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1-1 学校の人気者

『エゴイストの慟哭』第一話の第一章です。

 白いカーテンと、白い天井。

 その間から漏れ出す白い光と――撫子(なでしこ)

「……ヒロくん、起きて」

 小さな体が、僕の上に乗っていた。

「――っ、撫子!?」

 急いで起き上がる。撫子は驚いてしまったのか、ベッド――正確には僕――の上からぴょんと飛び降りた。

「……朝ごはん!」

「わかった、わかった」

 ぱたぱたと足踏みをする撫子の頭をなでて、一緒にダイニングへ向かう。

 せっかく部屋を分けているのに、こうして撫子はたびたび部屋に来てしまうのだ。僕が起きてくるまで待ちきれないらしい。

 時計を見ると、まだ六時にもなっていない。

 冷蔵庫にしまっておいた昨日の豚汁の残りやその他すぐに食べられるものを出して、簡単に朝食にする。

 満足げにしている撫子を見て、ほんのりと気持ちがあたたかくなる。


「それじゃあ、行ってくる」

 玄関まで見送りにきた撫子とうさぎを、またぽんぽんとなでた。

「……いってらっしゃい」

 (さみ)しい思いをさせてしまうけれど、学校には行かなければ。

「いい子で待ってるんだよ」

「……うん!」

 笑いかけると、撫子は大きくうなずいた。

 うさぎと一緒に手を振ってくれる撫子に見送られて、僕は玄関を出た。

 ここから歩いて十五分。僕の通う高校は、徒歩圏内にある。

 五月のはじめ。朝の日差しはまだ優しい。

 花びらを散らしつつある木々からは緑が芽吹き始めて、景色に鮮やかさをつけ足しつつあった。

 この世界は、美しい。

「おはよう、(まさ)(たけ)

 教室へ入ると、いつものように政武が机で何かを貪っていた。――そう、昆布。

「おっ、(ひろ)()!」

 満面の笑みとともに振り返った政武が、中身のなくなりかけた袋を僕に向かって突き出す。

「今朝コンビニで買った昆布が美味くて! 広斗も食うか!?」

 ものすごい気迫。

「……ありがとう」

 袋の中からひとつ取り出して、口に入れる。どこにでもあるようなおやつ昆布だ。格別に美味しいという感じはしない。

 昆布が好きすぎて、昆布とすら呼ばれつつある政武の昆布舌にはついていけないものがある。もはや舌が昆布でできているのではないだろうか。

「昆布、先生に呼ばれてるぞー」

「えっ! あ、すぐ行く!」

 早速呼ばれた政武が席を立って去っていく。

 少し前までは『昆布マイスター』と呼ばれていたのに……。

 教室の(けん)(そう)の中で、すっと目を閉じた。体の内側から温かさがにじむ。なんでもない朝の時間、耳にしみる人の声、肌に張りつく陽の光。やさしい朝。

 水筒の水を一口飲んで、机の上に教材を広げた。……朝は頭がぼんやりとする。一時限目の授業は。

「あ。一時限目、数学じゃん」

 肩が揺れてしまった。まるで心を読まれたかのような完璧なタイミングに、少しドキッとしたけれど、ただのクラスメイトの雑談だ。

「朝から数学はダルいわ……」

「よかったね綾香。今日寝不足なんでしょ」

 嫌われものの数学。たぶん、クラスの半分くらいの生徒は数学が嫌いなのではないだろうか。

 頭上でチャイムが鳴った。

 予鈴を聞きつけて教室になだれこむクラスメイト。政武もその一員だったようだけれど、慌てていた割にはすぐに椅子に落ち着いたようだ。

 机の上で組んだ手の指先を動かしながら、あと五分、と胸の中で唱える。

 授業も勉強も、僕は好きだ。知らなかった新しい世界の中へ踏み出すのは、他ではできない体験だから。

 そのとき、ふいに波のようなさざめきが教室内に走った。

 普段の様子とは違う。教室の雰囲気に染められて、喉の奥がざわついてくる。みんなが見ているらしい教室の前方へ視線を向けると、そこにあったふたつの瞳がこちらを射た。

「――あのっ、(いな)()広斗先輩ですよね!」

 教室の入り口から足も踏み入れず、訴えかけるような大声で呼ばれた。顔の横で、ふわふわとしたツインテールが揺れている。随分目立ちそうな髪型だけれど、知らない顔だ。いったい誰なんだろう、僕は知らない生徒に呼ばれるような人間ではないはずなのだけれど。

