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1-2 思索

『エゴイストの慟哭』第一話の第二章です。

 放課後、(たちばな)さんは図書室にいた。

 入り口に背を向け、椅子に座って大人しくしている。

 握りしめた手に力が入る。肩にかけた学生鞄がいやに重い。

 音を立てないように大きく息を吐き出して、それから、一歩踏み出した。

「ごめん、橘さん。お待たせ」

 声をかけると、ツインテールの垂れかかった小柄な背中が動く。

「先輩!」

 振り返った橘さんはやはり、笑顔が上手だった。

 橘さんが隣の椅子を引いて、座るよう勧めてくれる。お礼を口にして腰かけると、橘さんが参考書をぱらぱらとめくり始めるのがわかった。机の上にはノートも置かれている。

 一瞬だけ見えた表紙に、一年と書いてあるのが見えて、そういえば橘さんは僕を先輩と呼んでいるなと思いつく。

 一年の範囲ならそこまで難しくないから、きっと教えるのには苦労しない。

「それで、どこがわからないの?」

 僕が参考書をのぞき込もうとすると、橘さんはうつむいてしまった。

 何かを言いにくそうにして話せないようで、もじもじしている。

 その様子で撫子のことを思い出して落ち着かない感覚になってしまい、目をそらしてペンケースとルーズリーフの束を取り出した。

「えっと……」

 橘さんが言葉を発しかけたそのとき、ようやく気がついた。

 ――見られてる。

 本棚の間、図書室外の廊下、カウンター、階段。どこからともなく飛び交う視線。

 ただの勉強会なのに?

「……場所、変えよう」

 小さく言うと、橘さんは困った顔でうなずいた。


 学校から離れたファストフード店。

 ここまで来れば、さっきのような注目はないだろう。

 大きくないテーブルに飲み物を載せたトレイを置いて、それぞれ椅子に座った。

 二人用の席を選んだけれど、こういう席はどうしても向かい合わせだ。

「ごめん、図書室でも注目されるとは思わなくて……」

「だ、大丈夫です!」

 可愛らしい見た目のドリンクの前で、橘さんがぱたぱたと両手を振った。

「こちらこそ、気を遣わせちゃってすみません」

 ぴょこりと下がる頭を見ながら、何とも言えずそのつむじを見る。ツインテール、どうやって結んでるんだろう。

 その頭がゆっくり上がると同時に、沈んだ声がぽつりとテーブルに落ちた。

「あたし、何しても目立っちゃうみたいなんです」

 (まさ)(たけ)が橘さんを『学校のアイドル』と呼んでいたことを受けると、確かにそのようだ。

 しかし一転、彼女はからりと笑った。

「だから、(ひろ)()先輩に迷惑かける前にここに来れて、よかったですっ」

 そう言って、えへへ、と髪を揺らした。

 ちゃっかり僕を名前で呼んでいるし……。

 僕からすれば、昨日呼び出された時点で迷惑をかけられた気がしているけれど。人と話すことに抵抗のなさそうな彼女に、そんなひねくれた発想はないのかもしれない。

 ホットコーヒーとソーダフロートが並ぶテーブルを、不思議な気持ちで見下ろす。

 こんなに趣味が違うのに、向かい合わせになって座るのだ。

 学校には変な出会いがあるものだな、と思ってコーヒーを(すす)った。

「勉強、わからないところがあるんだよね?」

 尋ねると彼女は、ストローで吸い込んだソーダを飲み下した。

「はい、これなんですけど」

 図書室で一度は鞄にしまわれた参考書とノートがまた顔を出してくる。やはりというか何というか、数学だ。

 学校指定の参考書だから、内容に覚えがある。

「集合か」

 この単元でつまづく人は多い印象だ。

「問題見せて」

 いくら一年生の始めとはいえ、僕たちの学校はそれなりの進学校だから容赦なく授業を進めてしまう。早々に置いていかれる人も少なくない。

「橘さん、数学は苦手?」

 問いかけると、橘さんはしょぼんと肩を落とした。

「全然ダメです……ううう」

 それなら、砕いて説明をしたほうがよさそうだ。

 文系なら特に苦手になりやすい数学でも、うまく図を使えば概念から理解できる。橘さんがどんなふうに学習するタイプなのかわからないから、追って確認していく必要はあるけれど。

