09.葵の願い
「な……何を、言ってるの、葵君……?」
投げつけられた問いが理解できないというように、彼女は肩を小さく震わせた。
「あたしは……ゆかり。どうしてそんな事を言うの……?」
かすかに上ずった声が、葵の鼓膜を震わせる。
しかしその言葉にも、そこにありありと滲む哀しげな響きにも、心を揺さぶられる事はない――ただ葵の脳裏に巣食う違和感が、ますます強くなっただけだった。
「ゆかりは……本物のゆかりは」
ひりつく喉を一度唾液を飲み込んで湿してから、葵は静かに口を開く。
目の前の彼女に対する得体の知れない恐怖も、確かに心に存在している。しかしそれ以上の怒りと焦燥が、葵を突き動かしていた――油断すると声を荒げそうになる衝動を懸命に抑えながら、ただ淡々と言葉を続ける。
「……自分の事を『あたし』とは呼ばない」
ゆかりは自らの事を『わたし』と呼ぶ。そもそもそう呼ぶ事自体、滅多にないけれど――葵の指摘に、目の前に立つ彼女は無言のまま、琥珀色の双眸を大きく見開いた。
「それにゆかりは……こんな場所を、一人で出歩いたりしない」
旅先という慣れない環境で、葵に何も告げず一人で出歩くなんて、ゆかりは絶対にしない――頼れる者が誰もいない場所での単独行動。その危険性を、ゆかり自身が一番良く理解しているからだ。
「そ、それは……すぐに戻るつもりだったから……」
その言葉に、見開いたままの瞳をあちこちにさまよわせ、彼女はしどろもどろの反論を口にする。
「葵君、良く眠ってたから……起こすのも申し訳ないと思って………」
だが、たとえどんな理由があったとしても、ゆかりが一人でこんな場所に出るはずがないのだ――葵はゆっくりとかぶりを振ったのち、彼女に射るような視線と声を向けた。
「……一人だとパニックを起こすくらい、暗闇が怖いのに? それなのに一人で、外に出ようと思ったの?」
――ゆかりは闇を、何より恐れている。
もしも闇の中に一人で足を踏み入れてしまったら、膝が震えてその場から動けなくなってしまうほどに。夜眠る時ですら、完全な暗闇に包まれる事に耐えられず、小さな明かりを灯さなければならないほどに――それは、幽霊の存在を信じているからではない。過去のトラウマが、ゆかりをそうさせたのだ。
だからゆかりは、信頼できる人間の同行なしに、闇の中を出歩く事は決してしない。
それなのに目の前の彼女は、自動販売機があるホームの終端まで、当然のように一人で歩いていた――葵の指摘に、さすがに返す言葉が見つからないのだろう。彼女はひゅっと息を呑んだきり唇を閉ざし、どこか口惜しげにも見える仕草で顔をうつむけた。
黙り込んだ彼女になおも鋭い視線を注ぎながら、葵はさらに違和感を指摘する。
「それからゆかりは……僕に冷たい緑茶を勧めたりしない。体質的に飲めない事を、知ってるから」
葵が冷たい緑茶を避けるのは、味が苦手だからという単純な理由ではない。温かい緑茶なら平気なのに、冷えた緑茶を口にするとなぜか蕁麻疹が出てしまう、やっかいな体質だからだ。
葵のためにいつも緑茶以外の飲み物を用意してくれるゆかりは、その事を良く知っている。だから近くに自動販売機がある、車内に戻れば別の飲み物もあるというこの状況で、冷たい緑茶を勧めてくるはずがないのだ。
そんな葵の言葉に、目の前の彼女が返したのは沈黙だった。
視線を自らのつま先に落としたまま、しばしの間肩を小刻みに震わせていたけれど――
「それは……ごめんなさい」
ややあって小さく唇を開き、弱々しい声をこぼした。
「あ……わたしも、こんな状況だから少し慌ててたみたい……だから、間違えたの」
