29 悶える人殺し
ユリスは暗闇の中で身動き一つせず、両目を見開いて高い天井を見つめている。
眠れない、眠れるはずがない。寝返りを打ちたくても視線を動かすことすら自らに禁じていた。
理由は簡単。ユリスの隣で穏やかな寝息を立てる愛おしい存在があるからだ。
リンに導かれたユリスは久し振りとなる自宅に帰ってきた。
本当にこれで良いのかと葛藤しながら暗い夜道を手を引かれて帰宅したら、リンが心を鎮める温かいお茶を入れてくれて。二人で飲んで、何故か二人してユリスの部屋にあるユリスの寝台に寝転がっている。
茫然自失の状態であったが、覚醒して拒絶した。
しかしリンは引かなかった。
またユリスが逃げ出したらいけないからとユリスに張り付いて、腕を組んで体をぴったりとくっつけて同じ寝台に寝転がってしまったのだ。
こんな状況で普通は眠れない。なのにリンは寝息を立てている。
よほど疲れていたのか緊張の糸が切れたからなのか分からないが、さほど時間をおかずにリンは眠ってしまった。
ユリスが長らく自身に禁じていたものが直ぐ側にある。リンもユリスを慕っている。しかも男女の愛情だ。ユリスの醜く残虐な部分を惜しげもなく説明したのに、ユリスがいなければ幸せになれないと気持ちをぶつけられた。
ラウラが死んで、リンにどうやって普通の幸せを与えようか考え続けた。その伴侶候補に自分の名前だけは上がることがなかったのに。
「ラウラ様。私は謝罪せねばなりません。死を以て償わなければなりません。ですが私が死んだらリンはどうなってしまうのでしょうか……」
長く抱き続けた、手を伸ばしてはいけないと思う気持ちがあさっさりなくなるわけがない。
これは罪なことだ。
託されたリンを、彼女の親類縁者を殺害した自分が本当に幸せにできるのだろうか。
いけないことだと我が身を正して養い親の立場を貫いてきた。離れる努力もしたが、リンはあっさりとユリスの防護壁を破ってしまった。それでもリンが望んでくれるからと諸手を挙げて喜べるほどユリスは楽観的ではないのだ。
「リン?」
眠ったふりをしている可能性もある。恐る恐る声をかけたが起きている気配はない。
耐えきれなくなったユリスは状況を打破すべくそっと、そぉっと、ゆっくりと、とても長い時間をかけて、逃がすまいと絡められている腕から脱出した。
寝台が軋まないよう細心の注意を払ってゆっくりと降りる。息を潜めて寝室を出たユリスは音もなくリビングに駆けて行くと、長椅子にダイブして無造作に置かれていたうさちゃんに飛びついた。
「どうしたらっ、どうしたらいいんだ!?」
どうしたら良いのか分からないとの叫び声は、うさちゃんの腹に顔を押し付けて消す。七転八倒するかに暫く藻搔いて、最後にはうさちゃんに顔を押し付けたままゆっくりと長椅子に体を落ち着けた。
「今夜はここで寝よう」
流石に同衾はまずい。リンがユリスを逃さないために既成事実を作ろうとしているのも分かった。
ユリスはいい大人で自制できるし、リンも自ら誘う勇気まではなさそうだ。多分、お互いに近くにいたから今すぐ男女の仲になろうという気持ちはない……と予想できる。
それでもけじめはつけなければと、ユリスは自分の寝室を、リンの拘束から逃げ出した。ユリスがリンに養い親以上の感情を抱いてしまったのは事実だが、それを認めて先に進むまでの勇気はまだない。
ここで再度逃げ出したらリンの心が崩れてしまうかもしれないから留まっているが、自分がリンを幸せにできるのだろうかとの不安がある。何年先かの未来に『やはりユリスではない』と気付いても遅いのだ。慎重になるべきだと考えながら、ユリスはふと顔をあげた。
「やはり不味いのか?」
ようやくユリスを連れ戻した、逃さないとの思いで腕を絡めて寝落ちした愛し子。目覚めた時にいないと気付いたら驚きとても悲しむのではないか。
リンが熟睡しているのは疲れもあるだろうが、ユリスが戻ってきた安心感もあるのかも知れない。
リンは養い親に対する切ない想いを抱えながら、望まれるままの幸せに向かって進んでいた。
気持ちに蓋をして恋人を作り、しっくりこずに別れて、今度は自立の道を目指して。そんな中、資格がないからと逃げ出した養い親を見つけ出して連れ戻した。
その間ユリスは王太子から取り上げた魔法具の石版を眺めて、大切な養い子が規則正しく生活する様を見守っていたのだ。リンの気持ちも考えずに、自分だけが我慢していると勘違いしていた。
「僕は卑怯者だ」
うさちゃんを抱きしめて寝室に舞い戻る。
暗いそこではリンが体勢を変えず健やかに眠り続けていた。
四ヶ月ぶりの愛し子は少し痩せて、さらに大人びていた。閉じた瞼を黒い睫毛が縁取り、少し口を開いて無防備な姿を曝け出している。
「ああ、これは。他の男には見せたくはない姿だね」
感嘆の声が漏れ、流れる髪を一房すくって唇に寄せた。視線はリンに貼り付けたままで、いつだったかベルクヴァイン王家特有の容姿であることをエルマーに指摘されたことを思い出した。
ユリスからするとリンは、ラウラの生き写しのような、どこからどう見ても非の打ち所のない大切で完璧な女性に成長した。他人がなんと言おうとユリスにはそのように見えていた。
だけど今宵、想いを告げてくれた女性として見下ろせば、あの憎い男の血が流れていることが確実に分かる容姿であることを認めざるを得なかった。
それでも愛しさは募るばかり。
リンにどのような背景があっても、ユリスにとってなんの問題にもならない些細なことだとようやく気づけた。
「そうだね。君はラウラ様ではない。私の大切な、愛しいたった一人の女性だ」
よくぞ手放そうなどと思えたものだ。
想いはあっても男女の仲になる勇気はまだ持てないが、リンの幸せを理由にしてしまえば良いと悪魔が囁く。
だらしなくおぞましい人殺し。
それでも大切なリンを守る力は身につけた。
リンのためなら世界を滅ぼしたって構わないほどのめり込んでいるのは、引き取った当初から今まで、そしてこれからも変わりはしない。




