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04.窓の向こうの顔

 ――目の前の光景が、とっさに受け入れられない。

 皮膚が粟立ち、全身が凍りついた。



 窓の外から中をのぞき込む何者か。それはおそらく、まだ若い女性だった。

 濡れて滅茶苦茶に乱れた髪の隙間から覗く青白い顔。頬はげっそりとけ、ガラスに押し当てた右手も、何か大きなものを握り締めた左手も、ひどく骨張っている。

 ぎょろりと剥かれて爛々(らんらん)と輝いているのに、まるで生気の感じられない大きな二つの目玉。それが車内のあちこちを、じろじろと見回していた。


「え…………?」

 かすれた声を漏らす葵の呼吸が早く浅くなり、酸素を欠いた頭がくらくらとめまいを起こし始める。麻痺したように動かない身体とは裏腹に、心臓は痛いほどに脈打っていて――そしてその音は、鼓膜のすぐそばで打ち鳴らされているのかと思うほどに耳障りだった。


 本能的な恐怖を感じて逃げなければと思うのに、足がその場に縫い留められたかのように一歩も動かせない。

 目一杯に瞠目どうもくした瞳を背ける事もできず、葵はただ立ち尽くしていたが――



 その時、まるで漏らした声に気づいたかのように、せわしなく動かされていた女性の目が葵を捉えた。

 直後、目尻が裂けんばかりに見開かれていた瞳がすうっと細められ、ひび割れた唇の両端がゆっくりと吊り上げられて。

 にたり、と表現するにふさわしい、気味の悪い笑顔。それが女性の顔に、じんわりと浮かび上がる。


 そして、血の気のない乾いた唇が小さく震え、何か言葉を口にした。

 窓を隔てたこの状態で、発せられた声が聞こえるはずもない。

 それなのに、葵は気づいてしまった。唇のわずかな動きを見ただけで、彼女が何を言ったのか、完璧に理解してしまった。


『ミ ツ ケ タ』


 彼女は、そう言っていた。

 血走った瞳の中心に葵の姿を映して、その顔に歓喜に満ちた笑みを浮かべながら――確かに、そう口にしていた。




「……葵君」

 その時、背後から名前を呼ぶ声がした。

「……っ!」

 かすれきった悲鳴を上げて、葵は勢い良く振り返る。

 今度は何が起こったのかと、肩をこわばらせて身構えたけれど――しかしすぐに、そこにいるのが見知った人物である事に気づいた。


「ゆ……ゆかり?」

 こぼれた声は、みっともなく震えている。

 そして、呼びかけられた彼女――ゆかりもまた、驚きと戸惑いに揺れる瞳を大きくみはっていた。


 小さな防水ポーチと着替えやタオルを抱え、ゆったりとしたTシャツとロングパンツといういでたちで、ゆかりがそこに立っていた。

 肩にかけたフェイスタオルの上を、わずかに湿り気を残した黒髪がしっとりと流れ落ちている。いつもは白いその頬も、シャワーで温まったおかげか、ほんのりと桜色に染まっていた。


「ゆかり……」

 いつもと変わらぬ彼女の姿。それを目の当たりにした途端、胸の奥から猛烈な安堵がこみ上げる。無意識に長く大きな吐息が漏れるのを、葵は止める事ができなかった。

 両膝が情けないくらいにがくがくと震えてしまい、思わずその場に崩れそうになる。慌てて傍らの壁に手をついて、身体のバランスを取った。


 そんな葵の姿を琥珀色の瞳に映して、ゆかりが双眸をぱちぱちとまたたかせる。

「……どう、したの?」

 きょとんとした表情とともに発せられたのはそんな問い。困惑に満ちたその声が、葵の脳裏につい数分前の記憶を蘇らせた。


 窓にべったりと貼り付きこちらを見つめていた、不気味な女性。その血走って生気のない目を思い出し、葵は喉の奥から低く潰れた呻き声を漏らす。

 あの女性はまだ、この窓の向こうにいるのだろうか。ふと頭の中に、そんな疑問が浮かんだ。


 窓にへばりついたまま、ぎょろりと見開いた瞳で、彼女は未だこちらを観察しているのだろうか。口元ににたりと、生理的な嫌悪を誘う笑みを浮かべたままで――その姿を想像した葵の背筋を、冷たい汗がつうっと伝い落ちていく。


