10.彼女の願い
それきり、二人の間に沈黙が落ちた。
まるでコールタールを流し込まれたかのような、重苦しい空気が周囲を満たしていく。木々の葉のこすれ合う音と、鈴の音にも似た虫達の鳴き声が、沈黙をかき乱そうとするかのようにやかましく響き渡っていた。
「あたし、じゃ……」
――先に口を開いたのは、ゆかりの姿をかたどった何者かだった。
彼女は一瞬だけ言葉を詰まらせたかと思うと、長らく伏せていた視線をゆっくりと持ち上げる。かすかに潤んだ琥珀色の双眸が、葵の瞳をじっと見上げてきた。
「……わたしじゃ……駄目なの? あの子の代わりにはなれないの?」
まるで痛みを堪えるように、細めた瞳に縋るような光を宿して、弱々しい問いが発せられる。
「暗いところだって怖くない。あなたの好みだって覚える。こんなふうに、自由に喋る事だってできる。それでも……わたしじゃ、駄目なの?」
その質問に、葵は言葉を返せない。ただ静かにかぶりを振る事で、自らの意思を伝えた。
ゆかりに成り代わろうとした彼女が、何を思ってこんな事をしたのかは分からない。
一つだけ分かるのは、その行動の根底にあるのが、葵に対する強い想いだという事。
葵を求め、そばにいたいと強く願ったから。だからその願いを成就させるために、彼女はこんな行動を起こしたのだ。
だが、そう分かったところで、葵に彼女の想いを受け入れる事はできない。
自分が想っているのは――愛しているのは一人だけ。それ以外の者の手を取る事など、できるはずもないのだから。
「誰も……ゆかりの代わりにはなれないよ」
もう一度かぶりを振って、葵はぽつりと言葉を漏らす。
途端に、拒絶された彼女がくしゃりと顔を歪めた。ゆかりと全く同じ姿をした存在が見せる、絶望に満ちた表情――それが刃となり、葵の心を深くえぐる。
しかし、それでも――心を襲う痛みに耐えながら、葵は目の前の彼女に告げる。
「喋れなくても、闇が怖くても……もしも、僕の好みを知らなかったとしても、そんな事は関係ない。僕がそばにいて欲しいのは、本物のゆかりだけだ」
――葵が求めているのは、この世界でたった一人だけ。
心の傷を乗り越えようと、過去の記憶に懸命に抗い続けていて。
話せない事への悔しさを押し隠し、気丈に微笑んでいて。
そして、限られた言葉の中で、自らの想いを精一杯に伝えようとしてくれる。
自分が必要としているのは、そんな彼女。たくさんの痛みと苦しみを背負いながら、それでも花がほころぶように笑い、葵に幸福の意味を教えてくれるゆかりだけだ。
皮肉な事に、ゆかりを模倣した存在を目の当たりにした事が、そんな想いを――『ゆかりの代わりなど存在しない』という当たり前の事実を、葵に思い出させてくれていた。
目の前に立ちすくむ、ゆかりの姿をした何者かを見据えながら――葵が頭の片隅で考えるのは、本物のゆかりの事。
ゆかりは今、一体どこで何をしているのか。
自らを襲う異変に気づかず、眠っているのならばそれでもいい。けれどもし、葵のように異常な状況に放り込まれて目を覚まし、そこを一人でさまよっているとしたら――そう考えた途端、心がみるみるうちに不安で埋め尽くされていく。
しかしそれはすぐに、脳の表面をさざなみ立たせるような焦燥へと変わっていった。
「ゆかりはどこ? ゆかりを返して」
けれど、焦る気持ちを懸命に押し殺して、葵は目の前の彼女に問いかける。
もしもこの駅のホームを隅々まで探したとしても、きっとゆかりを見つける事はできない――根拠は何もないけれど、なぜか葵にはそんな確信があった。
目の前の彼女はおそらく、ゆかりを取り戻すための鍵を握っている。
葵のそばからゆかりを奪い去り、模倣して成り代わろうとした彼女ならば、きっとゆかりの居場所も、ゆかりをこちらに返す方法も知っているはずだ。
だから葵は、ゆかりを模した琥珀色の瞳をじっと見据え、同じ言葉を繰り返す。
「ゆかりを返して……僕のそばに、ゆかりを」
『返して』――ただそれだけを、何度も繰り返し続けた。
「…………ごめんなさい」
――その瞬間、目の前に立つゆかりを模倣したものの姿、その表面がかすかにざわりと蠢いた。
「あなたに……一緒に、来て欲しかったの……」
桜色の唇が小さく動かされ、言葉が紡がれる――しかし発せられた声は、まるで水底に沈んで聞いているかのように不安定に揺らぎ、そしてひどく不明瞭だった。
「あなたが、あの人にとても良く似ていたから……。たとえ全てを失っても、そばにいて欲しいと思ったあの人に。あなたが…………」
そう言って、彼女はただ儚く笑った。
細められた瞳の奥底で揺れるのは、寂寥と諦観がない交ぜになったような弱々しい光。
その打ちひしがれた表情から葵は、彼女が口にした『あの人』という言葉の重さを理解する。