彼女の内心の動揺を示すように、その声はひどく震えている。しかしその発声は明瞭で、掠れたり途切れたりするような事はない――それは目の前のゆかりが本物だというのなら、絶対にありえない事だった。
力なく肩を落とし、ペットボトルを握りしめた両手を胸元に引き寄せた格好で、その場にじっと立ち尽くす彼女。
この状況においてもなお、どうにか自らを取り繕おうとするその姿を前にして――ふと葵の胸の奥から、複雑な感情がこみ上げた。
ゆかりを奪い去った上、未だ苦しい言い訳を重ねてゆかりになりすまそうとする事に対する怒りは、今も消えていない。目の前の彼女がゆかりではないなら、早く本物を探さなければという焦燥だって、確かにある。
けれど同時に、この事態を招いたのは自分なのだという事も、葵は頭の片隅で理解していた。
自分が奇跡など信じずに、もっと早くこの違和感と向き合っていれば。そうすれば今頃葵は、本物のゆかりと一緒に、この不気味な場所から抜け出せていたかもしれないのに――
「…………ゆかりは」
葵は一度言葉を切ると、大きく息を吸い込んだ。
むせ返るような土と緑の匂いに満ちた、みずみずしい空気。一旦肺に納めたのちに、それをゆっくりと吐き出して――そして、極力感情を押し殺した声で、静かに告げる。
「ゆかりは……そんなふうに喋らない」
「……え?」
「話したくても……思うように、声が出せないから」
「…………っ」
葵の言葉に、彼女が――ゆかりの姿をしたものがはっと顔を上げ、つぶらな瞳を限界まで見開いた。
その顔に浮かんだのは、驚愕と戸惑い。しかしやがて何かを理解したのか、その表情は絶望へと変わっていった。
――ゆかりは、ほとんど言葉を発する事ができない。声を出そうとするといつも、途中でかすれたり途切れたりしてしまい、最後まで喋る事ができないのだ。
原因は喉の障害ではなく、精神的な疾患。それゆえに、その声の具合は本人の精神状態に強く影響される。
ここ数日は旅行を楽しみにしていたおかげで精神が安定していたらしく、声の調子も良かったけれど――それでも、はっきりと話せるのは単語一つ程度。長い文章を口にする事など、できるはずもなかった。
それなのに目の前の彼女は、先ほどからずっと、よどみなく言葉を発し続けている。闇に包まれた無人駅で、電車に戻る事ができないという異常な状況にも関わらず――もしこれが本物のゆかりだったら、きっと今頃は闇に怯え、一切口を利く事ができなくなっていただろう。
「だから君は、ゆかりじゃない」
まるで死刑宣告を受けた罪人のように、口を一文字に引き結んで顔を歪めている、ゆかりの姿をした誰か。その暗くよどんだ瞳をじっと見つめ返しながら、葵は告げる。
その言葉を口にした途端、急激な息苦しさを覚えて、わずかに呼吸が乱れた――目の前の彼女は、ゆかりではない。ずっと待ち望んでいた奇跡など、起こってはいなかった。その事実に、葵はただ失望していた。
「本物のゆかりはどこ? 君は……一体、誰なの?」
それでもどうにか息を整えて、葵が先ほどと同じ質問を繰り返すと――とうとう彼女は、観念したようだった。
眉を下げ、その瞳をわずかに細めて――悲しげな表情で、弱々しく微笑んでみせた。
「……どうして?」
ふいにその唇が薄く開かれたかと思うと、そこから沈みきった声がこぼされる。
「最初から分かっていたのなら……どうして、今まで何も言わなかったの?」
それは、彼女が抱いて当然の疑問だ。
おかしいと思っていたのならば、なぜそれを指摘してくれなかったのか――疑念に満ちたその声には、わずかに咎めるような気配が滲んでいる。それに気づいて妙な後ろめたさを感じ、葵は視線を足下へと落とした。
「……奇跡が起こったと、思いたかったから」
つま先のすぐそばのコンクリートに、細いひび割れが走っている。それをじっと見下ろしながら、葵はぽつりと答えた。
