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07.名前のない駅

 ――夏の夜のぬるい空気が、全身にまとわりついている。


 良く冷やされた車内の空気とは打って変わって、外気はむわりとした熱気を帯びていた。

 暑く湿った空気が、肌からじっとりと汗を滲ませる。額に浮かび、流れ落ちそうになった雫を、葵は空っぽの右手の甲で乱暴に拭い取った。

 汗で水分を失ったせいか、ひどく喉が渇いている。早く部屋に戻って何か飲もうと考えながら、葵は左手でゆかりの手を引いて歩き続けた。



 薄暗い駅のホームは、ろくに手入れされていないのか、かなり老朽化が進んでいた。

 ホームのコンクリートはところどころにヒビが入っていて、ポールやフェンスもあちこち錆が浮いている。ぽつりぽつりと置かれた木製のベンチも、今にも壊れそうなほどに朽ち果てていた。


 それなのに、駅自体は妙に広い。

 利用者の少ない田舎の駅といえば、車輌数両分程度の長さしかないのが定番だろう。しかしこの駅には、十五両の都心の通勤電車が止まってもまだ余裕がありそうなほどの長さがあった。

 そんな大きい駅ゆえか、ホームの上には屋根が取り付けられている。しかしそこに設置された蛍光灯はやけに数が少なく、そして光量がかなり落とされていた。

 そのせいで、ホームはひどく薄暗い。そこかしこに、深い闇がわだかまっていた。


 広大な駅に自分達以外の誰の姿もなく、暗く静まりかえっているというのは、なんとなく気味が悪い。周囲の熱気とは裏腹に、背筋がぞわりと寒気を訴えるのを感じながら、葵はさらに視線を巡らせる。

「……ん?」

 そしてすぐに怪訝な思いに襲われて、顔をしかめる事になった。

 頭上を見上げても、屋根を支える鉄柱を確かめても、駅の名前がどこにも見当たらなかったからだ。


 客の乗降を目的としない、貨物の積み卸しや乗務員の交代のために作られた駅だから、でかでかと名前を表示する必要がないという事なのだろうか。しかしそれにしても、ここまで駅名が見つからないのは奇妙な事だった。

 何より、そんな目的で作られた駅があったとしたら、もっと作業をするスタッフで賑わっているはず。ここまで人が見当たらないというのは、まずありえないだろう。


 それに詳細な場所までは分からないが、どうやらこの駅は山の中、森の奥深い所にあるらしい。鼻孔を刺激するむせ返りそうな緑と湿った土の匂い、そして途切れる事のない虫の声が、葵にその事実を教えてくれている。

 もしもここが何かの作業を目的とする駅ならば、もっと交通の便の良い場所に作るのではないだろうか。わざわざこんな、辺鄙(へんぴ)な場所に作る理由が分からなかった。


 ――そこまで考えて、葵は眉を寄せたままで小さく嘆息する。

 この駅が存在する合理的な理由を探しているのに、考えれば考えるほど、疑問ばかりが湧いてくる。思考が自分の思い通りにならないような状態に、胸がざわつく感覚が治まらない。心臓は相変わらず、どくどくとせわしなく脈を打ち続けていた。



 『名前のない駅』。

 その時ふいに、葵の脳裏にそんな言葉が蘇る。

 同時に、ネットで見た怪談話の一部始終が、記憶の奥底から一気に呼び起こされた。

 乗客の寝静まった真夜中に停車する、死者の魂だけが下車する無人駅。人の姿がなく寂れていて、ひどく老朽化したこの場所には確かに、あの怪談話に登場した駅と重ね合わせたくなる、なんとも言えない不気味さがあった。


『絶対にホームに降りてはいけない』

 頭をよぎるのは、記事の最後に記されていた管理人の警告の言葉。

 もしもここがくだんの駅だったとしたら、自分はすでに忠告を無視して電車を降りてしまっている。このままもう一つの忠告『すぐに車内に戻る事』まで無視してしまい、ここに取り残されてしまったら――そんな事を考えかけて、葵は慌ててぶんとかぶりを振った。


