03.夕暮れ
「葵君……」
ホームへと上昇していくエスカレーター。
二段上に乗っていたゆかりが、到着直前というところでぱっとこちらを振り返る。大きな蝶のヘアクリップで飾られた黒髪が、その動きに合わせてふんわりとなびいた。
「見て」
そう言って、彼女は満面の笑顔でホームの方角を指さしてみせる。
伸ばされた細い人差し指の先を目で追って――その意図を理解した葵もまた、ふっと相好を崩した。
週末の東京駅のホームは、人でごった返していた。
葵達のようにカップルでの旅行者もいれば、小さな子供を連れた家族連れや、あるいはバックパックを背負った一人旅らしい客の姿も見える。彼らの浮かべる表情は様々だが、皆一様に、どこか浮き足だった雰囲気を漂わせていた。
そんな人々の隙間から見えるのは、ホームに停車する十四両編成の列車――真夜中の空を思わせる、紺碧のボディをした寝台特急だ。どうやら車内の清掃が完了したばかりらしく、ボストンバッグやスーツケースを持つ人々が、列を作って乗り込み始めていた。
日没まであと少しという時間、暑さは昼間に比べれば多少はましになっている。けれど湿度は高く、むわりとした空気は肌にまとわりつくようだった。
「ええと」
葵はポケットから取り出した切符の表面を視線でなぞり、自分達が乗るべき車両を確かめる。
「六号車の一階の部屋……だって」
傍らに立って葵の手元をのぞき込んでいたゆかりが顔を上げ、きょろきょろと周囲を見回した。ほどなくして屋根近くに『6』と書かれた車両を発見し、そこを指でさし示す。
「……行こう」
「うん」
葵の言葉にうなずく彼女の表情は明るい。
どうやら昨日見た夢の事は覚えていないらしく、精神的にも落ち着いているようだ――その事に、葵は密かに安堵していた。
列車に乗るのは夕刻からだったが、せっかく久しぶりに都心まで行くのだからと、家を出たのは午前中の事。
ゆかりが以前から行きたいと言っていた大型商業施設で買い物を楽しんだのち、おしゃれなカフェで早めの夕食を取って――そしていよいよ、待ちに待った寝台特急に乗車する時間。
一日歩き回って疲れているはずなのに、うきうきとした様子のゆかりからは、そんな気配は微塵も感じられない。寝台特急が楽しみで仕方ないというように、その足取りも軽快だった。
先ほどコンビニで買った、お菓子や飲み物の入ったビニール袋。それを大切そうに持ちながら列車に乗り込み、一階に続く階段を下っていく。薄紅色のミモレ丈ワンピースの裾が、その動きに合わせてひらりと翻った。
通路は狭く、人が二人並んで歩けるほどの幅はない。葵はゆかりに二段ほど遅れて、階段を降り始めたが――その時ふと、首の後ろの毛が逆立つような感覚を覚えて、ぴたりと足を止めた。
「ん……?」
閉ざした唇の端から、思わず怪訝な声が漏れる。
今、誰かに見られていると感じたのは、自分の気のせいだっただろうか。それも、じっとりとしていてやけに熱のこもった、舐めるような視線で――。
奇妙に思いながら葵は、背後を振り返ってみる。
しかしそんな視線を向けてくるような人間は、どこにも見当たらない。葵に続いて階段を降りようとしていた若い男性と目があって、妙な顔をされただけだった。
錯覚か――葵は正面に向き直り、小さく息をつく。
そもそも自分は、他人の視線に敏感に気づけるような勘の鋭いタイプではない。それがどうして、見られているなどと感じたのかと、いぶかしく思ったけれど――とはいえ、いつまでもここで立ち止まっているわけにもいかない。すでに階段を降りきったゆかりの背中を、葵は急いで追いかけた。
そうしてたどり着いたのは、幅一メートルあるかないかというほどの、左右をオークルの壁に挟まれた通路。床にはダークネイビーのカーペットが敷き詰められていて、乗客の足音を全て吸収していた。
通路には他にも何人か、歩き回る人の姿がある。けれど靴音が響かないせいか、車内は奇妙な静けさに包まれていた。
左右の壁に等間隔に並ぶのは、客室へと続く細いドア。その横に掲げられた小さなプレートには、それぞれの部屋番号が刻まれていた。
葵はその番号と、手の中の切符を見比べる――やがて階段にほど近い場所に、自分達に割り当てられた部屋を見つけ出した。
「右手のその部屋だよ」と指で示しながら伝えると、先を歩いていたゆかりがその扉を開き、中に足を踏み入れる。それから周囲を見回して、ぱぁっと顔を輝かせた。
