11.朝焼け
がたん、と身体を襲った震動に、葵ははっと意識を取り戻した。
ぱちりとまぶたを開いた瞬間飛び込んできたのは、ほのかに橙色を帯びた白い光。目の奥に痛みすら覚える眩しさに、反射的にぎゅっと目をすがめた。
「ここは……」
自分が置かれている状況が、とっさに理解できない。
葵は当惑に満ちたつぶやきを漏らしながら、細めたままの双眸で、周囲の様子をゆっくりと確かめる。
真っ先に視界に映ったのは、小さな天井とナチュラルな色合いの壁。それでようやく、自分が寝台特急の部屋のベッドで、仰向けに横たわっている事を理解した。
天井の照明は消されている。それなのに室内が明るいのは、窓から強い光が差し込んでいるから――どうやらすでに、朝と呼べる時間が訪れているようだった。
寝起きのためか、身体がひどく重だるい。葵は横になったまま首だけを動かして、視線を車窓へと移した。
列車はいつしか山を下り、今は平野部を走っているらしい。窓の向こうに広がるのは、小さな集落の風景。背の高いビルは見当たらず、田園地帯のただなかに、民家が身を寄せ合うようにして立ち並んでいた。
その上空に広がるのは、うっすらと霞がかった朝の空。どうやら間もなく日が昇る頃合いらしく、地平が明るい紅色と橙色に染め上げられていた。
けれど空の高いところだけは、未だ夜の気配をほのかに残している。その薄い青さの中には、かすかに灰色がかったものが含まれていた。
そして隣のベッドの上には、ぺたりと座り込み、窓の向こうにじっと視線を向ける人影がある。
背中を流れ落ちるつややかな黒髪に、華奢な身体と、その身を包むゆったりとした部屋着――こちらに背を向けているから、その顔を確かめる事はできない。けれど葵が、彼女の正体を間違えるはずなかった。
「……ゆかり」
自らもベッドの上に起き上がり、葵はその名前を口にする。
寝起きのためか喉がひどくひりついていて、思うような声は出せなかったけれど――それでも、名を呼ばれた事に気づいた彼女が、ゆっくりと振り返った。
逆光になっているために、その顔は暗く陰っている。
だが、琥珀色の瞳が二度まばたきしたのちゆっくりと細められ、唇の両端が緩やかに持ち上げられるのが、葵にははっきりと見て取れた。
「葵、君」
穏やかに微笑みながら、彼女が――ゆかりが、葵の名を呼んだ。
「……おはよ、う……」
そして紡がれる、挨拶の言葉。
それは少しかすれているけれど、とても柔らかくて優しい――葵の耳に良く馴染んだ、いつもの彼女の声だった。
――帰ってきた。
自分は、帰る事ができた。
思うように声を発する事ができなくても、限られた言葉で自らの気持ちを懸命に伝えてくれる彼女の元へ。
心に未だ癒える事のない深い傷を抱えていても、それでも穏やかに笑ってくれる彼女の元へ。
世界でただ一人、そばにいて欲しいと――そしてずっとそばにいたいと願う彼女の元へ、自分はようやく戻る事ができたのだ。
瞬間、胸の奥からじわりと湧き上がった柔らかな熱が、みるみるうちに葵の心を満たしていった。
「ゆかり……!」
再び発した呼び声は、自分でも情けなくなるほど、がくがくと震えていた。
こみ上げる安堵感で、頭の中が上手くまとまらない。ふいに滲んだ涙が視界をぼやけさせ、目の前のゆかりの顔が不安定に揺らめいた。
気づけば葵は、両手で彼女の肩を掴んで引き寄せて――そのほっそりとした身体を、自らの腕の中にすっぽりと包み込んでいた。
「……わ、ぁ………!」
突然の葵の行動に、ゆかりがかすれた声を上げる。
いきなりの力強い抱擁に戸惑いながら、しばしもぞもぞと身じろぎしていたけれど――
「ごめん……ちょっとだけ、このままで」
葵がそう告げると、その動きはぴたりと止まった。
代わりに彼女は、ふ、と笑い声にも似た小さな吐息を漏らし――同時に、ほっそりとした両腕がゆるゆると持ち上げられて、葵の背中にそうっと添えられた。
