02.悪夢
昔から葵は、神様や幽霊といった存在をあまり信じていない。
ホラー小説を読む事もあるし、話題のホラー映画を映画館まで観に行く事もある。けれど葵にとって、それらはどこまでいっても娯楽の一種。その中で描かれる全ては作り物で、現実にはありえない――そんな考えが、いつだって頭から離れないのだ。
幽霊なんて、この世には存在しない。そんなものは、怯える人々が見たと錯覚しただけの、思い込みの産物だ。
寝台特急の怪談話も始まりはきっと、誰かが乗車中に見た悪夢か何かだろう。その体験談が人の噂やSNSなどを介して広まっていくうちに、いつしか実際に幽霊と遭遇したという形に、姿を変えていったのだ。
そう考える方が、幽霊の存在を肯定するよりよほど自然で合理的だと、頭では理解しているのに――それなのに葵は、この怪談話をいつまでも忘れる事ができずにいる。
今度自分が利用する列車という、比較的身近なところにまつわる話だからだろうか。『寝台特急に乗る幽霊』『名前のない駅』『死者の世界に続く改札』――そんな単語がいつまでも頭の片隅にこびりついたまま、離れてくれないのだ。
ことオカルトの類に関しては冷ややかな態度を取りがちな葵にとって、こんなたわいもない話をいつまでも意識してしまうというのは、非常に珍しい事だった。
――その時とんとん、と肩を叩かれて、葵ははっと我に返った。
「……え?」
慌ててその方向に視線を向ければ、ゆかりが形の良い眉をかすかにひそめ、小さく首をかしげながら、こちらをじっと見つめている。
不思議そうなその視線を受け止めて、葵は気づいた――どうやら自分はテレビを見つめたまま、ぼんやりと考え込んでいたらしい。
放送中の短編ドラマは、いつしかクライマックスを迎えている。
『名前のない駅』から生還した女性が「あの駅での体験が現実のものだったのかどうかは、未だに分かりません……」なんてモノローグをバックに、明るい日差しの中を歩いていた。
その映像を横目に、葵は『どうしたの?』と問うようなゆかりの視線を受け止める。どう答えるべきか、数秒思案したけれど――
「ごめん、ちょっとぼーっとしてただけ……なんでもない」
結局、自分が何を考えていたのかは一切告げる事なく、曖昧な笑顔とともにごまかした。
自分が知ってしまった、寝台特急に乗る幽霊の噂話。それを葵は、ゆかりに伝えずにいた。
彼女も葵と同様、幽霊の類はさほど信じていない。しかしそれでも、自分が乗る列車にそんな気味の悪い話があると知らされるのは、気分の良いものではないだろう。
胡散臭い怪談話などしたところで、ゆかりの楽しい気分に水を差すだけだ。だから葵はこの件に関して、いつまでも沈黙を貫くつもりだった。
密かにそんな考えを巡らせる葵を、ゆかりはまだ、怪訝そうなまなざしで見上げている。
「寝台特急、楽しみだね」
けれどそう声をかけると、その表情は花がほころぶような笑顔へと変わった。
「うん」
こくこくうなずくゆかりの、楽しげな表情。葵もそれに釣られるように、静かに口元をほころばせたのだった。
***
明日早いからと、いつもより少し早くベッドに入り、眠りに就いてから数時間後。
「……う………」
深夜、傍らから聞こえたかすかな呻き声が、葵の意識を急速に覚醒させた。
「ん……」
小さな唸り声を上げながら、重たいまぶたを緩慢に持ち上げる。
眠る時はベッドサイドランプを弱く灯したままにしているから、寝室が完全な闇に包まれる事はない。薄明かりの中、葵は眠気で霞がかる視線をゆっくりと巡らせた。
「……う……や……いや………」
再び、か細い声が背後から届く。
かすかに涙の気配を帯びた、かすれて震える呻き声。それを聞くのは初めてではないから、動揺する事はなかったけれど――その悲痛な声に、いつまで経っても慣れる事はできない。
胸の奥が、氷の刃を詰め込まれたようにずきずきと疼く。