「お、お昼休みに、お話したいことがあります! 中庭で待ってます、来てくださいっ!」

 上擦った声で言った女子生徒は、そのままぱたぱたと走り去っていってしまった。ただならぬ様子に、ヒソヒソとたくさんの目がこちらを向く。告白なのか、とか、色仕掛けでは、なんて囁き声が聞こえた。

 けれど、今のは本当に知らない生徒だ。どうしよう。

 しかし入れ替わるように入ってきた教師によって、今度は違う意味で教室の様子が変わった。数学の山原先生が来たのだろう、波を打ったように静まっていく。

 せっかく授業が始まるというのに、僕の頭にあったのは、あの女子生徒の印象的なツインテールだけだった。


 昼休みになって弁当を食べていると、政武が顔を突っ込んできた。

「なあ広斗、朝来た子のところ行かねえの?」

 食べかけの弁当に視線を落とす。わざわざ食事を中断したくない。

「いたずらかもしれないだろ」

 頭の中に撫子の顔が浮かんだ。ちゃんと食べてるかな。一緒に作ってしまうから僕と同じ内容の昼食だけど、苦手なものは入っていないだろうか。

「いやいやいやそれはないって! だって雪音ちゃんだぞ!?」

「政武、あの生徒のこと知ってるのか? それなら話をつけてくれ――」

「逆だよ! お前は知らないのかよ!?」

 なぜ僕が知っているという前提なんだ。

 けれど、気がつくとクラス中、とくに男子生徒の視線がこちらに向いていた。みんな少し呆れたような顔をしているように見える……。

「とりあえず、後で話すから行ってこいよ! あの子は絶対待ってるから!」

 それでも知らない生徒のもとへ無防備に行くのは心細い……箸を持ったまま唸っていると、政武に弁当の蓋を無理やり閉められてしまった。

「あっ……」

(ゆき)()ちゃんならきっとメシ食ってない。……行け!」

 政武がそこまでキメ顔をして言うなら、不服だが仕方がない。……それに、クラス中の視線も痛い。どうやら本当に行かなければならないらしい。

 渋々席を立って階段を降りていく。中庭、行ったことはないけれど、植物園のようになっているあの場所で間違いないだろう。

 昇降口で靴を履き替えると、途端にこれから人に会うのだという実感が湧いてきた。もう今から引き返したい。あのツインテールの女子がいなければこのまま教室に戻れるんだ、例の女子生徒の姿が見えないことを願って中庭に出たが。

 僕の足音を聞きつけたのか、二つ結びの髪がついた頭がくるりとこちらを向いた。ぱっちりとした目が、僕を見て笑み崩れる。

「来てくれたんですね、稲城先輩!」

 平均ほどの高さもなさそうなところにある小さな顔が、僕をじっと見上げる。

「あたし、(たちばな)雪音っていいます」

 朝、僕の教室に来たときと同じように、快活な表情をしていた。

 僕を上目遣いに見つめる視線がむず痒くて、視線を横にずらす。

「それで、なんの用なの?」

 人と話をするのは得意ではないから、早く終わらせてほしかった。

 けれど、僕のその思いとは裏腹に、橘さんと名乗る女子生徒はもじもじとして、ゆっくりと言葉を探している。

「先輩のこと、風の噂で知って」

「……そうなんだ」

 僕は決して風に噂されるような人間ではないけど。

 橘さんは、ぴょんぴょんしていた。飛び跳ねているということではないのだが、そんな印象がある。髪型のせいだろうか? ウサギのように見えなくもない。可愛らしいといえばその通りだ。

 橘さんは胸元で、両手を組み合わせたりほどいたりと忙しない様子で、僕の顔をうかがっている。

「稲城先輩、勉強がすごくできるって聞いたんです」

 一体どこから聞いたんだ!

