05.落とし物
まだ葵の事を心配しているのかと思ったが、どうやら違うらしい。ゆかりの表情は不安ではなく、落胆によるものだった。
さっきまでは遠足中の子供のようにうきうきした様子だったのに、今はどこかしょんぼりとした雰囲気を漂わせている。彼女の形の良い眉は下がったまま――その肩も、消沈したように少し落とされていた。
「どうしたの? シャワー室で何かあった?」
自分がぼんやりしているうちに、何か嫌な目にでも遭ったのか。一抹の不安を覚えながら問いかければ、ゆかりは小さくかぶりを振って、「なくしたの……」と力のない答えを返してくる。
それからその手をゆるゆると持ち上げて、細い人差し指で自らの頭をすっと指差した。
たったそれだけの、小さな仕草だったけれど――葵はそれを目の当たりにして、彼女が伝えたい事のおおよそと、浮かない表情の理由を察したのだった。
その後、ゆかりがぽつぽつと説明してくれたところによると。
長い黒髪を飾っていた、薄紫色の蝶の形をした大きなヘアクリップ。それを彼女は、シャワー室の中で失くしてしまったらしい。
シャワーブースに入り、服を脱ぐ時に外して脱衣カゴに入れたはずなのだが、シャワーを終えて服を着ようと思った時にはそこから消えていたのだという。
もしかして、電車の振動のせいでどこかに転がっていってしまったのか。そんな事を思い、シャワー室の中をくまなく探してみたけれど――何度確かめても、ヘアクリップは見つからなかったという事だった。
そのヘアクリップは、少し前に葵が駅ビルの雑貨店で見つけ、ゆかりに似合いそうだと思って購入した品。
葵の見立てどおり、それは彼女の黒髪にとても良く映えていて――そしてゆかり自身も気に入って、ここ最近は毎日のように身に着けてくれていたものだ。
大切な品を紛失してしまったショックは大きいようで、彼女はひどく沈痛な表情を浮かべている。
「でも……妙だな」
しかしそんなゆかりを前にして、葵の口から真っ先にこぼれたのは疑問だった。
この寝台特急のシャワー室は、お世辞にも広いとは言えない場所。そして落としたのも、コンタクトレンズやピアスなどの細かいものではなく、大ぶりのヘアクリップだ。
そんな状況での失くし物が、いくら探しても見つからないなんて事がありえるのだろうか――ゆかりもそれは奇妙に感じているのだろう。沈んだ様子ながらも、納得がいかないと言わんばかりにしきりと首を傾げていた。
――とはいえ、ここで二人で考え込んでいても、失くしたものが見つかるわけではない。
「ひょっとして、記憶違い……とか? 本当はどこかで落としてしまったのに、シャワー室で外したつもりになってた……とか」
しばし思案した末に葵が口にしたのは、自分でもあまり現実的ではないと思う可能性だった。
しかし、人間の記憶というのは曖昧なもの。本人が『そうであって欲しい』と願い続けているうちに、いつしか記憶が都合の良い形にねじ曲げられてしまう、なんていうのも良くある事だ。
ゆかりもどうやら、自分の記憶違いである可能性を捨てきれていないらしい。そう指摘した葵に、こくりと曖昧な首肯を返してくる。
「ええと……」
そんな彼女の落ち込んだ表情を見つめながら、葵はここ数時間の記憶を呼び起こし、ゆっくりと口を開いた。
「……電車に乗った時には、ちゃんと着けてたと思う」
はっきりと覚えているのは、寝台特急に乗車する時の事。
軽やかな足取りで列車に乗り込むゆかりの髪をまとめていた、蝶のヘアクリップ。彼女の後ろを歩いていた事もあり、葵はその姿を鮮明に記憶している。
それだってひょっとしたら、葵の都合の良い思い込みかもしれないけれど――それでも、これだけはっきりとした記憶ならば、信じて探してみる価値はあるだろう。
「だからここに来るまでの廊下と、部屋の中を探してみようよ」
未だ眉根を寄せたままのゆかりに、少しでも元気を取り戻して欲しい。そう願いながら、葵はつとめて明るい声を出した。
いつ落としたかは分からないけれど、おそらくそう時間は経っていない。さほど高価なものでもないから、誰かが持ち去ってしまうという事も考えにくい。
ゆえに、今も落とした場所にそのまま転がっているというのが、可能性としては一番高いだろう。
「乗務員さんにも聞いてみよう。もしかしたら誰か親切な人が、落とし物として届けてくれてるかもしれないから」
「うん……」
葵の言葉に、ゆかりは一縷の望みを抱いたらしい。消え入りそうな声ではあったけれど、うなずきながら返事をしてくれる。
「それじゃあ……まずは部屋に戻ってみよう」
