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06.消えたゆかり

 ――夢を見ていた。


 それはどこかの花火大会の会場、たくさんの人が行き交う大通りを、ゆかりとそぞろ歩いている夢だった。


 隣を歩く彼女は、水色の生地に朝顔の花が咲く浴衣をまとい、かき氷の大きなカップを手にしていた。

 髪をまとめているのは、薄紫色の蝶のヘアクリップ。それは道の左右に並ぶ屋台を見回すゆかりの動きに合わせ、ひょこひょこと可愛らしく揺れていた。


 夜空には次々と大輪の花火が打ち上げられて、そのたびにどおん、どおん、と低く重たい破裂音が響く。

『葵君』

 その色とりどりの光の中で、ふいにゆかりが唇を開いた。ストローで作られたスプーンでかき氷をすくい上げると、柔らかく微笑みながら、葵の目の前に差し出してくれる。

 氷を染めるシロップの鮮やかなピンク色が、やけに目に眩しい。それを口の中に迎え入れようと、葵もまた唇を開き――


「……葵君」

 ――その時、耳元で名前を呼ばれたような気がして、意識が急速に覚醒していった。



「んん……」

 小さな唸り声を上げながら、葵は羽毛布団の中でもぞもぞと身じろぎする。

 全身を支配するのは寝起き特有の気だるさ。頭の回転も、ずいぶんと鈍くなっている。それでもどうにか脳を働かせて、眠りに就く直前の記憶を呼び起こした。



 あの後しばらく、葵はゆかりと並んで腰を下ろし、車窓からの風景をゆっくりと楽しんだ。

 都心を遠く離れ、海からも遠ざかり――いつしか見える景色は、闇に沈む田園や小さな集落の風景、ひなびた無人駅といった、静かでどこか趣深いものに変わっていった。


 しかし車窓を眺めて過ごしているうちに、のどかな風景や穏やかな電車の振動に、徐々に睡魔を呼び起こされてしまい――結局葵は『何かあったら遠慮なく起こして』と言い置いて、ゆかりよりも先に布団に潜り込んだのだった。



 それが確か、十時を少し過ぎた頃の事。

 その時に、ゆかりが気を遣って天井の照明を落としてくれたから、室内を照らすのは足元灯の光だけだ。

 しかし心なしかその光が、眠る前よりも弱くぼんやりとしているような気がする。奇妙に思いながらも葵は、羽毛布団にくるまった格好のまま、周囲の様子を観察した。


 室内の光景は、眠る前とさほど変わっていない。変わったところといえば、カーテンを開いたままの車窓から、青白い光が弱々しく差し込み続けている事くらいだ。

 窓ガラスの向こうに広がるのは、薄暗く人気ひとけのないホームの風景。どうやら列車は、どこかの駅で停車中のようだった。

 ふと頭の中に『どこの駅だろう』と疑問が湧き上がり、葵は視線を窓の外のあちこちにさまよわせる。けれど死角になっているのか、駅名が書かれた看板の類を見つける事はできなかった。


 ――見つからないのならば仕方がない。葵は小さく息をついて、重さの残るまぶたをゆっくりと落としていく。

 現在時刻は分からないが、おそらく日付は変わっている。こんな時間では、ゆかりもさすがに眠っているだろう。

 睡魔に支配されかけた頭でそんな事を考えながら、葵は閉ざす寸前の双眸を、車窓から彼女のベッドへと動かして――

「…………え?」

 ――直後、唇の隙間から間の抜けた声を漏らした。



 窓辺に置かれた小さなベッド。

 本来ならばゆかりが使っているはずのそこが、いつの間にかもぬけの空になっている。シーツの上には丸められた薄い布団だけが、物寂しげにぽつりと取り残されていた。


「……ゆかり?」

 葵ははっと目を見開き、ベッドから跳ね起きる。

 頭の中にくすぶっていた睡魔がどこかに吹き飛んでいくのを感じながら、きょろきょろと周囲を見回した。

「ゆかり? いるの?」

 何度か声をかけてみるが、反応はない。狭い客室の中には、葵以外に動くものなど一切存在しなかった。



 ――ゆかりがいない。

 その事実を突きつけられた瞬間、葵の心臓が大きく跳ね上がる。瞠目した瞳の奥が、どくどくと嫌な脈を打ち始めた。

 不快な汗がじわりと滲み出る掌を、無意識のうちにぐっと握りしめ――それから数度深呼吸して、焦燥に駆られる頭をどうにか落ち着かせる。つとめて冷静を保つ事を意識しながら、ゆかりがなぜ姿を消したのか、その理由に思いを巡らせた。


