第一章 都知事への手紙
東京都庁には「上水道に毒物を混入する。」と書かれた手紙が届いたが都知事はどのような決断を下すのか。
犯人の目的は何だ?
[1] バレンタインデー デート
2010年2月14日、この日はバレンタインデーで、都内の百貨店やケーキ店はチョコレートを買い求める女性で賑わっている。
東京都庁知事室に勤める女子職員の加藤直子は、午前10時過ぎに渋谷駅近くのケーキ店でチョコレートを四つ買った。
一つはこの後、一緒に昼食を取る予定の、同じ職場に勤める独身男性職員の大場健一に渡す為のチョコで、1箱5000円もするチョコの中にウイスキーの入った高級なものだ。
もう一つは自分で食べる為の、1箱2000円の可愛い箱に入ったものだ。
残る二つは父と弟にあげる為に買った。
四つのチョコを店のロゴを印刷した小さな手提げの付いた赤い紙袋に入れてもらって、直子は渋谷駅に向かって歩いた。
待ち合わせは代官山の駅から坂を下った所に有る、店の構えは小さいが、女性に好まれそうな洒落たデザインのイタリアンレストランだった。
東横線に乗って行けば一駅だったが、待ち合わせの時間には早すぎるので、直子は歩いて行く事にした。
先週は春のような陽気の日が続いていたが、この日はこの時期相応の気温で、直子は白色のブルゾンにピンク色のマフラーをして、手袋をはめた右手にチョコの入った手提げ袋をぶら下げ、左の肩にはショルダーバッグを掛けて渋谷の街のウインドウを眺めながら、代官山を目指して歩いた。
待ち合わせの店には11時30分頃に着いたが、大場はまだ来ていなかった。
直子は店の一番奥にある、ガラス越しに外の景色を楽しめるテーブル席の奥側の椅子に座り、店の入り口の方に注意を払いながら、注文を取りにきた女子店員に「すぐにもう一人来ますので、その時に注文します。」と断り、店員が置いていったグラスの水を一口飲んだ。
渋谷から1時間ほど歩いてきたので、喉が渇いていて、水が美味しく感じた。
5分ほどしてから大場はドアを開けて店に入ってきた。
直子の他に5組ほどの客がいたが、大場は直ぐに直子を見つけて大股に歩いて、店の一番奥の席まで来て、直子の向かいの椅子に座った。
直子の身長は162センチ、大場の身長は178センチで、同じ高さの椅子に座っても10センチ以上の差が有り、直子が大場の顔を見つめる時でも、直子は大場の顔を見上げなければならない。
「待たせたね。」と大場が言った時に、先ほどの店員が注文を取りに来た。
大場がメニューを受け取り、「今日のお勧めメニューは何?」と店員に聞いた。
「お昼のお勧めコースはいかがでしょう。」と言いながら、店員はメニューの右上の方を指差した。
そこにはメインディッシュに肉を使った料理と、魚介類を使った料理の2種類のコースが書いてあった。
大場は肉を使った料理を頼み、直子は魚介類の料理を注文した。
女子店員が去ると、直子は右隣の椅子にたたんだ上着の上に置いていた小さな紙袋を膝の上に置き、中から先ほど買ってきたチョコのうち一つを取り出し、「今日はバレンタインデーだから、受け取って貰えるでしょう。」と大場の前に差し出した。
大場は「有難う。君からのチョコが一番嬉しいよ。」とチョコを受け取った。
「金曜日には沢山いただいたのでしょう?」
最近は土、日と連休の職場が多いので、バレンタインデーが休日に重なると、その前の出勤日に渡す人が多いらしい。
独身でプロポーションも良い大場は、知事室内の女性だけでなく、他の部署の女性にとっても憧れの的になっているらしい。
大場は広島県の宮島の生まれで、実家は今でも両親とパートの主婦二人で宮島で土産物店兼食堂を営んでいる。
宮島にはこうした食堂を兼ねた土産物店が多い。
食堂では瀬戸内海で採れる、あなごやカキ、さざえ、あさりなどを使った料理のメニューが並んでいる。
大場は広島市内の高校を卒業してから、都内の有名私大の経済学部に入学して、4年間は家庭教師のアルバイトをしながらアパート暮らしを続けた。
その間に税理士試験の勉強をして、4年在学中に全ての科目に合格したが、税理士事務所には就職せずに東京都の試験を受け合格し、今は都庁の職員として知事室に勤務している。