 それにしても、

「……これは相当だね」

 ノートのページが真っ赤になっていた。

 参考書にある問題をノートに解いたものだろうが、修正ばかりで橘さんのもとの答えが見当たらないほどだ。

「うぅ、やっぱりヤバい、ですよね……」

 橘さんはひどい困り顔で、指先をいじっている。

 本人の言う通り、確かに相当まずい状況なのはわかる。しかしそれを面と向かって言うのは気が引けて、

「伸びしろがある……とも言える、と思う」

 などと、気休めにもならなさそうな、なんとも歯切れの悪い言葉が口をついて出た。だがその言葉は橘さんにはよかったらしく、

「まだ伸ばせるなら、あたし、頑張りたいです!」

 と表情を明るくした。

 うきうきとした表情で、ノートに向かってシャーペンを握る橘さん。勉強することに前向きになれるならよかった。

「まずは基礎からだよね」

 参考書とノートを見せてもらって、つまづいてしまった一番最初の箇所を探す。

 途中までおおよそできていることを確認してから、あらためて取り出したルーズリーフにペンを滑らせた。

「想像がつきにくくて問題が解けないなら、図を描くのがやりやすいと思う」

 ルーズリーフに適当な図形を描きつけて、記号を振る。

「やっぱり、図は描かなきゃなんですか?」

 橘さんは僕の手元を見ながら、ぽつりとつぶやいた。

 描かないといけないのか、と訊かれると、確かに疑問に思えてくる。

「描かないといけないわけじゃないけど、描いたほうが楽に考えられる」

 数学は、内容が抽象的であればあるほど、言葉での理解が難しくなる。言葉のかわりに視覚を使って理解できるのなら、言葉で考えるよりもずっと楽だ。

「あたし、図を描くの苦手なんです……。変なの描いちゃうから」

 絵心ないし、とつぶやいた手元で、パステルピンクのシャーペンが握りしめられる。

 その気持ちはわかる。あまりにも変なものを描いてしまったときの気まずさは尋常ではない。たとえ自分以外の誰も見ていなかったとしても、だ。

 仕方がないので、まだたくさん残っているルーズリーフの余白にペン先を滑らせた。()(えん)とそこに(とが)った図形をふたつ描いて、そこからまた楕円を生やす。直線も四本程度描き足した。

 その隣には、楕円に逆三角形をふたつつけて、さっきと同じように楕円を生やして直線を四本描き足したものを生成した。

「……広斗先輩、それは……?」

 おそるおそるというふうに()かれたので、答えた。

「猫と犬」

 橘さんがあからさまに声を詰まらせるのがわかった。

「こっちが猫で、隣が犬」

 声をつまらせて間の抜けた顔に、明らかに戸惑いの色が(にじ)む。

 戸惑いとともに黙り込まれるレベルで僕が絵を描けないのは自覚している。橘さんの言う絵心がない、がどの程度のものを表しているのかわからないけれど、だいたい僕くらいの画力ならそう言えるはずだ。