 真っ先に考えつくのは、お手洗いに行ったという可能性。あるいは、洗面所やシャワー室に何か用事ができたのか。『何かあったら起こして』という約束を反故ほごにされたのは解せないけれど、常識的に考えれば、それが一番ありえそうな話だろう。


「……そうだ」

 その時ふと思い立って、葵は窓辺のベッドに手を伸ばし、そこにそっと触れてみた。

 さらりとしたシーツは、ひんやりと冷たい。どうやらゆかりがいなくなってから、かなりの時間が経っているようだった。

 五分や十分、席を外すというのならまだ分かる。しかし、これほど長く戻ってこないのはさすがに妙だ――そう考えた葵の胸の内で、急速に不安と疑念が膨れ上がった。


 ひょっとしたら、部屋の外で何かトラブルに巻き込まれたのかもしれない。今頃は、周囲に助けを求める事もできず、一人で途方に暮れているのかも――そう思ったらいてもたってもいられなくて、葵は勢い良く立ち上がった。

 動きやすいように、備え付けのスリッパではなくスニーカーを履く。それから急いで部屋を飛び出そうとして――


 ――直後視界の端、車窓を何かがよぎった事に気づき、ぎくりと身体を強張らせた。


「何……?」

 慌てて首を動かして視線を窓の外へと向けたが、もうそこに動くものはない。

 しかし通り過ぎたものの姿は、葵の目の奥にはっきりと焼き付いている――窓の向こう、閑散としたホームを右から左へ早足で歩き去ったのは、おそらくまだ若い女性。彼女は長い黒髪を一つに束ねていて、ほっそりとしたその身体を薄紅色のワンピースに包んでいた。


「まさか……ゆかり?」

 その服装も、髪型も、昼間のゆかりがしていたものにとても良く似ていた。そしてその、華奢で儚い身体つきも――瞬間、葵は勢いよくドアを開き、客室の外へと飛び出した。

 階段を駆け上がると真っ先に、全開になったホームへ続くドアが目に飛び込んでくる。迷わずそこから電車を飛び降りて、彼女が去った方向へと走り出した。


 百メートルほど向こう、ホームの端には、赤い自動販売機が二台並んでいる。

 それは目が痛くなりそうなほど煌々とした光を放っていて、その前に立つ女性の姿をくっきりと照らし出していた。

 こちらに背を向けて立つ、黒髪の女性――その顔は、ここからでは見えない。しかし葵が、その正体を間違えるはずなかった。


「ゆかり!?」

 いつしかカラカラに乾いていた唇から、葵は大きな呼び声を上げる。

 夜中に大声を出しては他の乗客の迷惑になる、などと考える余裕もなく――閑散としたホームに足音を高く響かせながら、彼女の元へと走り寄った。


 近づく声と靴音に驚いたのか、彼女はびくっと肩を跳ねさせながら勢い良く振り返る。葵の姿を捉えた琥珀色のつぶらな瞳が、ますます大きく見開かれた。

 同時に彼女の――ゆかりの手が、ふいに力を失った。そこから滑り落ちたペットボトルが足元のコンクリートとぶつかって、ぼこん、と間抜けな音を立てる。

「あ……葵君?」

 内心の驚きを表すように、その声は上ずっていた。

 いつもの彼女が決して発する事のない、甲高く澄んだ声――それが葵の心を、ひどくざわつかせる。


「どうしたの………?」

「どうしたの、じゃないよ……」

 直後ゆかりが口にしたのは、不思議そうで、どこか呑気な響きを含んだ問い。それが葵の波立つ心に、苛立ちを湧き上がらせた。

 彼女を見つけられて安心する気持ちは確かにある。けれど、それでも――唇から叱責に似た声が飛び出すのを、葵は止められなかった。


「どうして、一人で部屋の外に出たの?」

「え……?」

「『何かあったら起こして』って言ったよね? なのに……どうして、声をかけてくれなかったの?」

 その声音は、自分でも驚くほど険のあるものになっていた。

 瞬間、投げつけられた言葉におののいたように、ゆかりが身をすくませる。空になった両手を胸の前でぎゅっと握り締め、まるで葵と目を合わせる事を恐れるかのように、その双眸をさっと伏せた。