ドアの向こうには、廊下と同じくオークルの壁に囲まれた、ナチュラルな雰囲気のツインルーム。そこは一般的なビジネスホテルと比較して、かなり小規模な部屋だった。
扉のすぐ目の前に、ドアの幅と同じだけの間隔を開けて、やや小さめのベッドが二つ並べられている。ビジネスホテルならば各部屋に設置されているシャワーやトイレ、洗面台も、ここでは共同だ。
しかし狭い部屋にも関わらず、圧迫感や閉塞感はまるでない――入り口のドアから見て、右手のベッドの向こう側にしつらえられている大きな窓。そこから、車外の風景を一望する事ができるからだ。
「わぁ……」
ゆかりが窓側のベッドに靴を脱いで上がり、車窓に向かい合う形でぺたりと座り込む。傍らにビニール袋をそっと置き、窓ガラスに片手をついて、その向こうを興味津々といった様子でのぞき込んだ。
発車前の窓から見えるのは、さっきまでいたホーム。これから寝台特急に乗り込もうとする人や、次に来る電車を待つため少し早めにやってきた人が、せわしなくホームの上を行き交っている。
それは、どこにでもある日常の風景――しかし寝台特急の車窓を通して見ると、その全てがまるでドラマのワンシーンのように、少しだけ作り物めいて見えた。
ベッドの間に二つの旅行鞄を並べて置くと、葵は通路側のベッドに腰を下ろす。
壁のスピーカーから抑揚のない発車のアナウンスが流れたのは、それから十分ほど過ぎた後の事。ほどなくして、がたんと一つ振動したのち寝台特急が走り出した。
列車はホームを滑り出ると次第にスピードを上げ、高いビルの隙間を縫うようにして進んでいく。
「……夕暮れだ」
気づけば空は、徐々に茜色に染まり始めていた。
沈んでいく夕日を背景にしたビル群が漆黒のシルエットに変わり、どこか寂寥を呼び起こす暗い赤色の光が、車内を鮮やかに染め上げていく。
その風景を見るともなしに眺めながら、葵は眩しさに薄く目を細めた。夕日をゆっくり眺めるなんて久しぶりだ――そんな考えが、ふと頭の中をよぎった。
思えばここ数年、夕日なんてまともに見ていなかったような気がする。
平日は仕事で、終わるのは日没なんてとっくに過ぎてから。休日だって、夕暮れ時は大抵家でくつろいでいる時間だ。わざわざ外に出て夕日を見ようだなんて、考えた事もなかった。
そう思えば、こうして何もせずにただ夕日を眺めて過ごす時間というのは、とても貴重で贅沢なものなのかもしれない。そんな事を考えて、不思議な感慨を覚えた葵だったが――ふいに視界に飛び込んできた茶色いボトルが、意識を現実に引き戻した。
見ればゆかりがこちらを向いて、麦茶のペットボトルを差し出している。それは、先ほど立ち寄ったコンビニで買ったものの一つだった。
「……ありがとう」
暑い中歩き回って汗をかいたせいで、すっかり喉が渇いている。葵は受け取ったそれを早速口に運んだ。
冷たく香ばしい液体が喉を滑り、身体に染み渡る感覚がひどく気持ちいい。あっという間にペットボトルの中身は、三分の一ほどになってしまった。
夏場で喉が乾きやすい時期だからと、飲み物は多めに買って持ってきた。しかしこのペースで飲んでしまったら、夜には車内の自動販売機を利用する事になるかもしれない――葵はまた麦茶を口にしながら、どうでもいい事を考えて苦笑する。
そんな葵の横では、ゆかりが再びコンビニのビニール袋を探っていた。ややあってそこから、赤茶色の蓋が付いた小さなカップが取り出される。
普段なら滅多に買わない、少し高級なメーカーのストロベリーアイス。寝台特急には備え付けの冷蔵庫などないから、乗車してすぐに食べようと購入したものだ。
ゆかりはカップの蓋を開けながら、いそいそと窓の方に向き直る。薄いピンク色のアイスを、小さなスプーンですくって口に運び――たちまちその顔に、幸せそうな微笑が浮かんだ。
上機嫌に旅を満喫する彼女の姿に、葵の口元にも自然と笑みが浮かぶ。どこか充足感に似た気持ちを覚えながら、視線を車窓へと移し――その時目に飛び込んできた光景に、思わず声を上げていた。
「ゆかり、あれ見て」
立ち上がって窓際のベッドに移動しながら、外を指さしてみせる。
突如かけられた声に目を丸くしながら、ゆかりが葵の指の先を視線で追いかけた。しかし言いたい事が良く分からなかったらしく、ことりと首をかしげてみせる。
「あのビル……僕達が昼間買い物した場所だ」