「……で、僕が描いた図」

 猫もどきと犬もどきを示していた指で、そのまま最初に描いていた図を指す。

 絵を描くには、才能と鍛錬の両方が重要なのだろうと思う。けれど図ならば、いくらか練習すればそれなりのものを描けるようになる。

「僕みたいに絵が描けなくても、図は描けるようになる人が多いんだ」

 そういえば、橘さんは変なものを描いちゃうんだと言っていたっけ。

 やはり自信なさげにしている橘さんに、僕は今できる精一杯の笑顔を向けた。

「……間違えても描き直せばいいんだから、大丈夫だよ」

 大きな目が、ぱちりと瞬く。

 橘さんは自分のノートに目を落とした。

 その唇が、動く。

「そう……ですよね。そっか、描き直せるもんね、うん」

 独り言のように口先で言葉を並べ立てて、橘さんは空白のページに線を引き始めた。

 しかし、途中で手が止まる。

「広斗先輩」

 困ったような上目遣いで、こちらを見た。

「図の描きかた……教えてください」


 その翌日は、少し雲のある晴れの日だった。

 空を(あお)いだ笑い声がほとばしる。

「それでこんな猫と犬を? ……ふふふっ」

 三島先輩は僕の話を聞くや否や、腹を抱えて笑い出して止まらなくなってしまった。

 その背後にある柵の向こうには、まだ朝だというのに体を動かしたがるバイタリティの高い生徒たちが、遥か下方で走り回っているのが見える。

 今日も屋上には、心地よい風が吹いていた。

「……そんなに笑わなくてもいいじゃないですか」

 僕が描いた、あの猫と犬を見せてしまったのがいけなかった。橘さんに集合の図を描いて説明するのに使っただけのルーズリーフを返してもらえない。

「だってこれ……目が……」

 そんなに僕の描いた絵が面白いのだろうか。こうして誰かを笑顔にできるならいいか、いいのか? だんだん投げやりな気持ちになってくる。

(いな)()くんがこんなにシュールな絵を描くなんて」

 笑いながら、すっかり指で目元の涙を拭っていた。なんだか悔しい。

 ルーズリーフはそれからすぐに返してもらえたけれど、この猫と犬は黒歴史になる気がしてきた。帰ったらすぐ処分しよう。

「……別にどうだっていいんですよ、こんなことは」

 本題はもっと別のところにある。

 ところが、三島先輩はわざとらしく首を傾げた。

「あら、橘さんの話をしに来たんじゃなかった?」

「近況を聞かれたから話しただけです!」

 ただの話のついでだ。

 勉強会のことは誰に話してもいいけれど、考えれば絵を見せる必要はなかったかもしれない。迂闊なことをしてしまった、三島先輩にはしばらくからかわれそうだ。

「今日話したかったのは、宝探しのことですよ」

 三島先輩が持ちかけてきた、あのゲーム。

 誰かの大切なものを見つけた人の勝ち。シンプルでわかりやすいゲームだ。

「目に見えない大切なものを探してこいって言いましたよね」

 三島先輩は微笑んだ。そうね、とやわらかな声音が空気を震わせる。

「そう言ったわね」

 相変わらず笑顔の綺麗な人だから、すべての表情が優しく見える。

 晴れた空とわずかな雲、そして無機質な柵を背景に、三島先輩は後ろに手を組んで僕を見つめていた。薄茶色のガラス玉のような瞳が、いたずらっぽく輝く。

 その瞳を前に、僕は意を決して口を開いた。

「目に見えないのに……大切なものなんて、どうやって探せばいいんですか」

 子供のころの宝物。

 公園で拾ったきれいな丸い石、一番上手にできた折り紙の手裏剣、友だちがくれたお菓子のオマケ。他愛もないものがたくさん詰まった缶の入れ物の中身は、今でも覚えている。

 紛れもなくそれらは宝物だった。けれど、大切なものだったかと訊かれると、答えはノーだ。

 宝物と大切なものは、必ずしもイコールではない。

「稲城くん」

 いつの間にか、三島先輩の笑顔は小さな子供を(さと)すようなものに変わっていた。

「きっと、もう稲城くんの近くにあるのよ」

 言われても、納得できない。大切なものは目に見えない。それなら、僕にはわからない。

 僕はうなずけなかった。

「……嘘は嫌いです」

 つぶやいてしまって、ハッと気がついた。

 言ってしまった!

