第四章 犯行予告
都内の給水所近くの路上に、怪人21面相と名乗る人物からの犯行予告を告げる紙が置かれていた。
その紙には「水道に毒物を混入する」と印刷されていた。
犯行の予告は世間に明らかにされてしまった。
〔1〕水道局の混乱
18日の朝、加藤家の3人はいつものように朝食を済ませて、それぞれの職場に向かった。
この日の朝、関東地方は雪が降っていた。
東京の都心でも、薄っすらと雪が積もっていた。
家には10時からの授業に間に合うように出掛ければ良い、息子の正志だけが残って、テレビを見ながら朝食を食べていた。
テレビでは今カナダで開催されている、冬季オリンピックの昨日の様子をビデオで流していた。
男子フィギュアスケートのショートプログラム競技で、日本選手が好成績を出した様子を知らせている。
その頃父親の高志は、新宿区内の水を賄う給水所に着いていた。
いつもは水道局の本局に勤務しているのだが、きょうは給水所の所長に会う予定になっていたので、直行したのだった。
給水所に着いたのは午前8時30分頃だった。
高志は、一昨日の直子の言葉が少し気になり、各浄水場や給水所の安全施設に付いて確認してみようと思い、今朝は都庁から一番近くに有るこの給水所の所長に会いに来たのであった。
高志の肩書きは水道局本局の給水部施設管理課長である。
地方の国立大学の電気工学部を卒業して、東京都の職員になり30数年の間に都内のいろいろな部署に配属されたが、今の部署に回されてからまだ2年足らずである。
その為、すべての施設について熟知している訳では無い。
ここの所長は、高志と同年の入省では有るが、同年の入省者は1000人近くいたので、同年だと解ったのは今の部署に着てから後の事であった。
高志は事務所に入って、所長の熊谷に会った。
所長室のソファーに腰をおろし、挨拶程度の話をしている時に、机の上の電話が鳴った。
電話は本局の部長から高志に掛かってきたものだった。
受話器は熊谷が取ったがすぐに「部長からあなたに掛かってきた。」と受話器を高志の方に差し出した。
高志が受話器を受け取り「おはようございます、加藤です。」と挨拶をすると部長の斉藤は「加藤君、ちょと面倒な事になった。すぐに帰ってきてくれないか。」と言って、早々に電話を切ってしまった。
高志は、何事が起きたのだろうと訝りながら受話器を置いた。
そして所長の熊谷に「何かトラブルが有ったらしいので帰るよ。ここの防犯施設について、再度確認しておいて欲しいんだ。」
「それじゃあまた。」と慌しく言い終えると、高志は急いで都庁へ向かった。
この日の朝6時頃、東の空がようやく明るくなりかけた頃、荒川の近くを一人の男性老人が犬を連れて散歩をしていた。
雪が舞い、辺りは白く雪化粧されていたが、犬の散歩は欠かせない。
この辺りの水道を給水管理している給水所の近くまで歩いて来た時、道路脇の草むらに1枚の紙が落ちているのに気付き通り過ぎようとしたが、紙に印刷されている文字のうち「21面相」という字が目に留まり、その場にしゃがみ込んで紙を摘まみ、印刷された全文を読んだ。
紙には「東京都の水道に毒物を混入する 怪人21面相」と二行に分けて印刷して有った。
老人は悪戯だろうと思い、紙をもとの位置に戻すと、犬の散歩に戻った。
家に帰る道の途中に交番が有った。
丁度、今日の勤務を始めたばかりの巡査が箒と塵取りを持って、交番の前の掃除をしていた。
この老人と巡査は顔見知りであった。
老人は巡査に話しかけた。
「おはようございます。」
「大田さん、この先を右に100メートルほど行った所に、変な事を書いた紙が落ちていましてな、悪戯だと思って置いてきたんですよ。」と先ほどの出来事を話した。
巡査は「何と書いて有りましたか?」と確認した。
「都の水道に毒を入れる。怪人21面相と書いて有りましたよ。」
大田と呼ばれた巡査は、高校を卒業してから警官になって3年目の21歳になったばかりであった。
怪人21面相に付いては全く知識が無い。
