けた。
「どこに確認するんだ。」と少し大きい声で良いながら、友野は飯田の顔を見上げた。
「部長に聞いて貰えませんか?」と少し萎縮したように飯田は頭を下げた。
友野は根負けしたように「聞くだけ聞いてみるか。」と受話器を取り上げた。
公安部長の広瀬は、この件についての情報は知っていたが、「折を見て総監の耳に入れておくので、それまで他言無用だよ。」と答えて受話器を置いた。
一方、都庁の広報担当職員の朝倉は、係長の飛田にこの話をしたが、飛田もこの様な話は全く聞いた事は無く、結局課長の畠山に報告した。
畠山も蚊帳の外に置かれていたので、寝耳に水の話であった。
最終的に知事室長の大野の所に話は持ち込まれた。
大野は手紙の件を知っているので、「知事と相談するので、この件に付いて聞いたものには当分口外しないように。」と念を押して、知事室に向かった。
こうして新たな情報源から、警視総監と都知事の耳に話は伝わり、再度この二人に依る話し合いが持たれた。
警視総監の上田が「流言の根源が特定出来ないのだが、中高生の間で噂は広まっているようだ。」
「これ以上秘匿していて、尾ひれが付いた話を流されても困る。」と渋い顔をして言った。
「都の方でも、水道の安全性を都民に理解してもらわなければならない。」と合田知事は主張して、二人の間で手紙の件を公表して、マスコミの報道で水道の安全性をアピールして貰おうという結論に達したのである。
マスコミへの発表は22日午後5時に、警視庁では記者クラブの会議室で公安課長の友野が発表し、都庁では6階の大会議室で広報課長の畠山が担当して発表した。
その内容はどちらも同じものであり、「怪人21面相から、都の上水道に毒物を混入するという手紙が都知事及び警視総監宛に届いたが、都の上水道の安全施設については厳重な警備施設を施して有るので、そのようなことは出来ない。また警察当局も浄水場及び給水所等への警備、パトロールを強化して、都民の安全に万全を期するので、流言に惑わされる事の無いようにしていただきたい。」と発表した。
この発表を受けてマスコミ各社は一斉に動き出した。
新聞各社は、夕刊には間に合わないので、明朝の紙面に間に合わせる為に、より詳しい情報を求めて走り廻った。
各テレビ局は早速、夕方のニュースに間に合うように、先ほどの警視庁と都庁の両方の会見の模様を取り混ぜてビデオテープの編集に取り掛かり、「怪人21面相」なる事件に詳しいゲストを呼ぶ為に各地に電話連絡を始めたのである。
その日の内に、1300万人の都民のほとんどにこの話は伝わった。
こうして「怪人21面相」の名が再び世に出たのである。
〔2〕都民の動揺
その日、夕方のテレビのニュースで事件を知らされた都民のほとんどは、「怪人21面相」の犯行予告について初めて知った。
知事や総監が考えていたほどには、まだ噂は広まっていなかったのである。
しかしながら、世間に公表した事によって、100パーセントの都民に知れ渡った。
そして犯行予告に対しての不安は、東京都民のみに限らず、全国民の間に広まっていった。
23日の夕刻、大場と直子はいつもの渋谷の喫茶店のテーブルを挟んで話し合っていた。
話題は勿論「怪人21面相」の事である。
「水道局の対応策は万全なんだろうか?」と大場が尋ね掛ける。
直子は「毎日、父の帰りが遅くて、ぜんぜん話をしていないのよ。」と答える。
「知事も警察も、ずいぶん早く公表したもんだなー。内に手紙が届いてから、まだ1週間だよ。」と大場はコーヒーカップを左手で持ち上げて言った。
直子もカップに手を延ばしながら「何でも、もう一枚手紙が見つかっって、そこから噂が広まったので、早く公表して水道の安全性を強調するのが、発表を早めた理由らしいわ。」と答えた。
「だけど、今後はどうなるんだろう。犯人は本当に水道に毒を入れるのかなー?」
今は公表された後なので、話の内容を具体的に話してもなんら差し障りは無い。
店のカウンター席の方でも、客とマスターがこの事件の話を声高に話しているのが聞こえた。
こちらの会話も水道の安全性と、犯人の今後の動きはどうなるのかと言う内容である。
人の集まる場所では、どこもこれと同じような会話が繰り返され、いずれも結論の出ないままで会話は終わるのであった。