 あんな気味の悪い姿、もう二度と見たくはない。けれど葵にとっては、確かめずに目をそらし続ける方が、よほど恐ろしい事だった。

 ごくりと唾を飲み込むと、おそるおそる背後の窓を振り返る。自分でももどかしくなるほどに、緩慢な動きでそろそろと振り返り――


「え…………?」

 直後間の抜けた声を漏らしながら、その場に呆然と立ち尽くした。


 窓の向こうには、もう誰の姿もない。

 そこにいたはずの女性の姿は、まるで幻のようにかき消えてしまっていた。



 電車の外に広がるのは、一面の夜の闇。街灯や人家の小さな光が時折現れては、音もなく車窓を流れ去っていく。

 そしてその光景を目の当たりにして、葵は思い出した――この列車がずっと、時速百キロ以上のスピードで走り続けていた事を。


 そう理解した途端、葵の全身からざぁっと血の気が引いた。体温が急低下する感覚に襲われて、無意識にぶるりと身体を震わせる。

 まるで古いテレビの砂嵐を大音量で流されているかのように、頭の中がざらついていた。そのせいで、どんなに思考を巡らせても、考えがうまくまとまらない。


「ゆかり……」

 それでも、頭のどこかにかろうじて残された冷静な思考が、『そんな事はありえない』と懸命に訴えている。それをどうしても無視できなくて――葵は不思議そうにこちらを見つめるゆかりに、かすかに震えを帯びた声で問いかけた。

「この電車……今、停まってた?」

 けれど、その質問に返ってきたのは否定の返事。ゆかりは困ったような顔をして、静かにかぶりを振ってみせる。


「……そっか」

 その途端、鉛のように重く冷たい失望と恐怖が、葵の胸にじわりと広がった。

 激しかった動悸が、より一層激しさを増す。無意識のうちに、葵は自らの胸を――その奥で暴れる心臓を、片手で強く押さえていた。



 もしもこの列車が、停まっていたのならば。

 線路に侵入したどこかの誰かが、何かを踏み台にしてこの窓をのぞき込んだのだと――それはそれで違法行為だし問題だが、一応科学的な説明はつけられる。

 だがこの寝台特急は、ずっと走り続けていた。客の乗降のため、大きな駅に停車する短い時間を除いて――そして少なくともこの数分間、ゆかりをここで待っている間は、一度も停まっていなかったはず。それは葵の勘違いではなく、ゆかりも覚えている事だ。


「夢……?」

 そうなると、残る可能性はそれしかない。

 立ったまま、目を開いたまま眠ってしまうなんてまず起こりえない事。それは葵だって分かっているけれど――『走る電車の窓に女性がへばりついていた』なんて現象を認めるよりは、いくらか現実的な考え方だと思えた。


 『幽霊』。

 油断すると脳裏に浮かびそうになるその二文字については、つとめて考えないようにする。

 そんなものは、フィクションの中だけの存在。実際に現れるなんて、絶対にありえない。

 『寝台特急に乗車する死者の魂』なんて噂も、元を正せば乗客が見た悪夢か、何かを見間違えたという話に尾ひれがついただけ。この列車に幽霊が乗っているなんて、あるはずがないのだ――。



「……葵君?」

「え……?」

 その時再び小さな声で呼びかけられて、葵の意識が現実へと引き戻される。

 どうやらいつの間にか、顔を深くうつむけて考え込んでいたらしい。慌ててぱっと顔を上げると、いぶかしげにこちらを見つめるゆかりと視線がぶつかった。


 彼女がそんな顔をするのも、無理のない事だ。さっきから葵が、おかしな質問や独り言ばかり口にしているから――。

 これ以上ゆかりを不安にさせるわけにはいかないと、葵は急いで唇を開く。けれど何を言えばいいのか一瞬分からなくなって、そのまま動きを止めてしまった。


 なんの証拠もなく『窓の向こうに人がいた』などと言っても、ゆかりは信じないだろう。それどころか、何を意味の分からない事を言っているのかと、ますます不安を煽る事にもなりかねない。

 だから葵は、ただ静かにかぶりを振る――心配させるくらいなら、最初から何も言わない方がいい。それが葵の出した結論だった。


「……なんでも、ない」

 震えそうになるのを必死で押し殺した声は、ひどくかすれたものになってしまった。

 激しく暴れる心臓は、未だ落ち着きを取り戻せずにいる。額の汗を拭おうと持ち上げた手は、良く見れば小刻みに震えていた。


 闇で塗りつぶされた窓をちらりと窺えば、そこに映る自分の顔は真っ青で――それでもゆかりを安心させるため、葵は唇の両端に全神経を集中させ、懸命に笑みを形作る。

「一日歩いたからかな……少し、疲れてるみたいだ」

 デスクワークの多い仕事をしているから、日常的に運動不足なのは否めない。今日は朝から散々歩き回ったせいで、足が棒のようになっているのも事実だった。


「そろそろ部屋に戻ろう。シャワーも終わったし」

「……うん」

 どうやら『疲れた』という葵の言葉を、ゆかりは信じてくれたらしい。ややあって少し表情を緩めると、小さくうなずき返してくる。


 その反応を見て、内心の動揺をなんとかごまかせたと、密かに息をついた葵だったが――その時ふと、彼女の様子がおかしい事に気がついた。

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