都庁に勤め始めて5年目になるので、大場は今27歳である。
先ほどの店員がパンとスープを持ってきたので、二人は食事を始めた。
スープは魚介類で出汁を採ったスープだった。
スープを3回ほどすすった頃に前菜を届けられた。
大場は「食事のあと、映画を観に行かないか?」と切り出した。
「3Dの『アバター』、まだ観ていないんだ。」
「君はもう観た?」
「私もまだ観てない。」
直子はナプキンの端で口を少し押さえながら答えた。
「それなら食事の後で渋谷に行こう。」と言いながら大場は前菜の内の一つをフォークですくって口に入れた。
レストランで1時間ほどの時間を掛けて、二人は食事を済ませた。
食事を済ませた二人は、代官山の駅から電車で渋谷に向かった。
渋谷で映画を観て、映画館を出ると5時を少し廻っていた。
直子が「今晩は家族揃って食事をする事になっているのよ。」
「それに父と弟にもチョコを買っているの。」と赤い小さな袋を大場の前に差し出した。
大場は山手線の代々木駅から歩いて20分程の所に有る、都の独身職員の入る官舎に住んでいる。
直子は東横線の新丸子駅から歩いて15分程の所に有る、住宅街の両親の家から通勤している。
二人は渋谷駅の構内で別れて、それぞれの乗る電車の改札口へと歩いた。
二人は明日から起こるであろう大変な事件など予想も出来ずに、今日のひと時の小さな幸せに顔を火照らせて家路に向かうのであった。
[2] 平和な朝
15日月曜日の朝、直子はいつものように6時に起床した。
ベッドから降りて、パジャマの上に半纏を羽織った。
直子は冬季にはいつも家では半纏を愛用している。
両親は10年前に、中古ではあったが新築後5年しか経っていないこの家を購入し、二階の一部屋を直子の部屋に決めてくれたのである。
二階のもう一部屋は、弟の正志の部屋で、階段を挟んだ位置に有るので、あまり物音が聞こえない構造になっている。
二部屋とも広さ6畳ほどの板張りの洋間で、共にベッドで寝るようになっている。
弟の正志は今、都内の私立大学の2年で電気工学部に通っている。
直子は階段を降りて、「おはよう。」と言いながらキッチン兼居間にしている12畳ほどの洋間に入った。
食卓には、母親の洋子が用意したトーストとハムエッグに野菜サラダが並んでいる。
食卓は椅子を4脚並べたテーブルで、少し離れた所には低めのソファーが置かれ、こちらはテレビを見るために都合の良い位置に並べてある。
子供たちはいつも自分の部屋でテレビを見るのだが、朝は全員忙しく、この部屋のテレビは音声を聞くだけという状態である。
今も、いつも点けている朝の番組が、昨日の冬季オリンピックのスキー競技のハイライトを流している。
母親がコーヒーを入れながら、「上村愛子は良く頑張ったのに惜しかったねえ。」と言いながら、直子の前にコーヒーカップを置いた。
直子はトーストを千切りながら、「でもオリンピックに4回も続けて出るだけでも素晴らしいことよ。」
「1回でもオリンピックに出るだけでも、大変な努力が必要だと思うわ。」
「本当にそうだわね。」と相槌を打ちながら、母親も椅子に座って食事を始めた。
洋子も午前中は、近くのスーパーでレジ係りとして働いているので、この後に起きてくる主人の食事の支度をして、すでに作動している洗濯機の洗濯物を干してから出かけるのである。
洋子は洗濯物は太陽の日差しと、屋外の風に当てないと清潔に成らないと思っていて、乾燥機は使わない主義である。
直子が食事を終えコーヒーを飲み干した所に、父親の高志がテレビの側に有る夫婦の寝室へのドアを開けて台所に入ってきた。
「おはよう。」と直子が声を掛けると、高志も「おはよう、今日は少し冷えるね。」と言いながら、食卓の上に置いてある朝刊を手に取りながら、ソファーに座った。
高志は今56歳で、直子と同じように東京都の職員で水道局に勤めている。
地方の国立大学の工学部を卒業して、東京都の職員になり、すでに35年近くになる。
色々な部署に移動したが、水道局に勤めだしてからは3年目である。
直子は食事を済ますと、風呂場の入り口の脱衣場に有る洗面台に向かい、歯を磨き始めた。
洗面を済ますと二階の自室に戻り、すばやく薄化粧をほどこして、スーツに着替えた。
