1-プロローグ いちばんの幸せ
『エゴイストの慟哭』第一話のプロローグです。
『あんたに生きる価値はない』
わかってるよ、そんなこと。
みんなの目を見ればわかる。
こっちを見るみんなの目は、どんどん光をなくしていく。心底どうでもいいような顔をして、ため息をつく。
価値がないことなんて、はじめからわかってる。
***
あんたに生きる価値はない。
誰のための言葉だろうか?
贈収賄の政治家か。ハラスメントの加害者か。はたまた、手のつけられないジェノサイダーか……。
どれもあり得る。けれどここでは関係のない話。
僕は諦めかけていた。どうしようもない人生、否応なく進むことを強いられ続ける苦しみを前にして。
そんなとき、手を差し伸べてくれた人がいた。
そう、それはまさしく。
――神、そのものだった。
空が青々と地面を焼きつける。
飛行機の飛んだ白い跡すら、みるみるうちに消えていく。
「ねえ、稲城くん」
爽やかな風にさらされる屋上から、校門を次々に出ていく生徒たちの後ろ姿が見える。
楽しげに学校を出ていく生徒たちを背にして、彼女は肩でやわらかそうな髪を揺らして、“学園の女神”の呼び名に相応しい艶やかな笑みを浮かべた。
「ゲームをしましょう」
ふっくらとした唇がゆるむ。美しいと評判のその笑みには、もう慣れてきた頃だ。
「ゲームですか」
なんとなく、オウム返し。
彼女の言うことだ、ビデオゲームなどという類のものではない。
「ゲーム!?」
「政武、昆布はみ出てる」
おやつ昆布を頬張った政武の乗り出してきた頭を押さえつける。政武はゲームや昆布に対しては、やたら食いつきがいいのだ。
口からはみ出した昆布を慌てて噛む政武はさておき、彼女に向き直る。
「三島先輩。ゲームというのは?」
三島先輩は婉曲的な表現をよく使うから、これも何かの表現の一端なのかもしれない。そこでにこりと、三島先輩が首を傾げた。
「はぅぅっ!」
その笑顔にあてられたのか、政武が倒れて動かなくなる。さすがは女神。
「また倒れちゃったのね、近藤くん」
三島先輩は政武に向かって、ふふ、という追い打ちのような美しい笑い声をたてた。三島先輩の笑顔は失神ものだと有名だけれど、本当に倒れるのは政武くらいだ。
ひと呼吸して、三島先輩のその続きを聞く。
「宝探しをしましょう、稲城くん」
政武が三島先輩の笑顔で失神するのにも見慣れた。できることはないので、倒れた政武は放置したまま話を続ける。
「先にお宝を見つけた人の勝ち」
三島先輩の言葉はまるで、小さな子供がクラスメイトと遊ぶときのような誘い文句だ。
「宝探し?」
「そう、宝探し」
意図が見えない。そのまま言葉が続くのを待っていると、三島先輩はスカートを翻して僕らに背を向けた。
「自分の大切なもの。誰かの大切なもの。……価値の高いものじゃなくてもいいの。それが誰かの宝物ならね」
否応なく耳に滑り込む声の、アルト系の響きの中に含まれた笑みは消えない。
どこかで囁かれていた言葉を思い出す。稲城ってやつ、なんでエリカ様とお話しているのに平気な顔をしているんだ――と。
三島先輩が魅力的な女子生徒であることは確かだ。けれどそれは、僕が失神する理由にはならない。
三島エリカ。彼女は謎そのものだ。彼女が僕に声をかけてきたそのときから、彼女はずっと僕の中で謎だった。
――稲城広斗くん、よね?
