溶けたおふだ
伊豆『雲隠岳の迷い家』伝説は、初出が戦後のカストリ雑誌だというから、類話の中では比較的新しい部類に属すると言ってよいだろう。
マヨヒガや隠れ里というのは、日本全国に分布する一種の理想郷伝説なのだが、雲隠岳の迷い家には一つだけ、他の言い伝えとは異なる特徴がある。
それは「お札が貼ってある扉だけは開けてはいけない」という禁忌だ。
それ以外は他の地の伝説と同様で、何か一品を持ち帰れば富貴が約束されるという。
ただしこの雲隠岳、標高294mしかない名前負けの低山で、山頂に神社仏閣があるわけでもない。
伝説を知るのも私のような趣味で郷土史を齧っている者か、ヲタが付くオカルトマニアくらいだろう。
そんな私を訪ねて来たのは、地元生活安全課の警官二人で
「ちょっと先生に見ていただきたい物が」
とタブレット端末を取り出した。
入っているのは、落とし物のスマホに入っていた画像データとのこと。
『何もないよ。せっかく見つけたのに』 『どこかに一つくらい、何か残ってるだろ』
映っているのは大学生くらいの男、スマホで撮影しているのも同年配の男。
ユーチューバーというヤツだろうか。
ただそれだけだった。
遊歩道の山頂近くにあったという。
「行方不明に?」
「はあ。ご家族から捜索願が」
私はもう一度動画を再生してもらい、『どこかに一つ』の場面で一時停止させた。
「見て下さい、ここ。扉に急と令の漢字が見えますでしょ?」
「ええ。落書きでしょうか?」
「これは『ぬけ』です。往々にして古いお札は、白紙の部分が腐食して墨書部分だけが残るんです。まるで直接落書きしたみたいにね。元は急急如律令と書いてあったんでしょう。陰陽師なんかが使う決まり文句ですよ」
「それじゃあ、お札はそこに?」
警官が溜息をついた。
「これじゃあ、間違って開けてしまいますなぁ」
「目印のお札が溶けてしまったのではね。まるで罠です」
と私も頷いた。
「スズメバチ危険とか、適当な理由で入山禁止にした方が良い。まあ善良な市民なら、他人の家に忍び入ったり窃盗などはしないものですけどね」
ご協力感謝いたします、と警官は帰って行った。
捜索願の二人は、たぶん発見はされない。