第2話 君の名は
自転車置き場から出ようとした矢先、先程の外国人が自転車の前に出てきた。
「うわっ、危ないよ!」
「す、すみません」
自転車を止めに出て来たものの、彼女は何かを言おうとして再び黙ってしまう。
「ああ、そうか。お金持って無いってことは、泊まるアテも無いってことだね?」
「い、いや、飲み水は噴水があったし、雨風を凌げる野宿に適した場所なら、その先で見つけています…」
この先って、噴水公園じゃないか。まさか、遊具の下?…それとも、まさかトイレで寝る気だったか?
「は、ハヤト殿に、不躾だが頼みがあるのですが…」
「あれ?名前言いましたっけ?」
「先程の食堂の若者に聞きました」
ああ、実から聞いたのか。しかし今時、名前に殿をつけられて呼ばれる事はそうそう無い。少々むず痒く感じるな。
「それで、頼みって何ですか?」
「あ、はい。その、換金所への地図を渡されても、全く知らぬ土地故に私には分からなくて…。その…できたら、あ、案内を…」
後半は尻すぼみでゴニョゴニョとしか聞こえなかったが、要は道案内を頼みたいわけだな。
明日はたまたま、ビルクリーニングは休みの日だ。まぁ、案内してやっても良いか。
「ああ、良いですよ。それで、本当に泊まらなくて大丈夫ですか?その先の公園、この時間帯だとアベックがイチャついてますけど…」
「あ、あべっ…?イチャ…?」
ああ、全く分からないって感じだな。逆に日本語が話せるだけに、輩に絡まれて危険な気もする。
「ああ、もう寝る時間が残り少ないんで、単刀直入に言いますけど、今日は俺の家に泊まります?空き部屋ありますんで…」
「えっ、良いのですか?あ、でも流石に頼り過ぎな気も…」
「こっちです。置いていきますよー?」
長い遠慮に時間を割きたく無いので、スタスタと移動を開始すると、少し躊躇いながらも彼女はついてきた。
俺の家、もといババアの家は昭和感漂う古い一戸建て住宅だ。
鍵を開けて玄関から入ると、暗く冷え切る廊下は、帰りを待つ者が誰もいない事を思い知らさせる。
「どうぞ、入って」
灯りをつけて彼女を中に呼ぶ。
警戒とは違って、少し申し訳無さそうに頭を下げて彼女は入ってきた。
「使っていい寝室は突き当たりの部屋です。お風呂はここ。トイレは隣ね。お風呂は出来ればシャワーを使って?」
「うん?し、しゃあ?」
シャワーの使い方が分からないみたいなので、軽く使ってみせる。
「なるほど、捻るとお湯が出るのですね!」
「失礼だけど、結構臭いが酷いみたいなので、そのボディソープで体を洗ってから寝てくださいね?あ、洗髪料も押して出るタイプです。分かります?」
シャワーで驚くあたりひょっとしたら、発展途上国から来た可能性もあるし、一応説明することにした。
「着替えはババアのだけど、準備しておきますので」
「何から何まで済みません…」
「別にいいですから。脱いだ服はカゴに入れてください。後で洗っておきます」
隼人は着替えを準備して置くと、寝室の敷布団を取り出して敷いて置く。
シャワーの音と共に、鼻歌らしき声も聞こえてくる。
「さて、どうするかな…」
時間も遅かったからとりあえずは連れて来たものの、正直なところ彼女は得体が知れない。
考えられるのは、密入国者の可能性が最も高いが、日本語はとても流暢に話せるのが不思議だ。
もしかしたら、彼女の近い人間に日本人が居る可能性がある。
だとすれば、その知人と逸れた可能性もあるな。
「とりあえず、可能な限り聞いてみるか」
しばらくして、彼女が地味な色のパジャマに着替えて居間に現れた。
あれ?髪が乾いているけど、ドライヤーの説明したかな?
「ありがとう。良い湯浴みだった」
「それは良かった。良ければ、寝る前に少しばかり話を聞かしてもらえるかな?」
「…ええ、もちろんです」
せっかく座布団があるのに、彼女は少し離れた場所にちょこんと座る。
「先ずは君の名を教えて欲しい。知り合いに紹介するにも、呼び方を知らなければ対応に困る」
「確かに当然な話です。コホン、…私の名は、モブダリア・アスタロテ・リッテンゼリア・トゥル・フレバースです」
「は?モブダ…リッ…」
「モブダリア・アスタロテ・リッテンゼリア・トゥル・フレバースです」
「な、長い名前だね」
「そうでもないですよ?私より長い方は結構居ましたから。モブダリア・アスタロテ・リッテンゼリア・トゥル・フレバース。ほら、簡単ですよ?」
とてもじゃないが、咬まずに呼べる自信がない。
「…では、モブリアとお呼び下さい。母にはそう呼ばれていました」
なんだ。やっぱり愛称があるんじゃないか。
「分かった、モブリアさんね。じゃあ、モブリアさんは、何で日本に来たのかな?一緒に来た人か、尋ねる相手が居るんだよね?」
「…来たのは1人です。尋ねる相手は…居ます。その人の古い痕跡を辿り、この地に辿り着いたんです」
「…そうなんだ。探し人がいるんだね。それなら、探偵や興信所を雇うにも尚更お金が必要だよね」
所持金無しでどうやって来たかが不明だけど、この際、密入国者だとしても換金の世話をするまではしてやろう。
「明日、向かう店が開くのは11時からなんだけど、俺は10時前まで仕事があるんだ。だから、俺が帰って来るまで家で待っていてくれるかな?」
「え、ええ。それはもちろん」
「時間を潰すのは、テレビ以外にもゲームや本もあるから、好きに使って良いですから」
またもや分からない素振りを見せたので、一通り見せてみた。
「なるほど、これ程のレベルですか…。聞いていた以上に、発展していたのですね…」
何やらブツブツと独り言を言いながら、1人で納得している。
だが熱心に見ているから、時間を潰すことには問題無さそうだ。
「俺、明日早いんで、あまり遅くならないうちに寝て下さいね?」
「あ、はい。分かりました」
隼人は、洗い物を見ないようにしながら洗濯機に入れて回すと、さっさとシャワーを浴びる。
人にどうこう言える立場じゃないなと、自分の仕事汚れを洗い流しながら、ふと考える。
先程も礼儀正しく頭を下げるあたり、礼儀作法は弁えているようだし、教養もありそうだ。
長い名前も、外国の貴族とかなら普通に居るかもしれないよな。
「まぁ、明日まで世話するだけの関係だ。必要以上に探ったり考えたりはダメだな」
隼人は無心で終わった洗濯物を干すと、既に居間の明かりは消えていた。
「どうやら寝たようだな。げっ⁉︎もうこんな時間か。俺も寝るか」
隼人も急ぎ就寝した後、奥の寝室から怪しげな言葉と光が漏れていた。
「…ん力僅かだが回復している。…奴は必ずこの世界に居る…」
布団の上で瞑想するモブリアの頭上には、黄色い単眼がギョロギョロと動き回っていた。
「…もっと力をつけ…ないと…」
気力が尽きたのか単眼は消え、空ろな表情に変わった彼女は、そのまま布団にパタリと倒れ寝息を立て出すのだった。