「怪人21面相てのはなんですか?アニメの主人公ですか?」
「大田さん、怪人21面相を知らんのですか。」
「今から30年くらい前に、関西の方で毒入りのチョコをばら撒いた犯人ですがな。」
「それだったら、その紙を確認する必要が有りますね。」
「そこに案内してください。」
今度は二人で現場に行き、巡査の大田は紙を交番に持ち帰り、本署の荒川署に電話連絡を入れた。
電話を受けた荒川署員が交番に駆けつけ、紙を本署に持ち帰った。
荒川署に紙を持ち帰った署員は、係長にこの紙を見せた。
この時点では、荒川署の内部で今回の一連の事件に付いて知っている者は、署長を含めて一人もいなかった。
係長の山崎は「怪人21面相」の名前は知っていた。
そこで一応課長にも見てもらおうと思い、この手紙を課長席に持っていった。
課長の大木戸は手紙を一読して「悪質な悪戯だろうが、一応保管して置け。」と命じてから、ふと思いついたように「念の為に、都の水道局に連絡して、水道に毒物を入れる事が出来るかどうか聞いてみろ。」
「安全施設がどうなっているのか、ここでは解らんからな。」と山崎に言った。
山崎は早速、都の水道局に電話を入れたが、3分ほども待たされて給水部長の斉藤につながれた。
山崎は「怪人21面相」の名前は秘したまま水道局の安全策に付いてのみ尋ねた。
部長は施設の安全性に付いて、大雑把に説明した。
二人は10分近く話して電話を切った。
部長の斉藤は、早朝の警察からの電話に戸惑ったが、この後水道局長に会う事になっているので、局長の耳にも入れておこうと思い、机の上に用意していた書類を抱えて、局長室に向かった。
朝の挨拶を済ませてからソファーに向かい合って座り、テーブルの上に抱えてきた書類を置き、斉藤は局長の大久保に、先ほどの警察からの電話の内容を話した。
大久保は先日の会議室での手紙の件を知っている。
大久保は顔に血が上って来たのか、赤ら顔になり、「警察のどこから掛かってきたんだ。」と聞いた。
「荒川署の山崎係長と言っていましたが。」
大久保は「ちょっと待ってくれ。」と言って立ち上がり、テーブルの上の受話器を取ると、知事室長に電話を掛けた。
知事室長の大野に、警察から電話が掛かって来た事を話し、知事の耳に入れるように頼んで電話を切った。
大久保は斉藤部長に「施設の安全性に付いて、至急調査しなければならん。担当課長を交えて打ち合わせをしよう。」
「すぐに全員を会議室に集めてくれ。」と命じた。
斉藤が「今日、加藤君は給水所の方に行っているのですが。」と答えた。
「電話をして、直ぐに帰ってくるように伝えろ。」
「解りました。9時半頃には全員そろうでしょう。」と斉藤は持ってきた書類を抱えて局長室を出た。
9時30分には全員が会議室にそろった。
斉藤部長が、今朝の警察からの電話の内容を説明した。
その後で大久保局長が、「これはまだオフレコだが。」と前置きをしてから、先日知事宛に同じ内容の手紙が届いている事を話した。
大久保は、会議の前に知事室長と電話で、この会議の席で手紙の件を持ち出さなければならないと説明した上で、知事の了解を取って貰った。
知事からは、会議の出席者だけに話す事を了承し、出席者には口外を禁ずるように念を押した。
この会議中に加藤は、前夜の直子の質問を思い出した。
(直子はこの事を知っていたんだ。)と思った。
この会議で決まった事は、給水所の施設の安全面に付いて、再度確認する事と、この件については絶対に口外してはならないという事の2点であった。
〔2〕流言(人の口)
警察内部は勿論、都庁及び水道局でも手紙の件は秘匿された。
しかし関係者以外で一人だけ、この件を知っている人がいた。
18日の朝、犬を連れて散歩をしていた男性老人である。
この老人も巡査から、この件について口外しないように言われていたのであるが、喋るなと言われれば喋りたくなるのが人間というものである。
翌日の午前10時から、月に一度の町内の老人会の集まりがあった。