「すみません、また変なことを」

 口元を押さえたけれど、口走った言葉が消えるわけではない。

 どうしてなんだろう。僕の中の、子供みたいな僕が勝手に言葉を発してしまう。

 足音がゆっくりと僕に近づいて、止まる。言いしれぬ圧迫感が胸にのしかかった。――ぱち、と頭の中で景色が揺れる。

 頭の中が麻痺していくような感覚。

 ふと、目の前が暗くなったような気がした。

「――稲城くん?」

 瞬き。

 太陽が光っている。

 目の前は、暗くなかった。

 三島先輩が、僕の顔をのぞき込んでいた。

「ぼーっとしてるみたい。大丈夫?」

 (あご)を汗が伝う。

「……大丈夫です」

 透き通った瞳に見つめられて、所在ない感じがしてしまって一歩退いた。

「暑かったかしら。だいぶ暖かくなったものね」

 三島先輩は優しい目をしていた。きっと気づいたのだ、僕が何を考えたのか――。

 鳥が楽しそうに鳴きながら、遥か頭上を飛んでいく。

「あのね、稲城くん」

 冷えかかっていた指先に、熱が戻ってくる。

 低めの落ち着いた彼女の声は、ただ素直に胸に落ちた。

「私は、何を言われてもいいのよ」

 美しく整った顔が、ふと僕の耳元に寄る。

 そのやわらかな唇が、どこかに触れた気がした。

「……稲城くんになら、ね」

 チャイムの音が聞こえた。

 三島先輩はいたずらっぽい笑い声を立てて、僕の後方、屋上の扉から出ていってしまった。

 遠くで、たくさんの誰かの話し声がしていた。

 ――今、この世界にはたった三人。

 三人だけが、僕のことを知っている。


 (ほお)(づえ)をついて、どこをともなく眺めていた。

 朝、頭の中によみがえってきたイメージが、どうしても忘れきれずにいる。

 普段は、もうほとんど思い出すことのない記憶だ。

 でも、そうだ、確か二年くらい前までは、かなり苦しめられた。

 寝ても覚めても、頭の中は嫌な記憶ばかりで。

 ――ああ、そう。あの人が助けてくれたんだ。

 苦しいときはいつも隣にいてくれて、あたたかい言葉をたくさんくれた。

 僕を、生き地獄から救ってくれた人。

 思わず頬がゆるんだ。

「――君、稲城君!」

 あ、と声が漏れた。

 そうだ、授業中だ。

 これは謝っておこう。言い訳は得策ではない。

「すみません。ちょっと寝てました」

 過去の思い出に浸っていたとは、とても言えない。

 すると数学の山原先生が、こちらをギッと睨んだのが見えた。

「授業中に居眠りとは、いい度胸だな。この問い、前に出て解け」

 山原先生はやたらと厳しいことで有名だ。特に居眠りには厳しくて、眠っている生徒を見つけるとすぐ怒りをあらわにする。前髪の長い生徒なら目元を隠せるので、居眠りがバレないとのことだが、真偽は定かではない。