それからぽん、ぽん、と一定のリズムで、優しくそこを叩いてくれる。その仕草は、まるで小さな子供に対するもののようで、少しだけ気恥ずかしい。けれど、その優しく穏やかな振動が、今はとても心地良かった。
抱き締めたゆかりの肩に、葵はそっと顔をうずめる。滲んだ涙がこぼれないようにぎゅうっとまぶたを閉ざし、大きく息を吸い込んだ。
衣服越しに伝わってくるのは、柔らかな肌のぬくもりと、彼女が愛用するシャンプー特有の甘く上品な香り。それらが葵の胸を満たす温かさを、また強くしてくれた。
そうやって、しばし彼女の身体を抱き締めていたけれど――ふいに、ゆかりがもぞもぞと身じろいだ事に気づいて、葵は肩に埋めたままだった顔をそっと持ち上げた。
瞬間、目に飛び込んできたのはまばゆい光――室内を満たす、一段と鮮やかさを増した朝日の輝きだった。
「……空が」
視線を再び窓の外に向け、ゆかりがぽつりとそんな言葉を漏らす。
いつしか家々の向こうから、鮮やかな橙色の光が顔を覗かせていた。
どこか誇らしげにも見える朝日の輝きが、空を一面の朱色に染めていく。その光が、天頂近くに残っていた夜の気配を、あっという間に霧散させていった。
部屋の中に満ちる朝焼けの光が、葵を――そしてゆかりの姿を、くっきりと照らし出す。
「きれい……」
彼女の唇からこぼれたため息交じりの言葉が、静まりかえった室内に反響した。
どこまでも透き通った、ゆかりのつぶらな瞳。窓の外の風景を映すそれは、朝日の光を宿して、まるで上質なガーネットのようにきらきらと輝いていた。
けれどふいにその瞳が、隣に座る葵へと向けられる。
怪訝な顔をしながら彼女は、窓辺に置いていたスマートフォンを持ち上げた。ほっそりとした指が、その画面を数度タップする。
ゆかりが操作しているのは、いつも使っている筆談アプリ。周囲に自らの思いを伝える時に、声の代わりとしているものだ。
そして小さな画面に、慣れた仕草で言葉を綴ると――彼女は葵の目の前に、それをそっと差し出して見せた。
そこに浮かんでいたのは、短い問いかけ。
『こわい夢、みたの?』
「……夢……」
葵は思わず、その『言葉』を口の中で反芻する――次の瞬間、ばらばらだったパズルのピースが全て組み合わさったような感覚を覚えて、小さく息を呑み込んだ。
『夢』――その単語が、昨夜遭遇した奇妙な出来事の一部始終を、脳裏に鮮やかに蘇らせる。
夜中に消えたゆかりを探して降り立った、『名前のない駅』。
そこで出会った、ゆかりの姿を模倣した、けれどゆかりではない『死者の魂』。
そして、そのゆかりの姿をしたものを飲み込んだ、不気味な『不定形の闇』。
あの時はその全てを、非現実的だと思いながらも心のどこかで受け入れていたけれど――今思い返せばそのどれもが、普段の自分なら絶対に認めるはずのない、不可思議な存在ばかりだった。
だがそれらの現象には全て『夢』という言葉で説明がつく。
旅行の直前に知ってしまった、この寝台特急にまつわる怪談話。それをずっと心の片隅に留めたままでいたせいで、実際の列車に乗った夜に、あんな悪夢を見てしまったのだろう。
そう結論づけた途端、急に気分が楽になって――葵はほうっと、長く細い息を吐き出した。
「そう……だね」
不思議そうにこちらを見上げる琥珀色の瞳を見返して、葵はうなずいてみせる。
「夢を見た。現実では起こるはずのない事ばかりが起こる……怖い夢だった」
夢の内容は、彼女には伝えない――自分が別の何かに取って変わられる悪夢の話など、聞いて楽しいものではないだろうから。
しかし、そんな葵の歯切れの悪い態度から何かを察したのだろう。ゆかりがまた柔らかな微笑を浮かべて葵の手を取り、両手でそっと握り締めてくれる。
「大、丈夫……」