この会は、ただ集まって、日頃話し相手の少ない老人たちが、愚痴や孫の話、年金や病気の話をするだけである。
この席で、たまたまミネラルウオーターの話が出た。
その内容は、どこそこのミネラルウオーターが美味しいとか、あのメーカーのミネラルウオーターをスーパーで安売りしていると言うものであった。
その時に例の老人はつい、昨日の朝の手紙の話をしてしまった。
この時には、後で大変な騒ぎになるとは予想もせずに、話の種として話を持ち出したのである。
老人たちは皆、昔関西で騒がれた「怪人21面相」の名前は知っていた。
「悪戯だろう。」と言うものもいたし、「本当にそんな事ができるのか。」とか「犯人の狙いは何だろう。」とそれぞれ好きなことを言って時間を潰していた。
そのうちに昼食の時間が来たので、それぞれの家に帰って行った。
この時の二十数名の頭の中に、秘密の話は吸収されたのであった。
この時から、秘密の話は鼠算式に世の中に広まって行くのであった。
18日の夜帰宅した高志は上着を脱ぎながら、「直子はもう帰って来てるのか?」と妻の洋子に尋ねた。
「ええ、食事を済ませて部屋にいるわ。」と夫の食事の準備をしながら答えた。
「ちょっと直子に教えて貰いたい事が有るので、食事は後で食べるよ。」と言いながら二階への階段を上がって行った。
高志は直子の部屋の外から、「直子、ちょっといいか?」と尋ねた。
「あら、お父さん、お帰りなさい。」と言いながらドアを開けた。
「ちょっと聞きたい事が有るんだけど良いか。」と言いながら、部屋に入って後ろ手にドアを閉めた。
直子が成人してからは、父が自分の部屋に来た事は無かったので、直子は何事かと少し身構えた。
「昨日の晩、直子が水道に異物を入れると言った事だが、直子は何か知事室で起きた事を知っているのではないか?」と尋ねた。
直子は驚いて、「お父さんこそ、何か有ったの?」と反問した。
「多分、直子も知っているだろう事だから話すが、この事はお母さんにも正志にも、誰にも言わないで欲しいのだが。」と前置きして今日の手紙の事を話して聞かせた。
その後で直子も、先日の手紙の騒動の様子を父親に話した。
双方の話はここで結び付いた。
20日の土曜日の昼頃、渋谷駅近くの路上でクレープを食べながら歩いていた、一人の女子高生の携帯にメールが入った。
「ジュン、水道に毒を入れるって話知ってる?」
ジュンと呼ばれた女子高生は「それって何?」とメールを送り返した。
「噂だけど、怪人何とかってのが水道に毒を入れるって言ってる人がいるのよ。」
「うそー、やだー。そんなこと誰が言ってるのよ。」
「何人も聞いた人がいるのよ。」
彼女たちの右手の親指は、魔法を使っているかのように素早く動いている。
ジュンは「本当にそんな事が出来るの? だったら水道の水、飲めないじゃない。」
「今はまだ大丈夫だろうけど、これから入れるって事じゃないの。」
二人のメールでの会話はいつまでも終わりそうにない。
この後、土曜日、日曜日の二日間、都内の各地でこの話は会話と電波とで広まっていった。
〔3〕マスコミの対応
21日の日曜日、東京中央新聞社会部副編集長の佐久間雄大は、久し振りに休日となったこの日午後4時頃まで寝ていた。
今年43歳になる雄大も、近頃は連日の深夜の帰宅は体に堪えていた。
雄大が目覚めた時、家には中学1年生の息子の広海が居間のテレビを見ていた。
「よお、今日はどこにも行かないのか?」と雄大はテーブルの上に置かれた新聞の山の中から、自社の新聞を取り上げながら声を掛けた。
この時、妻の美紗子は夕食の食材を買いに出て留守だった。
息子の広海は、テレビのバラエティー番組を見ていたが、毎週土曜日に通っている塾で聞いてきた話の真意を確かめたくて、その話を父親に話し始めた。
「昨日塾の友達が言ってたんだけど、怪人21面相って人が水道に毒を入れたとか、入れるとかいう話が広まってるらしいんだ。」
「新聞社にそんな話は入ってない?」と父親の顔を伺った。