「そ、それは………」

 怯えのありありと滲む彼女の反応――その姿を目の当たりにして、葵の胃が締め付けられたかのような不快感を訴える。

 同時に、安堵や動揺や苛立ちがない交ぜになった感情に支配されていた頭が、わずかながらも冷静さを取り戻した。


「………ごめん」

 途端にひどくいたたまれない気分に襲われて、葵は自らの足下に視線を落とす。

 スニーカーのつま先を見下ろしながら、胸を埋め尽くすばつの悪さをごまかすべく、言い訳を口にしようとしたけれど――

「起きたらゆかりが部屋にいなかったから、心配で……」

「……ごめんなさい」

 ――しかし、その言葉はゆかりの謝罪に遮られ、中途半端なところで途切れた。


「ずっと電車に乗っていたから、乗り物酔いしたみたいで。ちょっと気分が悪くなって……」

「……ゆかり?」

「風に当たったら治るかもしれないと思って、それで外に出たの。そうしたら、体調は良くなったんだけど、今度は喉が渇いてしまって……」

 葵と目を合わせぬまま、ゆかりは少し上ずった声で、早口に言葉を紡いでいく。

 うなだれる彼女が発した弁解の言葉。葵はそれに、とっさに返事ができなかった。


 ――尋ねたい事も言いたい事も、たくさんある。

 体調不良という非常事態なのに、どうして葵に知らせてくれなかったのか。

 飲み物なら客室にも買い置きがあるし、車内に戻れば自動販売機もある。それなのに、どうしてわざわざここまで来て購入しようと思ったのか。

 そして、どうして今、彼女は――


「……ゆかり」

 けれど、そのどれもを上手く言葉にする事ができなくて。

 葵はただ彼女の名前を呼びながら、一歩だけ歩み寄った。十センチ少々低い位置にあるその顔を、無意識にまじまじと見つめてしまう。


 ホームの天井から注ぐか細い光に照らされた、白く小さな顔。驚いたように葵を見上げ、不安定に揺らいでいる瞳は、どこまでも透き通った琥珀色だ。

 細く筋の通った鼻も、桜色をした柔らかな唇も、普段と何も変わらない。そこにあるのは、いつもと全く同じゆかりの姿だった。

 右肩から胸の方へと流した黒髪を一つに束ねているのは、薄紫色に輝く大きな蝶――二人で散々探し回ったのに、見つけられなかったヘアクリップ。それが彼女の髪を飾っている事に気づき、葵は思わず目を見開いた。


「どうしたの、葵君?」

 無言のまま自分を見つめ続ける葵に、不審なものを感じたのだろう。こちらの顔をじっと見返しながら、ゆかりが口を開く。

「あたしの顔に……何か、ついてる?」

「…………なんでもない」

 ぱちぱちとまばたきしながら発せられた質問に、葵はしばしの沈黙ののち、静かにかぶりを振った。それから右手を持ち上げて、彼女のヘアクリップを指し示す。


「それより……そのヘアクリップ、見つかったんだ?」

「え? う、うん……」

 そんな葵の問いが予想外だったのだろう。答えるゆかりの声は、戸惑いをありありと滲ませていた。

「さっき、ベッドのそばに落ちてるのに気がついたの」

「……そう、なんだ」

 ベッドの周辺は、一番丁寧に探したはずなのに。彼女の答えに、葵は思わず眉根を寄せたが――反論は口にせず、ただ小さくうなずいた。


 代わりにその場にかがみ込み、未だホームの上に転がったままだったペットボトルを拾い上げる。

 炭酸飲料で有名なメーカーが製造販売している、五百ミリリットル入りの冷たい緑茶。すでに開栓済らしく、その中身は少しだけ減っている。

 それを葵が差し出すと、ゆかりは薄く微笑んで、「ありがとう」と言いながら受け取ってくれた。


「それより、早く電車に戻ろう。いつ発車するか分からないし」

 電車は完全に停まっているらしく、耳を澄ませてもエンジン音一つ聞こえてこない。

 そんな状態ではすぐに発車する事はできないだろうし、そもそも発車前には何らかの合図があるだろうとも思うけれど――それでもなんとなく焦る気持ちを覚えながら、葵は空いている方の彼女の手を握り締め、「それに」と言葉を続けた。


「ゆかりも……早く休んだ方がいいと思うし」

 気分が悪いのは治まったようだが、それでも油断は禁物だ。明日からの観光を楽しむためにも今日はもう休み、体調を万全にした方がいいだろう――そんな葵の言葉に、ゆかりは素直な仕草でこくりとうなずいた。

「……うん」

 それから、白魚のような指にきゅっと力を込めて、葵の手をしっかりと握り返してくれる。



 ――華奢な掌から伝わる温もりも、柔らかさも、普段の彼女のそれと寸分違わない。

 それなのに葵は、脳の表面にちりちりと電流が走るような、奇妙な違和感を覚えていた。

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