あの日呼び止められたそこは、西日の射す廊下。だいぶ時間が経って、生徒たちはみんな帰宅したり部活動に励んだりしている頃合いだったせいか、既にがらんどうの廊下だった。
はあ、そうですけど、とやる気のない返事をする僕を見て、三島先輩は声を立てて笑った。
――私は三島エリカ。はじめまして。
その名前を聞いて、思うところがなかったわけではない。ただ、クラスメイトが騒いでいたなあとか、やたらその名前を叫ぶ人がいるなあという印象、ただそれだけだった。どんな人だろうと思ったこともあったけれど、接点もないので忘れていた。
そんな彼女がこんな、ひと気のない廊下で僕に話しかけにきた。
――稲城くんに興味があるの。
放課後、空いている日はあるかしら? そう言って首を傾げる三島先輩に、時間がかからない用事ならいつでもどうぞとだけ返事をした。
それが僕と三島先輩の出会った日――ついこの前の冬のことだった。
今はだんだんと日差しも強くなってきて、虫が楽しげに鳴き出しそうな空気の漂う時期になった。三島先輩のスカートからのぞいている素足は、確か冬の間は履き物をしていたはずだ。確か、そう、チョコレート色のレギンス。
「三島先輩、それを言うなら、僕のこのペンだって宝物になってしまうと思うんですけど」
胸ポケットに差してあるボールペンを抜き取って見せる。三島先輩はこちらを振り返った。
「……確かに、それもそうね。そうしたら」
ふわりと風が吹く。
彼女は美しいままの笑顔。
「目に見えない宝物を探しましょう」
口の中で反芻する。目に見えない宝物。思わず目に力がこもった。
「よく言うでしょう? 大切なものは目に見えないって……。だから、探すのよ。見えないものを」
見えないものを探す。バカバカしい遊びのように思われた、けれどそれは。
未知の領域だ。
「わかりました。探してみます」
空の青が、少しだけ弱くなっていた。
「随分あっさりしてるじゃない」
三島先輩は残念そうにしている。どうやら僕の反応を見たいらしいということは、もうわかっていることだ。
「知ってるでしょう、僕が感情表現の苦手な人間だって」
空の青と茜色の間。空に涼やかなレモンイエローが差す。
光を背にして、三島先輩は風を浴びるように腕を広げた。
「そうだったわね。……ゲームを引き受けてくれたことについては、ありがとう」
彼女の顔は、逆光になりつつある背景にかき消された。
「でもいつかは、笑顔を見てみたいものね」
そうして、きっと笑った彼女と、僕たち。
放課後の僕らは――いつだって、この屋上で。
学校を出るころには、すっかり日が傾いてしまっていた。
高校生活が始まって二年目。冷蔵庫の中身を考えながら道を歩くのにも慣れてきた。
玄関のオートロックを抜けて階段を上がり、マンションの廊下を早足で進み、目的のドアの鍵を開ける。
玄関の音を聞きつけてか、奥から小さな足音がぱたぱたと駆けてくる。
長い濡れ羽色の髪を跳ねさせながら来たその子は、僕に向かってぐっと背伸びをしたようだった。
「ただいま」
「……おかえり!」
両腕でしっかり抱えたうさぎのぬいぐるみは、すっかり頭を垂れてしまって表情がうかがえない。
「撫子、遅くなってごめん。すぐ夕飯作るから」
小さな頭をなでてやると、撫子は嬉しそうに目を細める。
靴を脱いで玄関を上がり、冷蔵庫の中身を一見する。これで何を作れるか。時間が遅くなってしまったから、普段と同じようには作れなさそうだ。
「……ヒロくん」
呼ばれて、振り返る。撫子はうさぎで顔を隠して、目だけをのぞかせていた。
「……お夕飯、手伝っても、いい?」
考える間もなく、頬がゆるんだ。
「もちろん」
撫子はさっと僕に背を向けると、うさぎをダイニングテーブルの椅子に座らせた。
洗面台で石鹸で手を洗い始める撫子を見つつ、夕飯のメニューを頭の中で組み直す。撫子が手伝ってくれるなら、簡単に作れるものにしたい。
豚汁と炊いたご飯でもいいだろうか……。
「撫子、豚汁は好き?」
手を拭いてきた撫子が、またぴょんっと跳ねた。
「……好き!」
助かった。これで苦手だったらどうしようかと思ったけれど。
「よし。それなら、野菜を切ってもらおうかな」
「……わかった!」
キッチンの隅の踏み台をまな板の前に置いて立った撫子は、やる気満々の表情だ。
肩を並べて、キッチンで二人きり。
この生活が始まった一年前、僕は初めて幸せを知った。
この幸せが続くなら、それ以上のものはいらない。
「よし、できた!」
鍋の蓋を開けると、いい具合に煮えた野菜が顔を出す。
「……おいしそう」
撫子も目を輝かせている。楽しそうでよかった。
器を用意して、豚汁をよそう。ご飯も盛りつけたら、テーブルへ。
僕と撫子と、うさぎのぬいぐるみ。二人と一匹で食卓を囲んで、手を合わせる。
「いただきます」
これが、いちばんの幸せ。