雄大は「そんな話は聞いてないな。」
「友達は誰から聞いたのかな?」と質問した。
「4人位の子が行ってたんだけど、みんな携帯のメールを見て知ったらしいよ。」
雄大は「広海は怪人21面相って知っているかな?」と新聞から目を離しながら聞いた。
「そんなの聞いた事が無いし、アニメにもそんなのいないよ。」
雄大は新聞をテーブルに置いて、「友達の中で、もっと詳しく知っている子はいないかな。」
「例えば、どこかに電話が掛かって来たのか、手紙が着たのか、といった事だが。」と広海に尋ねたが、「だれもそんな事は知らないと思うよ。みんな携帯のメールで見たと行ってたから。」と広海は答えた。
雄大は「そうか、だけど広海は誰にもそんな話をしたり、メールを送っては駄目だよ。」「だれかの悪戯だと思うから。」と息子を諭した。
雄大は、怪人21面相に付いての会話はこれで切り上げて、後は息子の日常生活に付いての質問に話題を変えた。
22日月曜日の朝、東京中央新聞社会部に出社した佐久間は、副編集長の自席に座ると、目の前の席に出社してきたばかりの社会部記者の板谷啓介に声を掛けた。
「昨日、うちの息子から聞いた話なんだがね、怪人21面相が都の水道に毒物を混入するという噂が広まっていると言うんだが、君は聞いた事が有るか?」と切り出した。
「いえ、聞いてませんよ。」と板谷が答えると同時に、板谷の隣席にいた山下達夫が「そういえば昨日、女子高生がそれらしき話をしていましたよ。」と口を挟んできた。
「チラッと怪人21面相とか言っていたので、小説の話でもしているのだろうと聞き流していたんですが。」と弁明した。
板谷は「誰かの悪質な悪戯でしょう。」と言いながら受話器に手を伸ばした時、佐久間が命じた。
「一応、警視庁記者クラブの皆藤に確認を取ってくれ。それから君は都の水道局に施設の安全性に付いて責任者の話を聞いてくれ。」
「至急にたのむ。」と念を押した。
それから、山下には「街中でどのくらいの人が、この話を知っているのか調べてくれ。」
「若者の間で広まっているようなので、情報の発信者を突き止める作業をしてくれ。」と命じて、自分は編集長席へと歩いて行った。
警視庁記者クラブの皆藤は、公安部の捜査員の飯田に「今、本社から『怪人21面相』と名乗る者が、都の水道に毒物を混入するという噂話が広まっているので確認しろと連絡が有ったのですが、情報は入っていますか?」と尋ねた。
飯田は「俺はそんな話は聞いて無いぞ。どこから入手した話だ。」と逆に質問した。
「なんでも、中、高生の間で広まっているらしいんだ。」と皆藤は答えた。
「それは餓鬼の悪戯だろう。」と言いながら椅子から立ち上がった。
皆藤は話を続けて「上にもそんな話は入ってないですか?うちも今、都庁の方も当たっているんですよ。」と促した。
飯田は「あとで課長に聞いてみるよ。」と言いながら部屋から出て行った。
一方、都庁に付いた板谷は、知り合いの都の広報を担当している朝倉に面会して「巷で都の水道に毒物を混入すると言う噂が有るが、こちらに何かアクションが有ったのではないか?」と確認した。
しかし朝倉は、手紙の件に付いて全く何も知らされていなかった。
「そんな話は聞いたこと無いぞ。」とそっけ無く答えた。
「中高生の間で、そんな噂が飛び立っているらしいんだ。都庁の中で誰か知って居る者がいないか調べてくれないか。」と朝倉に頼み込んで、板倉は本社に帰った。
街中に出た山下は、渋谷と新宿の若者がたむろしている所に行っては噂話を知っているかどうか、誰から聞いたのかと尋ねて歩いた。
その結果、あるグループではほぼ全員が知っていて、そのほとんどがメールでの交信で知り、連絡相手は全員同年齢の友人からのものだった。
またあるグループでは、全員が話を聞いたことは無いと言った。
その話を知っている人には、聞いた相手が誰から聞いたのか連絡をして貰ったが、いずれも同年代の友人から聞いた事が解っただけであった。
結局、情報源を特定出来ずに山下も本社に戻った。