第九話 婚約発表会
「千景ちゃぁん」
「……っ」
ぞわりっ、と千景の背筋に悪寒が走る。
彼女の好みとはかけ離れたピンクのドレスを着させられた千景へと無遠慮に、それでいて欲望むき出しに声をかけてきたのは草薙大蛇であった。
ホテル『八岐大蛇』、その最上階。
婚約発表会の会場から離れた控え室に乗り込んできた草薙大蛇の外見を一言で表すなら『獲物を捕食した後の蛇』だろうか。
足や腕はまだマシなのだが(それでも一般的なものよりは太い)、腹部が異様に膨らんでいるのだ。
たらふく脂肪を蓄えたお腹を揺らし、高級な白のスーツや過度な装飾を施した齢三十を超えたその男は人目がないことを良いことに千景の白い肌に指を這わせる。
油ぎった指で、ねちっこく。
十代後半のうら若き乙女に三十超えの男が無遠慮に触れるなど、それだけで通報されたって不思議ではないが、万が一にもそのようなことは起きないと確信しているのだろう。
『東雲グループ』に関わる大勢の人生。
その人質がある限り、東雲千景は自分に絶対服従するのだと、わかっているから。
「僕さぁ、生まれてから望むものはなんだって手に入れてきたんだよねぇ。それはぁっ、千景ちゃんも例外じゃぁないんだよねぇっ!!」
彼と東雲千景が最初に顔を合わせたのはまだ幼い彼女が両親に言われるがままパーティーに参加していた頃である。
十年以上前の、東雲千景の記憶にも残っていないだろうその邂逅。『一度きり』のその邂逅から、草薙大蛇は準備をしてきたという。
そう、望むものを手に入れるために。
物心ついたくらいの、幼い女の子を欲した男は欲望のままに全てを振り回した。
必要な力を得るためなら法律を破り、大勢を不幸にして、『草薙』という企業の形を醜悪に変えることだって辞さなかった。
結果、実力主義を謳う『セントラル』の後ろ盾を得て、欲望を満たすに足る力を獲得した草薙大蛇はその圧倒的な力でもって『東雲グループ』に攻撃を仕掛けた。
このままでは確実に『東雲グループ』は倒産すると確信させるほどでないと、脅しが効かない可能性もあったからだ。
「やあっとだぁ。やっと、くふっ、やぁぁっと手に入ったぁっ!! 長い間焦らされたぶぅんっ、たぁっぷりと可愛がってあげるからねぇっ。一生、千景ちゃんはぁっ、僕のものだぁっ!! ひひっ、ひゃははっ、ははははははは!!」
「…………、」
醜悪な欲望をぶつけられ、それでも東雲千景は何も言わず、動かず、表情も変えず、ただただ受け入れた。
その身を犠牲にしてでも、『東雲グループ』に付き従ってくれている人たちの、そして家族の居場所を守るために。
……だからといって、何も感じないわけではないが。
ーーー☆ーーー
豪華に飾り付けられた会場はギラギラとした明かりに照らされていた。
婚約発表会はすでに始まっており、主役である東雲千景や草薙大蛇の紹介がなされているのだが、ピンクの趣味ではないドレスに身を包んだ東雲千景は控え室から会場までどうやって移動したのかすら覚えていなかった。
自己防衛なのだろう。
何も『残さない』よう、嫌な現実から目を逸らしているのだ。
「…………、」
セッティングとしては結婚式に似ていた。主役である東雲千景と草薙大蛇が並んで腰掛けており、どこかのお偉いさんがステージを鑑賞するように扇状に集まり、表面上は笑顔で祝福しているのだ。
──東雲千景には優秀な兄と姉がいる。彼らがいたからこそ『東雲グループ』を継ぐ権利を放棄することと引き換えに『普通の生活』を手に入れることができたのだろう。
『東雲グループ』の規模を考えれば、身内に『普通の』少女が混ざっていることが不利益に繋がることもあっただろうが、両親や兄と姉は決してそのことを非難することはなかった。