「ゆかりがようやく声を取り戻したんだって……つらい事も悲しい事も全部乗り越える事ができたんだって、信じたかったから」
懸命に堪えたにも関わらず、声がかすかな震えを帯びるのを、止める事ができなかった。
過去に負った深い心の傷に苛まれて悪夢にうなされる事も、闇に怯える事もない。
自分が話せない事に強い引け目を感じて、涙を流す事もない。
そして、ごく普通の女性のように、自らの思いを自由に言葉にして葵に伝えてくれる。
そんなゆかりの姿は、葵が――そして何よりゆかり自身が、求め続けているものだ。
だから葵は何も言わなかった――否、言えなかった。
『何か超常の存在がゆかりになりすます』なんて事が起こるはずがないという、現実的な考えがあったのも確かだけれど――それ以上に、奇跡が起こった可能性を否定したくなかったから。目の前にいるのが、本物のゆかりだと思いたかったから、葵は口をつぐみ続けた。
オカルトは信じないのに、奇跡は信じようとした。そんな自分の甘い考えが、この事態を招いたのだ。
だが、この駅のホームで彼女と出会った時からずっと、頭の片隅を支配していた違和感。それがとうとう、今ここにいるのが本物のゆかりではないと教えてくれたから――だから葵にはもう、黙っている事はできなかった。
ゆかりの姿をしたものが、がっくりとうなだれてホームの上に立ち尽くす。
唇をぎゅっと噛みしめて、今にも泣き出しそうに目を細めながら――その痛ましい表情は、つらい過去に苛まれたゆかりが見せるものに、とても良く似ていた。
そのせいで、目の前の彼女がゆかりではないと理解しているはずなのに、葵の胸は鉛を詰め込まれたようにぐっと重く痛んだ。
その痛みに奥歯を噛みしめて耐えながら、葵は一歩足を踏み出した。
一旦は距離を取った彼女の目の前に立ち、悲しげなその表情を見下ろして、静かに問いを投げかける。
「君は誰? どうやってゆかりになりすましたの?」
それは、彼女が偽物だと確信した時から胸に宿り続けていた疑問だった。
一体どのような人知を超えた力が働けば、姿も声もここまでそっくりに擬態できるというのか――
「それとも……君はゆかりの身体を乗っ取ってるの? その身体だけは、本物のゆかりなの?」
あるいは、精神が別人に入れ替わっているだけで、目の前の彼女の肉体は本物のゆかりのものなのだろうか――しかし葵が重ねた問いに、彼女は唇を噛み締めたまま。納得のいく答えが返ってくる事はなかった。
意図的に黙秘しているのではなく、ひょっとしたら目の前の彼女にも、詳細な原理は分からないのかも知れない。そう判断して、葵は小さなため息をこぼす。
胸の中がざわついている。そこに宿る焦燥が、大きく膨れ上がっていく――どうやってゆかりになりすましたのかなんて事は、本当はどうだっていい。目の前の彼女の正体も、その身体が本物のゆかりなのかどうかも、さして重要な事ではないのだ。
今葵が望んでいるのは、真実を知る事ではない――大切な彼女を、この手に取り戻す事だけだ。
「……もしその身体が本物のゆかりなら、早くそこから出て行って」
次に発した声は、葵の内心の焦りを示すように、硬質なものになった。
「その身体ごと偽物だっていうんなら、本物のゆかりの居場所を教えて」
決して荒げたわけではない、けれど強く鋭い口調で発した言葉。その声音におののくように、ゆかりの姿をしたものが、縮こめた身体をぎゅっと抱き締める。その拍子に、彼女がずっと握っていたペットボトルが、掌からずるりと滑り落ちた。
そんな彼女の姿を、じっと見据えながら――自らの抱くたった一つの願い。それを葵は、淡々と口にした。
「返して。本物のゆかりを……早く、僕のところに返して」