「わかりました」

 僕は渋々席を立って、黒板に書かれた数式に目を配った。

 少し前に予習した内容だ。

 山原先生は僕を見てニヤニヤしている。説明を聞いていない僕に、解けるはずがないとでも思っているのかもしれない。

 全体をあらかた読めたので、途中式から書きつけていく。本当は答えがわかるけれど、答えだけ書いても正答を見たんだとか言いがかりをつけるだろうから、仕方なく。

 別に困ることなど何もない、ただ解けばいいだけの問いだ。

「はい、できました」

 チョークの粉が手についてしまった。粉のついたところはぎゅむぎゅむするので、チョークの粉はあまり好きじゃない。あとで手を洗いに行かなければ。

 席に戻って、黒板に書かれていた問いをノートに書き写す。ノート提出も、確かどこかの時期にあったはずだ。

 山原先生は特にリアクションを取ることもなく解説を始めたので、一部からはさざめき笑いが揺れ広がっていた。

 それから少しすると、授業終了のチャイムが鳴った。

「それでは各々、よく復習するように」

 ろくな挨拶もなく、高圧的に言い放った山原先生は、どすどすとやたら重たそうな足音を立てて教室を出ていった。

 その途端、どこからともなく政武が高速で僕にすり寄ってくる。

 と思えば、

(ゆき)()ちゃんとは……どうだったんだ」

 こんなことを言ってきた。

 昼休みの解放感に沸き立つ教室の中で、政武は妙にアンニュイな雰囲気をまとっている。政武は女子のことになるとすぐ、こんな変な顔をするのだ。

「どうって、橘さんのこと? それなら数学教えたけど」

「それだけ……?」

 他に何をするというのか。

 せいぜい、学校の図書室では目立ってしまったから、少し離れたファストフード店に移動して教えたくらいのものだ。それ以外で特に目立ったことはない。

「なんかさ、他にエピソードないの? ちょっと甘酸っぱいようなやつ……」

「逆になんでそんなことが起こるんだよ……」

 出会って二日目で甘酸っぱくなるなら、それ以降はひどい酸っぱさになるに違いない。だいぶ体に悪そうだ。

 正直、色恋にはまるで興味がない。僕の生活のどこを見ても、そんなものに割く時間などないのだ。

 もういっそ、恋人がいるとでも(かた)ってしまおうか……と思ったけれど、それはそれで、紹介しろと迫られてしまいそうなのでやめた。

 甘酸っぱいエピソードか。

「そんなことより、集合を早く覚えてもらったほうがいい」

 あの理解度の感触は、途中から授業を聞けていないタイプだ。先生の説明が難しくて魂が抜けるのかもしれないし、授業中の例題演習で引っかかって解説を聞けないのかもしれない。なんにせよ、僕がそれを補完すれば橘さんはどうとでもできる。

