第二章 知事の決断
単なる悪戯とするのか、警察に届けるのか。
知事と幹部職員の決断はどのようなものになるのか。
2月16日は早朝より全局長が集まり結論を出さなければならない。
〔1〕知事の苦悩
16日朝8時30分に会議は始まった。
ドーナツを引き伸ばしたような形の長さ10メートルほども有るテーブルの周りに都知事の合田を始め、三十数名の局長が全員集まった。
中には出張中の局長も予定を変更して、飛行機や寝台特急で帰ってきた者もいた。
知事室長の大野が昨日の顛末を説明し、今後の対応についての方策を全局長に対して発言を促した。
しかし誰からの発言もなかった。
全員が腹の中では、「くだらない問題で呼びつけやがって。」と思う一方、「万一誰かが毒物を水道に混入したら、大変な騒ぎになる。」と考えているので、迂闊には発言出来ないと思っている。
会議が始まってすでに20分になろうとしているのに、誰も発言しようとしなかった。
突然、知事の合田が口を開いた。
「やはりこれは警察に届けるのが最善の策ではないかと思いますが如何でしょうか。」
すると堰を切ったように、知事の隣の椅子に座っていた副知事の遠藤が「警察に届けた場合には、世間に混乱の種を撒く事になるのではないでしょうか。」と反論した。
「それはまず警察に事実を届けて、今後の方策に付いて相談すると言う事です。」と知事が説明を加えた。
副知事の遠藤は「なるほど。」と独り言のように頷きながら、椅子の背もたれに寄りかかった。
その後も数名の局長の発言も有ったが、いずれも結論を引き出せるものではなかった。
結局、知事の発言に依る「警察に届けて、相談する。但しこの事については外部に口外してはならない。警察にも秘匿して貰うように、特にマスコミに漏れる事の無いようにして貰う。」という結論になった。
警察への対応は、知事が電話で友人である警視総監に直接話し、その後で知事室長の大野が警視庁公安部長の広瀬に面会して、対策を考えるという事になった。
会議は午前10時に終わった。
知事の合田は、早速警視総監の上田に電話を掛け、手紙の内容について説明し、大野と公安部長との早急な面会を頼んだ。
公安部長への面会は、午後1時からに決まった。
大野は昼食を早めに済ませ、12時20分に都庁の玄関から公用車で、霞が関の警視庁に向かった。
12時50分に警視庁の玄関に着いた大野は受付で、公安部長への面会を取り付いて貰った。
すでに連絡が受付に届いていたのであろう、私服のスーツを着た女性が受付に来て「部長は応接室でお待ちしております。」とエレベーターまで先導し、エレベーターを呼ぶボタンを押した。
エレベーターで8階まで上がり、廊下の中ほどに有る応接室に入った。
公安部長の広瀬は、やや肥満気味の体をソファーから持ち上げ、お互いに名刺を交換した後に、女性職員がお茶を持って来るまでは、何気ない世間話をしていた。
2分ほどして女性職員がお茶をテーブルに置いて出て行った。
それを待って大野はカバンの中から封筒を取り出してテーブルの上に置き「これが問題の手紙です。」と広瀬の方に押し出した。
広瀬はポケットから白い手袋を出して両手に嵌めた。
この時に大野は、この手紙には多くの指紋が付いている事に気が付いた。
広瀬は封筒の表裏を見てから、中の紙を取り出して読んだ。
警視総監からの連絡で、広瀬はすでに昨日からの顛末を聞いているので、お互いに話す必要は無い。
それでも大野は「まだ外部には漏れていませんので、くれぐれもマスコミには漏れないようにお願いします。」と念を押した。
「解りました。これは一応指紋の照合をしたいので、都庁の方でこれに触った方の指紋の採取に協力してください。」
「後ほど鑑識を都庁の方に極秘に行かせますので。」
「それでは、受付に連絡を入れておきますので、私の名前で面会をするようにお願いします。」
大野と広瀬の面会はわずか10分ほどで終わった。
午後3時頃都庁の受付にスーツ姿の二人の男が現れ、知事室長の大野に面会を申し入れた。
連絡が入っていたので有ろう、女子職員はエレベーターで15階に有る知事室長の部屋に行くよう案内した。
知事室長は二人を応接室に案内した後、昨日より例の手紙に触れた職員に順番に応接室に行くよう指示した。
手紙に触れた順番は、開封した直子、次に隣席の大場、係長の今井、課長の渡辺、室長の大野、そして都知事の合田である。
二人の男は、この6名の指紋を採取した。
指紋の採取は黒っぽいスタンプ台に、右手の親指の第一関節を押し付け、その指を台紙に印刷された右手親指の枠内に、指の外側から右に捻るように押し付けて採取する。
順番に一本づつ採取してこの作業は終わる。
1持間ほどで6名全ての指紋を採取した二人の男は帰って行った。
しかしながら、この6名以外にも例の封筒に触ったものが少なくとも二名はいた。
一人はこの封書を配達した、郵便局の職員で、あとの一人はそれを受け取った警備員である。
この日、警備員は非番であった為、指紋の採取は出来なかった。