 思ったけれど、それを橘さんに訊いても意味はない。学校なんて場所は、どこからともなく情報が出回ってしまうものなのだ。

「……できないってことはないね……」

 どう返事をしていいかわからず、適当な返事をする。ああ、こんな物言いをして、成績がいいから()めてるとか言われたことがあったっけ。確か中学のころだ、気をつけないと。

「それで、先輩に……」

 やはりというかなんというか、話を続けるのが億劫(おっくう)でぼうっとしてきた。橘さんもなかなか本題に入らないけれど、彼女こそ時間は大丈夫なのだろうか。政武が言うことが本当ならば、昼食もとらずに中庭でずっと待っていたということなのだが。

「……先輩に……その……」

 この学校の昼休みには、元気にスポーツをしている生徒も見受けられる。おそらくそういう生徒のものであろう声が、どっと聞こえてきた。

 ちょうどそのところで、橘さんががばっと頭を下げた。

「――あたしに、勉強を教えてくださいっ!」

「はあ、別にいいけど……え?」

 間違って反射で答えてしまった。気がついて訂正しようと思ったときには、橘さんは僕の両手を握りしめていた。

「やった、やった! よろしくお願いしますっ」

 嬉しそうに、今度は文字通りぴょんぴょんと飛び跳ねる。そのたびにふわふわのツインテールが動いていた。

 早く話を終わらせたくて聞き流していたのが裏目に出るとは。

「え……あ、うん……よろしく……」

 昼休みはまだ終わらない。

 けれど橘さんは嬉しそうにずっと、いつなら一緒にいられるかとか、自分はいつでも大丈夫だからとか、場所はどうしようかとか言っていた。

 そのままの流れで、昼休みの終わりまでずっと手を握られ続けた結果、明日の放課後から勉強を教えることになってしまったのだが――。

 ――ところで、橘雪音さんは校内では有名人らしい。

「まさか広斗が知らないとは思わなかったぜ、あんなに有名なのに」

 政武が大きくため息をつく。

「知らないよ。会ったこともなかったし」

「そりゃそうだろ! 俺たちだってろくに話したこともない……」

 感傷的な表情で首を振る政武を見ながら、結局昼に残してしまっていた弁当の残りを頬張る。あともう少しで今日最後の授業が始まりそうだが、そのころには食べ切れるだろう。

「話したこともないのに知ってるとか、器用だな」

「何も知らないお前のほうが器用だよ、あの子は学校のアイドルって裏で呼ばれてるほど人気なんだぜ?」

 それは知らない。裏で呼ばれてるだけならなおさらだ。

 空になった弁当箱を片づけて、次の授業の教科書を出す。またもや政武が顔を突っ込んできて、視界の半分が政武になってしまった。政武がデカい。

「明日の放課後から、勉強教えるんだろ?」

 目が完全にキマってる。橘さんに勉強を教えることが一体なんだというのだ。それより、

「なんで政武がそのこと知ってるの」

 中庭には僕と橘さんしかいなかったはずなのに。

 政武は僕の肩に手をぽんと乗せると、穏やかな顔に微笑みを浮かべた。

「聞いてたからな……当然だろ」

 背筋にぞくっと寒気が走った。

「キモチワル……」

「あっ! 言ったな!? 俺だけじゃねえから、みんな聞いてたから!」

「なおさら気持ち悪い!」

 まさか集団で盗み聞きされるなんて。どうなっているんだ、この学校。

「というか政武、そんなに言ってるけど三島先輩はどうなのさ。わりとみんな騒いでたんじゃないの?」

 三島先輩のことは、さんざん言われたから人気者なのだろうということは僕でもわかる。三島先輩の笑顔は間近で見ると、その輝き(?)で失神するものだと言われるほどだ。

「エリカ様はな、女神様だよ」

 今度はキリッとした目を僕に向けた。忙しいやつだな。

「雪音ちゃんはアイドル、エリカ様は女神様……わかるだろ?」

「うん、わからないね」

 僕の返事を聞いた政武が梅干しのような顔になったとき、ちょうどチャイムが鳴った。六時限目が始まる。

 クラスメイトたちの興味が、一気に教室の前方へ逸れていった。

 学校の人気者は、どうやら少なくとも三人はいるということらしい。

