7 夜と接吻
ユリスは闇に漆黒の瞳が煌かせ、大切な養い子の寝顔を見つめる。左腕には愛用のうさちゃんが抱えられていた。
このうさちゃん。望んだ当初はリンに与えるつもりだった。母親を知らないリンに、そうとは伝えられなくてもラウラに通じる物をなにかしら与えてやりたかったのだ。
しかし「それはユリス様の報奨だから」と、リンは子供らしくない言葉を返した。養い子として迎えたリンは幼いながら立場を弁えてしまう頭の良い子で、ユリスのことを父とも兄とも呼ばずに「ユリス様」と敬称をつけて一線を引かれてしまう。
その時、ユリスはリンを実の子として育てられるのだろかと大きな不安に駆られた。
ユリスの使命はリンを普通の女の子として育て上げることだ。普通の娘として、ごく当たり前の幸せに辿りつけるように導いていくためにユリスは戦い生き残った。ユリスはリンからどのような目で見られようと、養い親としての使命を全うすると決めていたのだ。できるならユリスも憧れた温かい家庭の中で育てたいと願っていた。
しかし「ユリス様」と呼ばれた瞬間、ユリスは自分とリンが親子になることはないのだと現実を突きつけられた気がした。見上げて来る形の良いアーモンド形の目に、嘘を見抜いているような真っ黒な瞳。何時の日かこの娘を自らの手に望んでしまう予感に駆られ、醜い自分の心に恐怖したのだ。
この時ユリスは手にしていた兎のぬいぐるみをぎゅっと抱きしめ、己を守る盾に変えた。そして現在、この盾は自分からリンを守るための盾にもなっている。うさちゃんがある限り、ユリスは絶対にラウラとの約束を違えはしない。そのためのうさちゃんだ。
一年振りにラウラの眠る地を訪れたユリスだったが、例年と違ったことが一つだけあった。リンに恋人ができたことだ。微笑ましい成長の一つとして、普通のどこにでもいる女性としての幸せを掴むだろう未来をラウラに報告しながら時間を過ごすつもりでいたのに。交際相手のあるリンを一人にしていることに焦りを覚えて、気が付いたら我が家に戻ってきていた。
屋敷の入り口で話し込んでいる二人を見つけた時、そこにイドがいると知って、ユリスの体から何かがすっと失われたような気がした。思わず醜い感情が漏れそうになり、左腕に意識を集中してうさちゃんの感覚を思い出し、ラウラの遺言を暗唱して我を取り戻す。
ゆっくりしてくるのだったと心にもないことを言って、あの後二人で姿を消されたらどうするつもりだったのか。大人しくリンの帰宅を待ていられたらいいが、心のざわつきがそれを否定した。
ラウラの代わりとしてうさちゃんを望んだ。
母親の存在を知らないリンのためにせめてもと手に入れたが、ユリスが報奨として得た縫いぐるみでリンが遊ぶことはなかった。
気付けばユリスが縫いぐるみを抱き、心でラウラと会話をしていた。
気持ちが揺れたとき、迷ったとき、自信がなくなったとき。リンに関わる全てにおいて、ユリスはうさちゃんを抱きしめて語り、時に心を落ち着ける。
いずれ全てを告げる日が来るかもしれない。その時に母親の存在を何かで感じて欲しいと願い報奨として手に入れたぬいぐるみは、ユリス自身が抱き締めるうちに間違いを犯させない歯止めとなった。リンに素の自分を向ける時、うさちゃんがないとリンを傷つけることをしてしまいそうで恐ろしくてたまらなくなる。
「いつからだろうね」
リンを見つめながら我が身に問う。
七年ぶりにリンを目にした時、自分を見上げる瞳に囚われた。嫌な予感がした。その予感は当たってしまった。自分はいったいいつから、リンを一人の女性として見るようになってしまったのか。
ユリスに温もりをくれ、人として扱ってくれた王女。身分の壁を存在しないものとして接してくれ、共に異国へ渡った初恋の女性。
彼女への淡い恋が叶うなんて思ったこともない。考えたことすらない。ただ彼女の側で生涯を終えると思っていただけだ。
ユリスは大切な彼女からたった一つの宝物を託された。ラウラは難しい立場となる血を受けた我が子を想い、生まれを隠して普通の幸せを与えたいと願ったのだ。ユリスがいかにリンを慈しもうと、愛そうと、その願いを自ら反故にすることだけはしてはならない。
「僕に普通なんてありえないのにね」
ラウラの願う未来のため突き進んだ先にあったのは、血に染まった我が身と人並み離れた魔法使いとしての力。国を守る将軍の肩書きは、決して普通の人間には手に入れられないもの。守るために力を得て地位を獲得したが、残酷で残忍な人殺しの過去は愛しい人たちに誇れる我が身ではない。
「君は僕を穏やかな魔法使いだと思っているけど大間違いだ。イドとの逢瀬を邪魔してごめんね」
眠るリンの傍らに開いた手を添えたユリスは、そっと顔を寄せてリンの額に唇を寄せる。
「ラウラ様――」
お許しくださいと心の内で懺悔し、兎のぬいぐるみに顔を埋めて大きな溜息を吐き出した後、ユリスはリンの寝室からそっと抜け出した。
*
それからしばらくしてリンはそっと瞼をあげると、ぎゅっと眉を寄せて怒りとも悲しみともつかない感情を必死に抑えようと試みた。
額への口付けは誰に向けたものかなんて明らかだ。
ユリスの愛はリンに対してではない。救えなかった初恋の王女に向けられたものだ。
決して勘違いしては駄目。それは何よりもユリスを傷つけてしまうから。けれど――
リンは寝返りを打つと枕に顔を押し付けて、誰にも聞こえないよう小さく小さく声を漏らした。
「大好き」
この気持ちは変えられない。
死んでしまった初恋の王女はユリスの中で永遠に生き続けて、永遠に慈しまれる。手に届かないからこそ思いはより強くなっていく。
「死んでしまった人に敵う訳がないわ」
流れた涙は柔らかな枕に吸い込まれて行った。