08.君は誰
葵達が、割り当てられた客室がある六号車にたどり着いたのは、それから間もなくの事だった。
車輌の上部を見上げ、そこに『6』の文字が掲げられている事を確認する。ようやく車内に戻れると安堵しながら、視線を下方へと動かして――その瞬間胸の中の安堵は、絶望と恐怖に変わった。
「閉まってる……なんで?」
思わずそんなつぶやきが、唇からこぼれ落ちる。
これ以上ないというほどに双眸を見開き、目の前の扉を凝視したが――何度そんな事をしても、現実は変わらなかった。
先ほど自分が飛び出してきたはずの、ホームと車内を繋ぐ扉。それがいつの間にか、硬く閉ざされている。
別の扉と場所の覚え違いをしているのか。そんなありえない可能性すら考えて、素早く歩き回って六号車の他の扉も確かめてみたけれど――しかしそのどれもが閉まっている事に気づき、愕然と立ち尽くした。
そして奇妙な事は、それだけではなかった。
「電車の中………真っ暗だ」
十四両ある寝台特急の窓。そのどれからも、光が漏れてこないのだ。
こんな時間だから、乗客が皆寝静まっているというのも、おかしな事ではないけれど――全員が全員、天井の照明どころか足下灯まで完全に消して就寝する、というのはさすがに不自然すぎるだろう。
それに乗客はともかく、乗務員が全て眠ってしまうという事はまずありえない。必ず誰かが起きているから、廊下や運転席が消灯される事はないはずだ。しかしその光すら外に一切漏れてこないというのは、いくらなんでも不可解な事だった。
おまけに――葵は自分の部屋とおぼしき場所の窓に、右手をぴたりと押し当てる。掌にガラスの冷たさを感じながら、鼻先が触れそうなほどに顔を近づけ、じっと中をのぞき込んだ。
しかしどれほど目を凝らしても、その窓ガラスの向こうの様子を窺う事はできない。まるでペンキで完全に塗りつぶされているかのように、そこに見えるのは一面の漆黒だけだった。
先ほど部屋を飛び出した時、自分は足下灯を点けたままにしてきたし、カーテンも開けていた。
それなのにその光すら、いくら探しても見つからない。明らかに異常な状況を目の当たりにして、葵は一歩後ずさり、電車から距離を取った。
「どうして……」
漏らした声は、自分でも驚くほどかすれきっている。
しんと静まりかえり、人の気配すらまるで感じられない暗闇の寝台特急。
もしも扉が開いたとしても、果たしてこの中に戻っても大丈夫なのだろうか。ふいにそんな疑念が、葵の胸の中で鎌首をもたげた。
再び額から滲んだ玉のような汗が、頬から顎へと伝い落ちる。緊張と恐怖に、手足の表面をぴりぴりとした不快感が駆け抜けた。鼓動は一段と激しさを増し、心臓はもはや鈍い痛みすら訴え始めている。
不自然なほどに暗く静まりかえっているとはいえ、しょせんこれはただの列車。じきに何事もなかったかのように動き出し、この駅を後にするのだろう――葵だって、頭の片隅ではそう理解している。
それなのに、心に生まれた戦慄が消える事はない。それどころかその感情は、今や胸を引き裂かんばかりに大きく膨れ上がっていた。
「葵君……」
けれど、今にも恐慌に陥りそうだった葵の精神は、かろうじて理性の側に繋ぎ留められた――ふいにゆかりの呼び声が、鼓膜を震わせた事に気がついたからだ。
「葵君も、あたしも……このドアから電車を降りたはず……よね?」
葵の半歩後ろに立ち、琥珀色の瞳で電車の姿をつぶさに観察する彼女の声は、かすかに震えを帯びていた。
「なのにどうして……ドアが閉まってるの? それに、中もなんだか暗いし……」
葵が抱いたものと全く同じ疑問を口にしながら、ゆかりが視線を向けてくる。
その双眸に宿る、不安定に揺れる心細げな光。それが葵に、わずかばかりの冷静さを取り戻させた。
「分からない……けど」
ただでさえこんな闇の中で恐ろしい思いをしている彼女に、これ以上不安な思いをさせたくない。葵はつとめて明るい声を出し、ゆかりに語りかける。
「きっと大丈夫だよ。この先に、どこか開いてる扉があるかもしれないし」
しかしこの状況では、確実な事は何も言えなくて――発した言葉は、希望的観測に満ちたものになってしまった。
そしてそれを、彼女も感じ取っているのだろう。瞳をますます不安げに揺らめかせながら、震える声を返してきた。
「もしも……どこも開いてなかったら?」
「そうしたら……先頭車両に行ってみよう」
「先頭車両に?」
「うん。そこなら、運転室に運転士さんが乗ってるはず。そうしたら、事情を話せばドアを開けてもらえるから……だから大丈夫だよ」
運転室まで行けば、誰かしらには会う事ができるはず。もしも運転士が休憩などで席を外していたとしても、待っていれば発車の時間までには戻ってくるだろう。