 風の噂だとかいうのはよくわからないけれど、とにかく頼られてしまった以上は高得点を取れるくらい教えなければ、僕が納得できない。

「広斗って、すごいところで本気出すよな」

 政武が若干引いた顔をしている。これはこれで、納得がいかない。

「頼まれたことはちゃんとやりたいだけだよ」

 中途半端で終わらせて、相手を困らせるようなことはしたくない。

 それから、約束を破るようなことも。

「やっぱ真面目だよな、広斗は。俺はそんなお前が大好きだぜ」

「政武、耳元で騒がないで」

 絶妙なうるささがきつい。

 昼食の弁当を取り出して、適当な席に座る。この席の人は確か、教室外で昼食をとるからしばらくは空席のはずだ。

 政武も弁当を広げながら、

「雪音ちゃんとは何もないにしてもさ、広斗、もう少しいい感じの話ねぇの?」

 と言ってすぐ、それこそエリカ様とか、が付け足されると、クラス中の視線がこちらに向いたのがわかった。

 僕は思い切り首を横に振った。ここでクラスメイト全員を敵に回すつもりもないのだ。

「自分のことで精一杯なんだ」

 色恋に興味をもてないのは僕の生活時間に余裕がないという理由が一番だけれど、生活の忙しさと同じくらい、大きなウェイトを占めているのは――。

「……いや、違うな」

 政武は顎に手を当てて、僕の顔をぐいとのぞき込んできた。

「な、なんだよ」

 変な姿勢になってしまって声が詰まった。これ以上体を引いたら、椅子がひっくり返ってしまいそうだ。

「誰か……いるんだろ?」

 なるほど、隠し事は通用しないと。

 政武の人間関係探知センサーはいったい、どうなっているんだろう。精度が高すぎる。

「……妹。そう、妹、だよ」

 嘘が口をついて出た。

 頭の中にあったのは、撫子(なでしこ)のことだ。

 しかし、撫子は実の妹ではない。ただ一緒に住んでいるだけ。――妹だなんて嘘をついてしまったけれど、まさか何も知らない政武に本当のことを言えるわけがない。

 しかし政武は、『妹』のことは信じたらしく顔を輝かせた。

「へえ、妹か!」

 政武は乗り出していた体を満足げに戻して、目を閉じてうっとりと何かを考えているようだった。本当に忙しいやつだ。

 と、そのとき、政武が急に指を鳴らした。

「わかったぜ。広斗、シスコンだろ?」

「違う!」

 とっさに叫んだが、どうやら届かなさそうだ。

「いやあ、かわいい妹がいるとなれば、学校のアイドルだろうが女神様だろうが興味もなくなるよな。そっかぁ広斗はお兄ちゃんなのか……」

 早口になってて怖い。

 というか、それより、

「政武、弁当のおかず全部昆布じゃん……」

 政武の弁当箱の中身が、白飯を除いてけっこうな割合で黒い。昆布と根菜の炒め物、海藻――政武のことだから昆布だろう――が混ぜ込まれたハンバーグ。これまた海藻の混ざった卵焼き。()(もの)の残った隙間には昆布巻きがぎっしり詰まっていた。

「昆布があると食欲めっちゃ出るからさ、ママ上が入れてくれるんだぜ」

 ママ上……。

 なるほど、裏を返せば、昆布じゃないとそこまでの食欲は湧いてこないということらしい。昆布に対する食欲が強すぎるのでは?

 とにかく、政武のお母さんはちゃんと政武の好みを把握しているらしい。いいお母さんなんだろう。

「……お腹下さないなら、いいんじゃないかな」

 政武はよく、昆布の食べ過ぎでお腹の調子を悪くしている。薔薇の木なんて伐採し放題だ。

 と、そこで政武が、嬉しそうに昆布巻きに(かじ)りつきながら言った。

「腹の調子なら、今けっこう怪しいぜ?」

「結局下してるのか……」

 どうやら政武の昆布好きは止められないようだ。この後の五時限目はトイレと友だちになっていそうな予感がした。

「好きなものってずっと食っていたくなるんだよな」

 ふしぎだなーと言いながら昆布を続々と口に運ぶ政武を見ながら、ふと思い出す。家の氷砂糖、残りが少ない気がする。今日、買って帰らなければ。

「広斗は好きな食いもんとか、ねえの?」

 卵焼きを口に入れようとして、手が止まる。今朝きれいに巻けた卵焼き。

「……好きな食べ物か」

 卵焼きは、出汁(だし)巻きにするのもいいけれど、甘いほうが好きだ。けれどそれは、甘い卵焼きが好物ということではない。

 好きな食べ物。僕はそんなことは、まるで、

「……卵焼き……かな」

 ――考えたこともなかった。

 好きな食べ物、普通ならあるんだろう。盲点だった。好きな食べ物。

「卵焼きもうまいよなあ、俺はやっぱり昆布入れたやつがいいけどな!」

 政武は気にしていない様子で、弁当の続きを食べている。

 今日はヒヤヒヤすることばかりだ。

 僕も細かいことを気にしないよう努めながら、昼食をすべて食べきった。


   ***


『帰りが遅かったけど、何をしてたの?』

 玄関の前で、その人は通路を塞いで立っていた。

 音を立てないように家に入ったはずなのに、気づかれた?

 いや、きっと待っていたんだ。帰ってきたところに嫌味を言うために、わざわざ待っていたんだ。

 無視して脇を通ろうと足を早め、ちょうどすれ違うとき、耳元で小さな声が(かす)った。

『失敗作のくせに』

 足が止まりかける。だめ、ちゃんと歩いて。部屋まで行って。

 階段を登って、部屋に閉じこもる。鍵をかけて、床にへたり込んだ。

 失敗作のくせに――なんだっていうの? 帰りが遅くなったらいけないの?

 それとも、帰ってくるなって言いたいの?

 なんなの。

 なんなのよ。

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