その冷え切った痛みに頬をこわばらせながら、葵は布団の中で寝返りを打ち、横たわる彼女と向かい合う体勢になった。
「……や…………っ……」
眉間に深く皺を刻み、硬く閉ざされたままのゆかりのまぶた。その目尻からあふれた涙が一筋、耳の方へと流れ落ち、シーツに小さな染みを作る。
「……わ、たし、は…………」
きつく噛みしめた唇の隙間からは、弱々しい泣き声が切れ切れにこぼれ落ちていた。
いつもの悪夢がゆかりを苛んでいる。そう気づいた葵は手を伸ばし、小刻みに震える身体をそっと抱き寄せた。
寝間着越しに伝わってくるのは、柔らかな肌のぬくもりと、彼女が愛用するシャンプー特有の花の香り。甘く上品なその香りに包まれながら、葵は静かに唇を開いた。
「……大丈夫」
ゆかりの耳元で優しく囁きかけながら、上質な絹糸のような黒髪を、何度も指で梳いていく。こんな状況だというのに、つややかな感触が指先に心地良かった。
「大丈夫、ゆかりは悪くない……何も、悪くない」
そうして頭を撫でながら、同じ言葉を何度も繰り返す――それは決して気休めではない。葵の本心から出た言葉だ。
ゆかりを苦しめている悪夢。
それは、彼女が幼い頃に遭遇した、とある事件に由来するものだ。
もう十年以上前のその出来事の詳細を、葵は聞かされていない。けれどそれが、彼女にはなんの罪もない――罪悪感に苛まれ続ける必要などない話だという事だけは、正しく理解していた。
「ゆかり……ゆかりは、何も悪くない。だからもう……全部忘れていいんだよ」
だから葵は、未だ悪夢の中をさまようゆかりの身体を抱き締めたまま、静かに囁き続ける。
無理に起こすと、夢と現実の区別がつかなくなった彼女がパニックを起こしてしまうから――だから強引に目覚めさせず、語りかける事で、夢の内容の書き換えを試みる。
「大丈夫、僕が一緒にいるから……」
もういい加減、過去の呪縛から解き放たれてほしい。ゆかりにだって、人並みの幸福と安寧を手に入れる権利があるのだから――そっと語りかけながら葵は、彼女を包み込む腕に力を込めた。
双眸を硬く閉ざしたまま、ぎゅっと強張らせた身体を震わせ続けるゆかり。その姿を前にした葵の胸は相変わらず、ずきずきと冷たい疼痛を訴えている。
彼女の一番そばにいるのに、その心の傷を癒やす術を持たず、ただこうして寄り添う事しかできない。そんな自分の無力さが、歯がゆくてならなかった。
――そうしてどれだけの間、ゆかりを抱き締め続けていただろうか。
怯えたように縮こまっていた彼女の身体から、すうっと力が抜けていく。その事に気づいて、葵はシーツの上に落としていた視線を静かに動かした。
いつしかゆかりの身体の震えは治まり、こぼれ続けていた呻き声も途切れている。
胸元に抱き寄せていた顔をのぞき込んでみれば、そこにもう苦悶の表情はない。眉間の皺は消え、唇からは規則的で穏やかな寝息が聞こえ始めていた。
どうやら彼女は、悪夢から解放されたらしい――胸を襲っていた痛みが霧散するのを感じながら、葵はふう、と大きな息をつく。
「葵、君……」
その時ゆかりの唇がうっすらと開かれて、そこから小さな声が漏れた。
少し不明瞭でかすれた、吐息混じりの呼び声。それを発したゆかりのまぶたは、安らかに閉ざされたまま――その呼びかけが寝言である事は一目瞭然だった。
夢の中でも彼女は、自分がそばにいると認識してくれている。その事実が葵をひどく安堵させ、心の内を柔らかな歓喜でじんわりと満たしてくれた。
「……おやすみ、ゆかり」
彼女の安らかで規則的な寝息に睡魔を呼び起こされて、葵はゆっくりと目を閉じる。
眠るゆかりの身体から伝わる、どこか安寧を呼び起こすぬくもりを感じながら――意識が急速に、眠りの中へと誘われていく。
明日目覚めた時、彼女が夢の内容を覚えていませんように。
次第に散漫になっていく思考が途切れる寸前まで、葵はただそんな事を願い続けていた。