「……そっか。そうだよね」
そしてそんな葵の言葉に、ゆかりは少しだけ希望を見いだしたようだった。暗かったその顔に、わずかばかりの明るさが戻ってくる。
「……でも」
――けれど、その時。
彼女はまるでいい事を思いついたというように、突然その双眸をきらめかせた。
「ねえ、葵君……それなら、あそこの改札にも行ってみるのはどう?」
「え?」
直後かけられた言葉がとっさに理解できなくて、葵は間の抜けた声を漏らす。
「改札……?」
おうむ返しの問いを発すれば、ゆかりは小さくうなずいて、静かに左手を持ち上げた。ペットボトルを持ったまま、白魚のような指を器用に伸ばし、先頭車両のさらに先にあるホームの終端を差し示してみせる。
それを葵は、視線だけで追いかけて――そこに浮かび上がる改札口の姿に気づき、思わず目を見開いた。
葵達の立つ場所から百メートル以上離れた場所に、無人の改札口が二つ、所在なげにぽつんと並んでいる。全体的に薄暗いこの駅において、なぜかその場所だけは、自動販売機よりもさらに明るい光に照らされていた。
いくら距離があるとはいえ、あれだけ明るく目立っている場所の存在に、どうして今まで気づかなかったのか。新たな動揺と混乱に襲われて、葵は細く息を呑む。
「ここは無人駅かもしれないし、こんなに夜遅くだから自信はないけど……ひょっとしたら、駅員さんがいるかもしれないし」
ゆかりが続ける言葉を聞きながら、葵はその場所をまじまじと観察する。
改札口の傍らには、事務所らしき建物もあった。よくよく目を凝らしてみれば、その建物の小さな窓からは、うっすらと光が漏れている。確かに彼女の言うとおり、人がいる可能性のありそうな場所だった。
「もしも運転室に行って、運転手さんがいなかったら……そっちも確かめてみた方がいいと思うの」
「でも……」
けれど葵は、彼女の提案に素直にうなずく事ができなかった。
あのブログに書かれていた管理人の言葉――『改札を通ってはいけない』というアドバイスが、ふと脳裏をよぎる。
改札の向こうには死者の国が広がっている、なんて言葉を信じたわけでは決してない。
それに自分達は、寝台特急に戻らなければいけないのだ。改札に近づいたとしても、そこを通るつもりは毛頭なかった。
だが、頭ではそう分かっているはずなのに――どういうわけか葵の本能は、あの場所に近づくのは危険だと、強く強く警告を発していた。
それに――葵は横目でゆかりの顔を窺いながら、更に思考を巡らせる。
今の彼女の提案に、何か奇妙なものを感じたと思ったのは、自分の気のせいだっただろうか。
『改札に行ってみよう』というゆかりの言葉。それがまるで『全ての列車のドアが閉まっている事』や、『運転室に誰もいない事』を知った上で発せられたもののように思えてしまったのだ。
『改札に行く必要はない、運転室のそばで待っていればなんとかなるから』。
自らの本能や疑念に従い、葵はゆかりにそう答えようとしたけれど――その時ふと、喉の奥がひりつく感覚に襲われて、反射的に小さな咳をこぼした。
汗を流しすぎたためだろうか。なぜだか急激に、喉の渇きが強くなったような気がする。無意識に水分を求めて、視線が宙をふらりとさまよった。
「……葵君、喉が渇いてるの?」
そんな葵の仕草が何を意図してのものなのか、ゆかりは気がついたらしい。口元に小さな苦笑を刻みながら、持っていた緑茶のペットボトルをそっと差し出してくれる。
「良かったら、飲む?」
――そして、そう声をかけられた瞬間。
「……っ!」
葵の脳の表面をじわじわと焼き続けていたかすかな違和感。
それが一気に膨れ上がり、そして爆発した。
「……いらない」
拒絶の言葉とともに繋いでいた手を離し、二歩ほど後退して距離を空ける。
嫌いだから飲みたくない、という理由だけではない。
今彼女が与えてくれるものは、たとえどんな物であっても絶対に口にしてはいけない――理由は自分でも分からない。けれどなぜか、葵はそんな気がしていた。
「葵君?」
唐突にかたくなな態度を示した葵の顔を見上げて、彼女がぽかんと目を見開く。
困惑の光を宿し、こちらを見つめるつぶらな琥珀色の瞳。それを葵は無言のまま、ただじっと見返した。
神様、幽霊、超常現象。そういったオカルトの類を、葵は一切信じていない。
その考えは、この不可思議な状況にあってもなお、変わってはいなかったけれど――しかし今、理屈では説明のつかない何か不思議な事が、自らの身に降りかかっている。それを葵は、ようやく理解しつつあった。
目の前の彼女と視線を重ね合わせたまま、葵は静かに問いかける。
「君は…………誰なの?」
「…………え?」
直後、彼女が――ゆかりに良く似た姿をした何者かが、呆然とその場に立ちすくんだ。