その為、警察の係官は二人の自宅に出向いて、指紋の採取を行った。
こうして、この封筒に触れたと思える人物の全ての指紋採取を終えて、封筒に付いている指紋の中から犯人の物と思える指紋を探したのである。
しかしながら、それらしい指紋は出てこなかった。
〔2〕秘密の保持
知事宛の手紙を開封した15日に直子は、夕方まで落ち着かず仕事に身が入らないので定時に退庁した。
家の玄関から台所に入ると、直子が「ただいま。」と言う前に、母親の洋子が包丁で野菜を刻みながら、「あら、今日は早かったのね。体の具合でも悪いの。」と声を掛けた。
直子はいつもは残業をしない時でも、同僚と喫茶店で他愛無い話をしたり、新宿か渋谷の街をぶらついてから家に帰ってくるので、家に着くのは午後7時を過ぎる事が多いのである。
今日はいつもより1時間ほど早く帰ってきたのである。
母親がいぶかるのも当然である。
「ううん、今日は仕事が早く片付いたので定時で帰ってきたの。」と直子は誤魔化した
「そう、それならいいんだけど。」と洋子は言いながら、刻んだ野菜を鍋に入れて炒め始めた。
「今晩のおかずは何?」と聞きながら直子はコートを脱いで、ソファーの上にたたんで置いた。
「今日は八宝菜にしたのよ。」
「うわー、中華は久し振りね。」と直子はわざと大袈裟に喜んでみせた。
「お父さんは今日遅いの?」
「そうね、いつも月曜日は遅いわね。」
「じゃあ、二人だけね。」と確認して、母親と自分の箸を食卓に並べて、自分の席に座った。
弟の正志は授業が終わってから、渋谷の居酒屋でアルバイトをして、賄いの夕食を食べてから帰ってくるので、家族と夕食を共にする事は少ない。
その日、直子は母親と二人だけで夕食を済ませた。
16日、直子は1時間残業をして退庁した。
前日は仕事がはかどらなかった為に仕事が溜まっていた。
その為、今日は寄り道をせずに家に帰った。
玄関を入った時にテレビの7時の時報が聞こえた。
「ただいま。」といいながらコートを脱いでソファーの上に置き、食卓の椅子に座った。
今日は集中して仕事をしたので疲れていた。
職場では何事も無かったように、全職員は仕事をこなしていた。
緘口令が出ているので、お互いにその事に触れようとしないが、心の中ではその後の進展が気になっているのである。
直子が椅子に座って、お茶をすすっている時に父親の高志が玄関のドアを開け「ただいま。」と部屋に入ってきた。
高志は8時頃に帰ってくることが多いのであるが、今日はいつもより少し早かった。
「今日は3人で食事が出来るわね。」と洋子は嬉しそうに言った。」
直子が「今日はカレーね。」とコンロの方から匂ってくる香りを嗅ぐように顔を向けて言った。
直子は立ち上がって、キッチンの食器棚から3枚の皿と、3本のスプーンを取り出して、スプーンは食卓の上に並べ、皿をカウンターの上に置いた。
洋子がそのうちの1枚を取って、ご飯を炊飯器から盛って鍋のカレーを掛けカウンターの上に置いた。
それを直子が父親の前に運んだ。
2枚目の皿を直子は自分の席に運んだ。
洋子は3枚目の皿を盛り付けると鍋の蓋をして、自分の席に持って来て椅子に座った。
「いただきます。」と三人はスプーンを取って、カレーを食べ始めた。
直子はテーブルの中央に置かれているサラダボールに盛られた生野菜を小鉢に取って、フレンチドレッシングを掛けた。
直子は昨日から例の事件に付いて、誰かに聞いてもらいと思っているのだが、緘口令が出ているので家族にも話せない。
だが父親が水道局に勤めているのだから、もし犯人が本当に水道に毒物を混入した時には、一番にその影響を受ける立場にいることに思いつき、何気なく父親に話掛けた。
「お父さん、日本くらい水道水が安全で美味しい水を飲める国は無いと思うんだけど、安全性はどうやって守られているの?」
食事時には相応しくない、直子の突然の質問に高志は「いきなり難しい質問をするなー。」
直子はやや慌てて、「ううん、外国では水道水でも生で飲めない国が多いでしょ。」
「今このコップの水を飲んで気付いたのよ。」
「川を流れてきた水を浄水場で消毒して、水道管の中を通って、家の蛇口から出てくるでしょう。」
「途中で異物や危ない物を入れられる恐れはないの?」
「それは大丈夫だよ。」
「浄水場や給水所の周りはフェンスで囲って有るし、警備システムをほどこしているから、誰も入れないようにしているよ。」
「異物は全部浄水場の中で取り除くようになっているし、給水所から先は鉄パイプの中に入って地下道を通って家まで送られているからね。」
反論するように直子は「でも鉄パイプに穴を開けて何かを入れることって出来ないの?」と聞いた。
「あっはっは、鉄パイプに穴を開けたら水圧で水が吹き出して、何も中に入れる事は出来ないじゃないか。」
「あっ、そうか。そうだよね。」
直子は納得したようにこの質問を取り下げて、話題を変えた。
後日、高志は直子のこの日の質問を思い出し、戦慄を覚えるのであった。