 死者が降り立つ、あの世とこの世を繋ぐ駅なんてもの、現実に存在するはずがない。

 不可解な事は多いけれど、ここだってきっと普通の駅だ。寝台特急がこの駅で停車したのも、対向列車とのすれ違いとか緊急の車両点検とか、おそらくそんな理由があっての事だろう。


 基本的に葵は、オカルトの類を信じていない。

 それなのにこんな非現実的な事を考えてしまうのは、夕暮れ時にシャワー室で見たおかしなのせいだろう。

 走行中の電車の窓にべったりと貼り付いてこちらを見つめていた、生気のない顔をした女性の姿――その光景が未だに頭の片隅を離れないから、非科学的な思考からいつまでも逃れられないのだ。

 そしてそんな考えに拍車をかけるのが、この駅の雰囲気――人間というのは、本能的に暗闇や静寂に恐怖を感じてしまうもの。だから自然と、弱気になってしまうのだろう。



「葵君?」

 その時傍らから聞こえたゆかりの声に、葵ははっと我に返った。

 思わず足を止めて確かめれば、彼女は眉を曇らせ、いぶかしげな表情を浮かべてこちらを見上げている。

「手が………どうしたの、急に……?」

 その表情を目の当たりにして、葵は気づく――自分が無意識に、ゆかりの小さな手をきつく握り締めていた事に。


「あ……ごめん」

 慌てて葵は掌から力を抜き、それをぱっと引っこめる。途端に、痛みを堪えるようだった彼女の表情が、和らいだものに変化した。

「痛かったよね……本当にごめん」

「ううん、大丈夫」

 葵が謝罪の言葉を紡げば、ゆかりは静かな声とともにそっとかぶりを振ってみせる。

 同時にほっそりした手が伸びてきて、一度は引っ込めた葵の手を取り、きゅっと握り締めてくれた。


「それより、早く行こうよ」

 そう言って、ゆかりが唇の両端をかすかに吊り上げる――それはまるで葵を励ますような、明るく穏やかな笑顔。

 けれど、そうして小さな微笑を刻む唇は硬く強張っていて、双眸はぎゅっと細められている――内心は不安でいっぱいなのに、それを必死で押し殺し、表に出すまいとしている。そんな彼女のいじらしい仕草に、葵の胸がぎゅっと締め付けられた。


「……うん」

 はっきりとうなずき返して、葵は彼女の小さな手をそっと握り直す。

 周囲に満ちる深く重たい闇。その闇に恐怖を感じているのは自分だけではない。ぎこちない彼女の笑みが、葵にそんな当たり前の事を思い出させてくれる。

 彼女にこれ以上、不安な思いをさせたくない。そのためにも早く列車に乗り込み、自分達の部屋へ――安心できる場所へと戻らなければならないのだ。


 だから、こんな場所で立ち止まっているわけにはいかない。その思いが、ずっと葵を苛み続けていた恐怖を遠ざけ、新たな一歩を踏み出す勇気を与えてくれる。

「行こう」

 短く告げて、葵は再び彼女とともに歩き出した。

 ひっそりと静まりかえった駅のホームに停車する、夜の闇と同化してしまいそうな紺碧の列車。そのすぐ近くを、開いている扉はないかとじっと目を凝らし、確認しながら進んでいく。


 しかし奇妙な事に、どの車両の扉も硬く閉ざされたまま――ひょっとして、手動で開閉するタイプなのか。そう考えてドアの周囲も探ってみたが、ボタンやレバーの類も見つける事はできなかった。

「ここも、閉まってる………」

 開かない扉を見つけるたびに、葵の心に落胆が降り積もっていく。

 しかしそれでも、ここで諦めるという選択肢は存在しない。葵はゆかりの手を引いて、ただ足を進め続けた。

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