わずかではあるが明るさを取り戻した彼女に、葵は掌を差し出した。ややあってから小さな手が、そこにそっと載せられる。
葵のそれよりずっと華奢なゆかりの掌。シャワーを浴びたばかりのその手はしっとりと潤っていて、そしていつもより少しだけ温かい。
それでも、その柔らかさはいつも通りで――それが葵の心に、不思議な安寧をもたらしてくれた。
***
そうして手を繋ぎ、足下をつぶさに確認しながら、部屋までの短い道のりをゆっくりと歩いてみたけれど――そこに薄紫色の蝶が発見される事はなかった。
途中ですれ違った乗務員に、落とし物が届いてないかも尋ねてみたが、結果は空振り。少々の落胆を覚えながら客室に戻り、今度はその中を確かめてみる事にした。
ドアと同じ幅しかない通路やベッドの上、羽毛布団をめくってその下も確認する。ひょっとしたら無意識に外して片付けたのかもしれないと、荷物の中まで探してみたが――結局、ヘアクリップはどこにも見つからなかった。
捜索の手を止めて、ゆかりが消沈しきったため息をつく。唇を小さく噛みしめたその表情は、どこか悔しげな気配すら漂わせていた。
ヘアクリップを初めて着けて見せてくれた時の、彼女の嬉しそうな笑顔。それを思い出して、葵は寂しさにも似た感情に襲われる。
「明日乗務員さんに、もう一度聞きに行ってみるよ。もしかしたら、今度は届けられてるかもしれないし」
悲しげに目を伏せるその顔を見下ろしながら、そんな事を話しかけた。
「……大丈夫、きっと見つかるよ」
続けた言葉は、確証なんてない気休めだ。
それはゆかりも分かっているだろうけれど――それでも、口の両端にうっすらと笑みを浮かべて、小さくうなずいてくれる。
気丈に微笑んでいるけれど、その瞳に宿る光は憂いを帯びたまま。カラ元気と分かるその様子に、葵の胸がちくりと痛んだ。
それきり、葵はしばし沈黙する。
いつだって彼女には穏やかに笑っていてほしいと思うのに、こういう時にどう励ましたらいいのか、言葉をうまく見つけられない。
そんな自分を情けなく思いながら、無意識に顔をうつむけた葵だったけれど――その時ぼぉん、と窓の外から聞こえてきた音に、はっと視線を持ち上げた。
再び、どおん、と響く大きな音。
それは、何かが爆発する時に立てる、低く重たい破裂音。窓の向こうに視線を向けて、すぐに葵はその正体を目の当たりにした。
「花火だ……」
寝台特急は今、海岸沿いの線路を走っている。
窓の向こうに広がるのは、どこまでも凪いだ夜の海。細い三日月が、水面に映り頼りなげに揺らめいていた。
そして漆黒の夜空に、ぱっと光の花が咲く。
無数の薄水色の花々が夜空に咲き乱れ、一拍遅れてぽんぽんぽん、と軽い破裂音が鼓膜を震わせた。
海上の花火大会――それを見たゆかりが瞳を輝かせ、窓辺へと歩み寄る。
「……わぁ………」
その唇から、かすれた感嘆の声が上がった。
その時また一つ、花火が天高く打ち上げられる。
今度は大きなしだれ柳――しなやかな曲線を描く黄金色の枝が、夜空から海の上へ、ゆっくりと流れ落ちていく。ひときわ大きな破裂音が車内に伝わってきて、身体の奥をじん、と振動させた。
花火がよく見えるようにと、葵は枕元のコントロールパネルを操作して、足下灯以外の照明をオフにする。途端に室内が、炎の色で鮮やかに染め上げられた。
どうやら花火大会は、まもなくクライマックスというところらしい。大小の炎の花が次々と打ち上げられ、見渡す限りの夜空を埋め尽くす。その光を反射した海面もまた、極彩色の揺らめきに包まれていた。
声も出ないという様子で花火に見入るゆかりの隣に、葵はそっと腰を下ろす。彼女に倣い、車窓を眺めながら、ちらりとその横顔を窺った。
窓の外にじっと向けられる琥珀色の瞳。それが花火の色を映して五色にきらめく様が、葵の脳裏に印象深く刻まれる。
ゆかりの口元に浮かぶのは、柔らかな微笑。先ほどまでの沈んだ表情は、すっかりなりを潜めている――それを確かめて、葵はほっと口元を緩めた。
どうやら思いがけず遭遇した花火の美しさが、ゆかりの心から憂鬱を押し流してくれたらしい。
楽しげで幸せそうなその笑顔を見ているうちに、葵の胸にも温かな気持ちが広がっていく。
そのまま、列車がトンネルに入って夜空が見えなくなってしまうまで、二人で色とりどりに咲く光の花を見上げていた。
そして短いトンネルを抜ける頃には、ゆかりはすっかり元気を取り戻していて――葵もまた、先ほど遭遇した恐ろしい出来事など、記憶の片隅へと追いやっていたのだった。