都庁の有る新宿まで1時間ほどの通勤時間であるが、直子はいつも朝7時には家を出る事にしている。
たまに電車の故障や事故が有ったり、冬季には雪の影響で電車が止まる事も有り、遅刻するのが嫌なので早めに家を出るようにしている。
今日も7時に家を出て、新丸子の駅に向かった。
[3] 知事室の困惑
2月14日は日曜日の為、郵便物は受付の警備を担当している窓口に届けられる。
この日、10時過ぎに他の郵便物と一緒に、1通の速達が届けられた。
丁度直子が洋菓子店でチョコを買っていた頃である。
15日の朝8時過ぎに直子は都庁の職員入り口に着き、いつものように警備の職員から知事室あての郵便物を受け取った。
13、14日と連休だった為、かなりの量の郵便物が届いていた。
直子は知事室内の庶務を担当させられていた。
直子は都内に有る女子大の短期大学を卒業して、東京都の試験を受けて、無事に就職することが出来たが、父親が都の職員で有ったことが選考に有利に働いたことは事実であろう。
都庁で働きだして4年目である。
部屋の自分の机に大量の郵便物を置き、隣室に有る自分のロッカーに上着のコートとセカンドバッグを入れて鍵を掛け、給湯室に行って職員の為のお茶の準備を済ましてから机に戻った。
まもなく他の職員と一緒に大場健一が部屋に入ってきた。
互いに「おはよう。」と挨拶を交わしながら、直子は椅子から立ち上がって、お茶を入れる為に給湯室に向かった。
五人分のお茶を盆にのせて、三人の職員に配り、最後に大場の机に湯飲みを置き、自分の湯飲みを取り上げた時に大場が「昨日は有難う。」「家に帰ってから、早速いただいたよ。」と直子の目を見ながら言った。
「どう、美味しかった?」
「うん、ウイスキーが入っていたので甘すぎず、美味しかったよ。」
お茶をすすりながら、大場は机の引き出しから書類を取り出しながら言った。
直子も郵便物の山を机の右端に移動しながら、お茶を一口すすった。
二人はそれぞれ自分の仕事を始める為に、頭を切り替えた。
直子は郵便物の仕分けを始めた。
郵便物のほとんどのものは都知事宛にはなっているが、必ずしも全てが知事に届けられるものではない。
親展と表記されたものは開封せずに知事に届けることにはなっているが、中に危険なものが入れられているかも知れない。
親展以外のものは、差出人の名前を確認し、控えのノートに書き写してから開封する。
商品の紹介のようなものは、直子の一存で処分するものもある。
処分する時には、封筒はシュレッダーで粉砕するが、中の紙は古紙としてまとめて集積所に届けなければならない。
こうした作業をしている時、一通の封書を手に取り開封した。
速達の朱印が押された封書で、表にはパソコンのプリンターで印刷されたらしい活字で、知事宛になっている。
裏には都内の住所、番地と人名と思われる名前が印刷されている。
中には1枚の白い紙が入っていて、そこには「東京都の水道に毒物を混入する」とだけプリントされていた。
直子は一瞬、これは誰に届ければ良いのかと考えたが、すぐに隣の大場にこの紙を渡した。
「こんな手紙が来ているけど、どうすれば良いの。」
大場は、手紙を受け取って、一行だけの文字を読んだ。
「これは悪戯だろう。」
「でも本当だったら大変な事になるわ。」
「それはそうだけど、何の為にこんな事をするんだ。」
「私のお父さんが水道局に勤めているの、知ってるでしょう。」
「ああ、そうだったな。」
「これ課長さんにも見てもらったほうが良いんじゃない。」
「そうだな、一応見てもらってくるよ。」と言いながら大場は課長席の方に目をやった。
しかし課長席は空席だった。
「係長に見てもらうよ。」と言いながら、大場は椅子から腰を上げて、係長の方に歩いて行った。」
「係長、こんな手紙が届いているのですが。」と言いながら紙を係長の今井に手渡した。
「いたずらだとは思うのですが。」
今井は渡された手紙を読むと「何だこれは、悪質な悪戯だろう。」と言い放った。
「しかし係長、もしもこれが本物の脅迫状で、本当に実行されたら大変な事になります。」
「それに上に報告をしていなかったら、後で責任を問われますよ。」
「それもそうだが、悪戯で済んだらもの笑いの種にされるぞ。」
