6 恋人
リンにとってイド=キルヒヘアは、ユリスの養女になったころからの幼馴染だ。
男女の違いはあるが同じ年で泥にまみれて遊んで、年を重ねるにつれ年相応に付き合いを変えた。やがて幾度となく告白されるようになり、ついに半年前からは恋人同士。
お互い十八で成人したばかりだが、イドは父親に従事して魔法具士としての技を習得するために勉強中である。
そのイドが夜も更けて寝静まってもいい時刻に訪ねてきた。
「こんな時間にどうしたの?」
「ユリス様がいないだろ、それでその……入ってもいい?」
「ユリス様がいないのよ。イドでもこんな時間に入れる訳にはいかないわ」
「でも、その……心配だし?」
非常識だというのはイドだって分かってるのだろう。けれど引かずに辺りの様子を窺いながら粘られた。
「毎年のことだもの、一人でも大丈夫よ。」
それこそリンが貰われてきてから続く恒例行事。ユリスが年に一度、大切な人を偲んで遠い場所へ赴く日だ。今年も日が昇る前に出立し、明朝帰宅予定である。
リンはこの家に住み始めた当初から一人での留守番も難なくこなしていた。ユリスは魔法将軍の地位にあるので、戦争がなくても遠征や何やらで家を空けることもある。何も今回が特別ではないのだ。
だから大丈夫と笑顔で断りを入れるリンに、イドは大きな溜息を落として、意を決したように顔を上げた。
「あのさリン。俺たち付き合って半年たつし、そろそろいいんじゃないかと思うんだけど」
「何が?」
「何がって、そういう関係になってもって意味」
「わたしは結婚するまでしない考えよ」
前にも言ったじゃないかと訴えるが、そういう盛りのイドにとっては納得できないことなのだろう。
「そう約束で付き合い始めたじゃない」
「約束したけど不安なんだよ。リンは美人で可愛いし、他の奴に取られるかもしれないって考えると俺のものにしたくなる。これって好きだからだよ。みんなもやってる。リンも俺のこと好きだよな?」
だからいいじゃないか、当然のことだと訴えられても困るばかりだ。
「俺のこと好きだろ? もしかして違った? 嫌い?」
「嫌いじゃないわ。好きだけど、まだ幼馴染の領域を超えた実感がないの」
それでもいいから付き合って欲しいと懇願されて折れたのはリンだ。立場的に誰かを好きにならなくてはいけないと考えていただけに、ぐいぐい押してくるイドに折れてしまったが、思う気持ちの違いはきちんと伝えている。
恋人だ。お互いの特別だ。しかし心はその域に達してない。それまで待つ、どうしても駄目なら遺恨なく別れる。そう約束して始まった付き合いも時が過ぎれば変わってしまう。
「わたしのせいね」
「いや、リンのせいってわけじゃ……」
イドの焦りや欲求は当然のもの。分かっていて受け入れた自分に問題があるのだ。
心がついて行ってないのに、そうしなければならないという世間一般の流れに乗った自分が悪いのだ。リンはこれ以上罪を犯さないために別れを切り出す決意をする。
「ねぇ、イド」
言いかけた所で人影が現れた。
暗闇から現れた陰にリンとイドは飛び上がるほど驚いて互いに縋り抱き締めあった。
「おや、こんな時間に二人してどうしたのかな?」
「ユリス様!」
「え、ユリス様だって!?」
毎年、大切な人の命日には一晩家を空けるのが恒例だったのにいったいどうしたのか。深夜になって帰宅したユリスにリンだけでなくイドも驚いた。
「帰りは明日になるんじゃなかったんですか?」
「その予定だったのだけど、年頃の娘を一人にしておくのもどうかと今になってようやく思い至ってね」
と言った所でユリスがイドに視線を向けると、ばつが悪そうに身を小さくしてしまった。予定を違えて帰ってきてしまったユリスは状況を察して眉を下げるが、リンにとっては正直有り難い。イドに別れを告げようとしたが、今この時刻にこの場で告げるのは得策ではないと感じてもいたからだ。
「申し訳なかったね」
リンの気持ちも知らず、ユリスがイドに謝罪した。
「いえ、そんなことは少しも」
「だけどリンが心配で来てくれたのだろう? そうと分かっていたらゆっくりして来るのだったよ」
「本当ですか!」
養い子とはいえ、ユリスがリンをとても大切にしているのは周知の事実だ。ユリスは魔法将軍でもあり気難しいと評判でよそ行きの雰囲気は冷たい印象。叱られるか嫌味の一つでも言われるとばかり思い身構えていたイドは、優しく言葉をかけられ拍子抜けしたようだ。
「何なら今からもう一度、数日ゆっくりと――」とイドが言い出したところで、リンは「そんなことありません」と声を上げてユリスの腕を引いた。
「イド、心配してくれてありがとう。でもユリス様も帰って来てくれたから大丈夫。またね」
「あ、うん。また……」
項垂れとぼとぼと闇に消えて行くイドを見送るリンだが、彼の気持ちも分かるだけに申し訳ないと思う。
けれど交際する時に約束したのだ、そういうことは結婚するまでしたくないからそれでもいいのかと。イドは条件をのんで二人の交際が始まった。今回のはイドも悪いとリンは自分に言い聞かせる……が、どこをどう取ってもリンは自分が悪女だと感じてしまう。
「邪魔して悪かったね」
リンの様子を、恋人と仲良くできなくて落ち込んでいると勘違いしたのだろう。顔を上げるとユリスが情けなく眉を下げていた。
「ユリス様、普通の親は娘に夜這いを仕掛けてくる男を追い払うものだと思いますよ?」
「そうなのかい?」
明日にでもノルトに聞いてみようと、女の子が大好きで軽い所のある副官の名前を出す。
「ノルト様は駄目ですよ、夜這いする側ですから。こういう相談はもっと人選してください」
「う~ん、確かにそうだね。だけど誰に相談するのが一番いいのかな?」
「別にしなくてもいいんですよ。さ、ユリス様。お風呂沸かしますから、汚れを流してお休みください」
「面倒だから明日でいいよ。私のうさちゃんは元気かな?」
「戻って早々抱き締めたら駄目です。汚れが酷くなって洗う回数が増えます」
洗う度に布が擦れて襤褸になって行くのだ。一度糸を解いて裏に当て布をして再度縫い直している状態なのだから、これ以上悪化させないためにも大切に扱って欲しい。
「うん、わかった。確かにそうだね。仕方がない。うさちゃんは我慢してお風呂の後にするとしよう」
うさちゃんを抱きしめるために入浴を決めるのは他人が見たら少しばかりおかしいと思うだろうが、この家ではごく当たり前のことなのだ。
その晩、リンが寝静まった深夜。気配なくリンの部屋を訪れた男が一人。
左腕にはくたびれた兎のぬいぐるみが抱えられていた。