それは、大小様々な四角形をいくつも積み重ねたような形をした、約四十階立ての巨大な商業ビル。
つい数時間前まで滞在し、買い物や食事を楽しんだ場所が、落陽に朱く照らし出されていた。壁一面に張り巡らされたガラスがその光を反射して、まるで宝石のようにきらきらと輝いている。
「不思議な感じだね。さっきはあんなに大きく見えたのに、今はなんだかミニチュアみたいで……全然、現実味がない気がする」
思わずそんなつぶやきが、唇からこぼれ落ちた。
昔から葵は、電車や新幹線に乗るたびにこの感覚を経験していた。
車窓を通して見ると、全てのものが現実感を喪失してしまう感覚――電車の外に広がる景色は全て別世界のもので、自分はガラス越しにその場所を覗き込んでいるだけ。そんな風に感じて、世界から阻害されているような、寂しさや物悲しさに似た気持ちに陥ってしまうのだ。
そしてそれは、今も同じ――あのビルで過ごした記憶がなんだかずっと昔のもののように思えて、葵は少しだけ胸が切なくなる気分に襲われていた。
「……うん」
そんな葵の、上手く説明できない思考を理解してくれたのかは分からない。しかししばしの沈黙ののち、ゆかりはこくりとうなずき返してくれた。
一旦止めていたプラスチックのスプーンを動かして、アイスクリームをすくい上げる。そして今度は、それを葵の口元へと差し出してきた。
『一口食べる?』というその仕草に、葵は小さく首肯したのち唇を開ける。
微笑むゆかりが食べさせてくれたアイス、その甘酸っぱい苺の風味が、口中にひんやりと広がっていき――
「美味しい」
「……うん」
正直な感想を告げると、ゆかりはどこか満足げに、その顔に浮かぶ笑みを深くしたのだった。
***
『シャワー室に行こう』
そんな事をゆかりが提案したのは、アイスクリームを食べ終えた後。ちょうど日が沈み、夜の帳が降りきった頃合いだった。
なんでも彼女は、事前にネットやガイドブックで『寝台特急を利用する上での注意事項』を色々と調べてきたらしい。
そしてその中に、『シャワーは時間帯によっては混雑するから気をつけるべし』というものがあったのだという。
乗客は皆、似たような時間にシャワーを浴びたいと思うもの。だから時間帯によっては、シャワー室に順番待ちの行列ができる事もあるらしい。
そしてそれを避けるには、みんなが持ち込んだ夕食を食べている時間や、寝静まった深夜を狙って利用した方がいい――というのが、ゆかりの調査した情報だった。
スマートフォンで確認すれば、時刻はちょうど夕食時。彼女の話に基づいて考えれば、今はシャワー室が比較的空いているタイミングなのだろう。
「それなら、行ってみようか」
着替えやタオルなど必要なものを用意して、二人で一緒にシャワー室へと向かう。果たして、シャワーブースは半分ほどが空の状態だった。
ちょうど二つ並んで空いている場所があったので、そこを使わせてもらう事にする。ゆかりに「ゆっくり入ってきて」と言い置いて、葵はシャワーブースに身体を滑り込ませた。
備え付けのシャンプーやボディソープを使って全身を洗い、シャワーで流す。少しぬるめにしたお湯が、肌に気持ち良かった。
もともと葵は、あまり風呂に時間をかけない性分だ。十分少々でシャワーを終えると、寝間着代わりのTシャツとスウェットパンツに着替え、廊下へと戻った。
シャワーブースの空きは先ほどよりは少なくなっていたけれど、まだ行列ができるほどではない。狭い通路を歩く乗客の姿もまばらだった。
「ゆかりは……まだかな」
軽く周囲を見回したが、ゆかりの姿はまだ見えない。
そもそも男性よりも女性の方が風呂には時間がかかるものだから、それも当然だ――頭の片隅でそんな事を考えつつ、葵は彼女の戻りを待つ事にした。
人通りが少ないとはいえ、なるべく他の客の通行の邪魔にならない窓際を選んで立ち止まる。それから暇つぶしのために、ポケットからスマートフォンを取り出した。
メッセージアプリの新着はない。メールも確かめてみたが、届いているのはメールマガジンばかりで、重要そうなものは見当たらなかった。
それならば、明日観光する場所の事を少し調べておこう。そう考えて、葵はブラウザを立ち上げる。
検索サイトの読み込みを待つ間、ふらりと泳がせた視線を窓の向こうへと投げかけて――
――そこに、ガラスに貼り付いて車内をのぞき込む、何者かの姿があった。