「一応課長に相談されたらどうでしょう。」
「そうだな、そうしてみるか。」
「課長は今どちらですか。」
「今日は幹部会で第二会議室だ。」
「会議室に連絡しますか。」
「いや、後30分ほどで帰ってくるから、それからで良いだろう。」
「それではこの件は係長から課長に報告していただけますか。」
「仕方ないな、僕が報告するよ。」
「宜しくお願いします。」
大場は今井係長の席を離れて自席に戻った。
その間直子は成り行きを自席から係長席の方を伺っていた。
大場が帰ってきたので、「ねえ、どうなったの。」と小声で聞いた。
「うん、一応課長に見てもらう事になったよ。」
「もしあれが本当の事だったら、どうすれば良いの。」
「悪戯であることを祈るよ。」
二人とも手紙の事が気になって、仕事がはかどらない。
それから30分ほどしてから課長の渡辺が会議室から帰ってきた。
係長は自席を立ち、課長席に向かった。
「課長、こんな手紙が届いたのですが、悪戯だとは思うのですが。」と恐る恐る切り出した。
課長の渡辺は、机に置かれた手紙に目を通すと、「今井君、これは何だね。誰が送ってきたんだ。」とあたかもこの手紙を今井が書いたような目で、今井の顔を見た。
今井は慌てて直子の方を見て、「加藤君、送られてきた封筒を持ってきたまえ。」と部屋の反対がわにいる直子に命令した。
直子は慌てて封筒を課長席に届けた。
渡辺課長は、封筒を受け取り都知事宛の表書きを見た後、封筒を裏返して差出人の住所、氏名を確認した。
都内に有る町名が書かれているが、差出人の名前は「山田太郎」という少し古めかしい名前であった。
いま50歳以上の人には懐かしい名前だと思う。
何年前になるのか忘れたが「新聞少年」という曲を歌って、テレビにも良く出ていた歌手の名前が「山田太郎」だ。
課長は腕組みをしたまま黙り込んでしまった。
係長の今井は、課長が黙り込んでしまった為、言葉を発することが出来ない。
直子は封筒を届けて直ぐに自席に戻ったが、成り行きがきになって座ったままで、ちらちらと課長席の様子を盗み見たり、隣の大場の横顔を見たりしていた。
暫く考え込んでいた渡辺課長は「これは私の一存で決める訳にはいかないな。室長と相談してくるよ。」と今井に言った。
封筒と便箋を持って椅子から立ち上がり、渡辺は知事室長の部屋の方に数歩歩きかけたが、「そうか、室長は外出してるんだった。」と独り言のようにつぶやいて、また自分の椅子に座り直した。
室長が部屋に帰ってきたのは終業時間間際の午後4時過ぎであった。
渡辺は再び封筒と便箋を取り上げ、室長室のドアを開けて入っていった。
渡辺は室長の大野に今日の経緯を手短に説明し、今後の対応について室長の支持を仰ぎたいと室長の言葉を待ったが、室長の大野も考え込んでしまった。
しばらくして大野は「これは私一人で対処できる問題ではない。知事や局長クラスの人の意見も伺ってみない事には、決められる問題ではない。」
「但しこのことは決して口外しないよう、室内の全員に命令しておきなさい。」と渡辺に命令し、知事室への内線電話の受話器を取り上げた。
渡辺は事務室に帰り、早速全室員に大野からの命令を伝えた。
室長の大野は、幸い在室中の都知事の合田剛太に面会し、封筒と便箋を見せて、今後の対応に付いて相談を持ちかけた。
大野は「この事実を警察に連絡するべきでしょうか?」と知事に聞いた。
「単なる悪戯かも知れませんが、万一の事を考えると何もしない訳にはいかないと思うのですが。」
「局長クラスの方にも相談してみますか?」
無言のままの知事に大野は話かけるが、知事の合田は言葉を発しないままだ。
やっと口を開いた合田は「今から招集して、何人の局長が集まるかな?」とつぶやく様に言った。
大野は立ち上がり知事の机の上においてある電話の受話器を取り上げて秘書室に内線を掛けた。
秘書室員に各局長に召集の連絡を取るように命じた。
しかしながら今から来ることが出来る局長は二人だけであった。
改めて知事の合田は、明朝8時30分に会議室に全局長に16日のスケジュールを全てキャンセルして集まるようにとの命令を連絡させた。
こうして波乱の幕開けとなる知事室の一日は解決策を見つける事も出来ずに終わった。