直子と大場は、その店に40分ほどいて、いつもの様に渋谷駅で別れた。
直子が家に着いたのは午後8時前であった。
「ただいま。」
「お帰り。今日は遅かったねー。」と母の洋子が声を掛ける。
「お父さんはまだ?」
「毎日大変らしくて、まだよ。」
「昨日は何時頃に帰ってきたの?」と直子は尋ねた。
「11時を過ぎていたわねー。」
「今日もその位になるのかしら。」
「多分、そうでしょうね。」と洋子は食事の準備をしながら答えた。
今晩の食事は豚肉の入った野菜炒めと大根とアゲの入った味噌汁であった。
ごま油で炒めた野菜が香ばしく、直子の好物の一つであった。
食事を終えてから、直子と洋子はソファーに腰を降ろして、9時からのNHKのニュースを見た。
この日は時間を延長して、最初の30分間は「怪人21面相」の犯行予告について、解説者を交えて放送していた。
そして三十数年前の多くの事件に付いて、当時の警察関係者や研究者のゲストが説明を加えていた。
しかしながら、今後の予想や手立てに付いては何の手立ても無く、効果的な予防法に付いては結論の出ないまま番組は終わった。
その後直子と洋子は少しの間、この問題に付いて話をしたが、テレビ番組の内容と同じように結論の出ないまま話を終えて、直子は入浴を済ませて自分の部屋に入った。
午後10時30分を過ぎていたが、まだ父の高志は帰宅していなかった。
(3)水道局の対応
直子の父、加藤高志は今回の事件の、最大の被害者のうちの一人であった。
東京都水道局の、給水施設を管理する部署の担当課長であったので、事件発生以来1週間は休日も返上して、施設の安全性についての対応に追われていた。
安全施設は万全で有ったが、それでもどこかに落ち度は無いだろうかと念を入れて調べていた。
その為、本局にはほとんどいなくて、各施設に出向いては事務所の職員と打ち合わせを行っていた。
フェンスに取り付けた、ビデオカメラや警報設備を実際に作動させて、不備は無いかと調べていた。
浄水場は山間部に有る広大なもので、その全てに警報装置を付ける訳にはいかないし、ここに毒物を流し込んでも大量のものが必要だし、また水質検査で発見され、中和剤を入れることで解決できる。
問題は給水所の方である。
こちらは浄水場と比べれば水の量が少なく、すでに飲料として仕上げられた水をポンプを使って水道管に送るのであるから、ここに毒物を混入されれば打つ手が無くなる。
それに浄水場と比べて給水所の数が多い。
都内のあちこちに数十箇所有る。
これら全ての安全施設を調べて廻るのだから、大変な手間が掛かる。
高志が連日、朝から深夜まで走り廻っているのは当然だ。
八日間走り廻ったが、一日に二箇所で十六箇所の点検を済ませただけである。
勿論、各給水所の職員の手で、点検は行われていたが、高志は自分の目と手で確認をしたかったのである。
毎日睡眠は5時間ほどの日が続いた。
勿論、水道局の他の職員も高志と同じように、各施設を走り回って対策に追われていた。
全ての施設の点検には、あと1週間は掛かりそうである。
〔4〕警視庁の対応
警視庁でも対応に苦慮していた。
まだどこも、誰も直接に被害を受けた訳では無いので、対策と言っても、都内の給水所の周りをパトロールしたり、街中で不審な人物を職質したり、不審な人物は居ないかと尋ねて廻るくらいで、それ以上の対応策は無かった。
それでも、普段のパトロールよりも人員も回数も増やしていた。
証拠品で有る手紙からは、全く手掛かりは無かった。
指紋は勿論見つからないし、紙は全国で大量に販売されているものであるし、印刷された文字はあるメーカーのパソコンで書かれ、同じメーカーのプリンターで印刷されたものである事は解ったが、これも全国で大量に売られている機種であった。
全く手掛かりが無いため、一部の幹部からは「事件が起これば、何らかの手掛かりが出てくるのにな。」と不埒な事を言うものが出てくる始末である。
その為、捜査本部は設置しないまま、現場のパトロールに当てる警官以外は、日常の勤務体制でいた。
しかし、まもなく起こるであろう事件によって、警視庁内部は混乱の渦に巻き込まれるのであった。