――それはまるで『自分がそばにいるから平気だ』と伝えようとするかのような仕草。
ただ手を繋いでいるだけなのに、心まで彼女の手で包まれて、温められている。ふとそんな錯覚を覚えて、葵もまた静かに微笑み返した。
***
やがて太陽は高く昇り、空を覆っていた霞もいつしか消えてしまった。
広がるのは雲一つない、透き通るような青空――今日も暑くなりそうだ。そんな事を思いながら、葵は窓に背を向ける。
列車が目的地に到着するまでは、まだ二時間ほどある。だから、もうしばらくゆっくりしていても問題はないのだけれど――起き抜けに朝日を浴びたおかげだろう、頭はすっきりとしていて、身体もやけに軽かった。
それならば先に身支度を済ませて、それからのんびりと外の景色を眺めて過ごそう。そう考えた葵は、まずは着替えようと視線を旅行鞄の方に向けたが――
「……あれ?」
その時、視界の端に何か紫色のものが映り込んだ事に気がついて、思わず身体を強張らせた。
葵がさっきまで使っていたベッド。羽毛布団をはね除けたシーツの上に、何かが置かれている。
それはちょうど、葵が横たわった時に右手を置く事になる位置で――そう悟った瞬間、葵の喉の奥からひぅ、と押し殺した悲鳴があふれた。
――昨夜経験した事は、全て夢だった。つい先ほど、そう結論づけたはずなのに。
それなのに目の前の光景が、夢と現実の境界を再び曖昧にしていく。どこからどこまでが夢だったのか、葵にはもう分からなかった。
「……どうして………」
無意識に、唇の端からかすれた声が漏れる。口元を押さえた手は、かたかたと小刻みに震えていた。
「……葵君?」
そんな葵の異変に気づいたのだろう。同じく身支度をしようとしていたゆかりが顔を上げ、こちらに近づいてくる。
「ど…………たの……?」
おそらく彼女は、『どうしたの』と問おうとしたのだろう。しかしその声は、途中がひどくかすれていて、葵に聞き取る事はできなかった。
彼女の眉はきゅっと寄せられていて、大きく澄んだ瞳は当惑の光をありありと浮かべている。
心を苛む不安が、またゆかりの喉を押し潰してしまったのだ。そして、その原因をもたらしたのは自分――葵は慌てて、ぶんぶんとかぶりを振った。
「……なんでもない」
内心の恐怖と動揺を押し隠してそう答えると、唇の両端を強引に吊り上げ、笑みを形作ってみせる。
しかしそれは、多分にぎこちないものだったのだろう。ゆかりの顔に浮かぶ憂いに満ちた表情が、消える事はなかった。
だから葵は、「それより」と続けながら自分のベッドに手を伸ばす。
そこにぽつんと置かれていたそれを手に取り、彼女の前に差し出した。
「これ……見つかったよ」
「………?」
葵の言葉と、目の前に差し出されたものを見た途端、ゆかりが目を丸くする。
よほど驚いたのだろう、彼女は数秒間、ぽかんと口を開けて固まっていたけれど――やがてその愁眉が開かれて、顔にぱあっと喜色が広がっていった。
華奢な指が、葵の手からそれを持ち上げる。
まるで繊細な宝物を手にするように、ゆかりはそれを、両手でそっと包み込んだ。
愛おしいものを見つめるような光を宿した瞳を静かに細め、笑みを刻んだ唇からほう、と柔らかな息を吐き出して――そんな彼女の嬉しそうな様子が、葵の心に宿った恐怖や不安を、わずかばかり薄れさせてくれる。
けれどその暗い感情は、葵の心の片隅にもやもやとわだかまったまま――完全に消える事なく、いつまでも残り続けたのだった。
彼女が見つめるその先にあるのは――あの悪夢から目覚める間際、葵が懸命に握りしめていたもの。
――薄紫色の、大きな蝶の形をしたヘアクリップ。
それがゆかりの掌の上で、陽光を反射してきらきらと輝いていた。
葵とゆかり、そして『彼女』のお話はこれでおしまいです。
ここまで読んでいただきありがとうございました。