 ひとりは三島先輩。次に橘さん。

 そして――。

 教室に踏み込んでくる、すらりとしたシルエット。

「あぁっ、やっぱりイケメン……」

 教室が――主に女子が騒ぐのは、現代文の相川先生だ。

「待たせてしまって申し訳ない。あと一時間だけ頑張りましょう」

 教卓にノートパソコンを置いて、相川先生は涼やかに微笑んだ。


 夕日が机上を焼いていた。

 教室から離れ、生徒も教師も寄りつかない部屋。

 目の前の机に積まれた本の塚の中身は、僕には想像もつかない。

「――昼休み、急に呼び出されたんです」

 簡素な椅子に座る僕は、つま先を適当なリズムで動かした。

 相川先生は沈黙を守ったまま、僕に眼鏡のかかった横顔を見せている。

 先生は、端のよれたプリントの文を追っているようだった。

「それで、明日から勉強を教えてくれと言われました」

 ちょっと憂鬱です、と僕が言うと、ぴたりと相川先生の目の動きが止まった。

「勉強会か……いいね、それ」

 そう言って、レンズの向こうの目を細めて先生は笑った。

 時折、放課後の少しの時間、僕は先生に話を聞いてもらう。忙しさからか、作業しながらであることが多いけれど、僕にとっては聞いてもらえるだけでありがたいことだった。

「そうですかね」

「そうだと思う」

 相川先生は鉛筆を握っているその人差し指でとんとんと鉛筆を叩きながら、眼鏡のかかった端整な顔に笑みを浮かべた。

「稲城は人と話すのが苦手なんだろう? いい練習になるかもしれない」

「人と話すのは面倒です」

「今、私と話してくれているじゃないか」

 冗談めいた口調だけれど、どこかで真剣な色も含んでいる。

「それに、教えることは一番の学びだよ」

 それはよくわかっている。物事をよく理解していなければ、他人に教えることはできない。自分が他人に何かを教えようということになったとき、教えやすい、教えづらいの違いで自分の習熟度も確認できる。

 そうとわかっていても、憂鬱なものは憂鬱だ。

 思わずため息が漏れる。

 それを聞いてか先生は、んー、と考えるような顔をした。

「人が新しいことを始める前に、面倒だとか憂鬱だとか思うのは、脳に回路ができていないから、だそうだよ」

 回路?

 僕がオウム返しにしたら、そう回路、とまたオウム返しがきた。

「行動するための信号回路がないから、面倒で始めにくいんだ」

 いまいち、先生の言いたいことがわからない。むっと考え込んでいると、先生は顔全体に爽やかな笑顔を広げた。

 あ、企んでいるときの顔。

「そうしてやらないままでいると、どんどん衰えていくんだってね。怖いねえ」

 くくくっとわざとらしい笑い声を立てて、先生はまたプリントに視線を戻した。

 そういうことならやってみないと――そう思ったところで、あっ、と声が出た。

「また嵌めましたね」

 そうやって、すぐ言葉でいたずらをする。

 生徒に人気があるのは、きっとこういう理由もあるのだ。

 もちろん整った見た目の清潔さや目鼻立ちもそうだけれど、一番はその軽妙なトークだ。授業で話がよく脱線するのに、なぜか上手く本筋に繋げてしまうので面白いと評判になっている。

 言葉遊びが好きなのだろう。話し好きは国語科教員の宿命のようなものだ。

「不快にさせたならすまない。でも、稲城ならきっとできるよ」

 それから、これだ。

 言われて一番嬉しい言葉を、みんなに平等にくれるから、人気なのだ。


   ***


 他の人とは違うことを言ってあげる。

 かっこいいね、素敵だね、あなたはそのままでいいよ。

 それだけで、みんな喜んで、大好きになってくれる。

 大好きになってくれたら、もうこっちのもの。全部言う通りにしてくれて、まるで天国にいるみたいに過ごせるの!

 いいでしょ、羨ましいでしょう。あんな人たちとは違うのよ。

 でもね、聞いたの。

 ぜんっぜん周りに興味がなくて、まるで世界に一人でいるみたいに過ごしてる男の子がいるんだって。

 それを知ったら……欲しくなっちゃった。

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