東雲千景が幸せならばそれでいい、と。
そのような『普通』を貫いてみせたのだ。
だからこそ。
今まで守ってもらったからこそ。
今度は東雲千景の番。
今まで彼女の我儘を聞いてくれた家族のためなら、東雲千景はその身を犠牲にすることも厭わない。
……今までが、甘い夢だったのだ。
安藤琴音の手で『外の世界』を知った。ミィナ=シルバーバーストと出会ったことで恋というものを知った。今までの、二人との生活は鮮やかに光り輝いていて、これ以上なんて絶対にないと断言できるほどに幸せだった。
だけど、夢は終わり。
自分一人と『東雲グループ』に関わる多くの人たち。どちらか一方を選べというのならば、より多くを救える道を選ぶのが『正しい』ことだから。
現実として、東雲千景は自分だけのために大勢が不幸になる道を選ぶことはできない。選んだところで、罪悪感に魂が摩耗して、朽ち果てるに決まっている。
だから、一人の犠牲で大勢が救われるのは誰が聞いても明らかな『正しさ』で。
だから、どちらも救われる完全無欠のハッピーエンドに至る道なんてないのならば、どちらか一方を選ぶしかなくて。
だから、これは『正しい』末路なのだ。
二人の親友との美しく、光り輝く思い出があれば耐えられる。もう一生分の幸せを味わったのだから、これから先は一生分の不幸が待っているだけなのだ。
そう、言い聞かせて。
納得したはずなのに。
テーブルの下、集まったお偉いさん方からは見えない位置で、ニタニタと笑う草薙大蛇の手が伸びる。油ぎった、欲望に満ちた指が東雲千景の下腹部を撫で回す。
隣に腰掛ける草薙大蛇に視線を送ることはない。声をかけて止めるよう頼むなど愚の骨頂だ。
嫌がれば嫌がるだけ、草薙大蛇を喜ばせるだけだろう。『東雲グループ』を盾にすれば、千景の抵抗なんて容易くねじ伏せられるのだから。
受け入れるのが、最善だ。
受け入れるしか、ない。
そこまで考えて、東雲千景はこれから先もずっと『こんな』なのだと自覚して、ゆえに気づいてしまった。
(ああ。わたくし、もう、終わってしまったんですね)
幸せな、二人の親友との美しい思い出があれば過酷な現実にだって耐えられる……わけがなかった。幸せを知っていればいるだけ、現実との落差に魂は悲鳴をあげるものなのだ。
もしも、家族が東雲千景のことを愛していなかったら。
もしも、安藤琴音に外の世界に連れ出されることがなかったら。
もしも、ミィナ=シルバーバーストに恋していなかったら。
知らなかったならば、おそらく耐えられた。現実とは『そういうもの』だと思っていれば、それ以上を望むことはなかった。
だけど、東雲千景は知っている。
家族の皆が『普通』を望む千景を許してくれるほどに愛していることを。安藤琴音と共に何の気兼ねもなく駆け回ることが楽しいことを。そしてミィナ=シルバーバーストと共に過ごすだけでどうしようもなく幸せであることを。
だから。
だから。
だから。
(こんな奴と、結婚なんてしたくありません)
それは、それだけは。
叶わぬ願いであり、望んではいけない願いだった。助かるだけなら簡単で、だけど助かってしまったら東雲千景以外の大勢が絶望に突き落とされるのだから。
わかっているから、東雲千景は全力で目を逸らす。膝の上で両の拳を握り、溢れそうになる願望を歯を食いしばって封じ込めて──ドバンッ!! とホテル『八岐大蛇』最上階の豪勢な会場の扉が勢いよく開け放たれた。
そこに立っていたのは、
「千景!!」
「助けに、きたよ……っ!!」
安藤琴音、そしてミィナ=シルバーバースト。
美しく、光り輝く夢のような過去の象徴が過度に装飾の施された豪勢な『だけ』の空虚で醜悪な現実へと踏み込んできたのだ。