けれどそれについて、何も尋ねる事はできない――差し出された手を拒んだ自分に、深入りする資格はない。心に湧いたそんな想いが、葵の口を自然と重くしていた。
「…………かえしてあげる」
直後、明瞭さを欠いた声が鼓膜を震わせて、葵ははっと息を呑む。
それは、地獄の底で見つけた一本の蜘蛛の糸のようにか細い――しかし葵にとっては何よりも頼もしく思える、一筋の希望のような言葉だった。
「じゃあ……」
ようやくゆかりをこの手に取り戻す事ができる――心に湧いた期待と歓喜が、葵の声を無意識に上ずらせる。
「それじゃあ、ゆかりは…………っ!」
――けれど発した問いかけは、喉の奥でくぐもった悲鳴に変わった。
目の前に佇む彼女の姿。
そのゆかりに良く似た顔が、髪が、身体が、手足が、なんの前触れもなくぐにゃりとひしゃげた。
まるで失敗した飴細工のように、叩き潰された粘土作品のように、彼女の姿が醜く歪んでいく。そしてそれが、音もなくかき消えたかと思うと――刹那、その奥から真の姿が現れた。
濡れて滅茶苦茶に乱れた長い髪に縁取られた、げっそりと痩けた青白い顔。
ところどころ赤茶色の染みで汚れたぼろぼろの服に包まれた身体は、まさに骨と皮だけというほどに痩せ細っている。
絡まり放題の髪の隙間から覗く、真っ赤に血走った二つの目玉。爛々と輝くそれは、今もなお、こちらに縋りつくようなまなざしを注いでいて――その視線に気づいた瞬間、葵の全身の皮膚が一斉に粟立った。
けれど葵が悲鳴を上げるよりも早く、その姿はすうっと消え失せて――そして再び現れたのは、ゆかりを模した姿。
その顔にはやはり、哀しい笑みが張り付いたままだった。
今にも泣き出しそうな表情で、彼女は右手をゆっくりと持ち上げる。
白魚のような指を蝶のヘアクリップにかけると、それを強く引っ張って頭から外した。途端に長い黒髪がほどけて、背中をさらりと流れ落ちる。
掌に収まった、薄紫色の大きな蝶。
彼女はそれを、どこか羨望のこもったまなざしでしばし見つめていたけれど――やがて小さくため息をこぼして葵の手を取り、ヘアクリップを握らせてくれた。
そして、悲哀に満ちた曖昧な笑みを口元に浮かべたまま、彼女は柔らかな唇をゆっくりと開く。
「かえしてあげる……あなたを」
「…………え?」
そこから紡ぎ出された言葉の意図するところを、葵は咄嗟に理解できなかった。
慌ててその意味を聞き返そうと口を開いたが――その問いが形をなすよりも、彼女が葵の両肩をぐいと押す方が、一瞬だけ早かった。
その力は決して強いものではない。
それなのに葵はあっさりとバランスを崩し、ぐらりと後ろに倒れ込む。
「あ……っ……!」
寝台特急の車体に叩きつけられる苦痛を想像し、反射的に肩をこわばらせたけれど――予想に反し、身体を襲った衝撃はひどく鈍いものだった。
背中に触れるのは、毛足の短いカーペットの感触。
いつの間にか開いていた寝台特急のドア。自分がそこをくぐり抜けて車内に倒れ込んだのだと葵が理解するのには、しばしの時間が必要だった。
そしてそんな葵の姿を確かめたのち、彼女がくるりと踵を返す。
「……さよなら」
直後聞こえたのは、かすかに涙の気配を帯びた声。震える別れの言葉を残して、彼女はとん、と床を蹴った。
長くつややかな髪をなびかせて、薄紅色のワンピースの裾を翻して――ほっそりとしたその姿が、あっという間に遠ざかっていく。
「ま、待って………!」
背中の痛みを堪えて葵は立ち上がり、彼女を追って電車を飛び出そうとする。しかしホームに踏み出そうと力を込めた足がぴくりとも動かない事に気づき、ぎょっと瞠目した。
足裏がカーペットに縫い付けられてしまったかのように、微動だにしない。まるで葵を電車から降ろすまいと、見えざる力が働いているかのようだった。
しかしそれでも、上半身だけを前に倒して――葵は開かれたドアから、ホームに顔を突き出した。
走り去る彼女の目指す場所は、ホームの端にある改札口。いつしかその向こうに、深い深い闇がわだかまっている。
だがそれは、ただの暗闇ではない――気づいた葵の背筋が総毛立ち、身体が凍りついた。知らず、掌にぎゅっと力がこもり、彼女に渡されたヘアクリップを強く握り締めてしまう。
――その闇は、実体を有していた。
不安定に揺らぎ、どくどく、びくびくと脈打つ、巨大な漆黒の塊。絶えず不安定に形を変えて、改札を半ば包み込むようにしながら、不気味に蠢き続けている。
やがてそれは、近づく彼女の存在に気づいたらしい。まるで歓迎するようにぞわりと一度さざめいたのち、自らの身体を大きく広げ始めた。
「待って、ゆかりは……っ!?」
それでも、ゆかりへの想いが、葵を恐怖に打ち勝たせる。
自分はまだ、ゆかりを取り戻してはいない。ゆかりに繋がる唯一の手がかりである彼女を、まだそこに逝かせるわけにはいかない。そんな思いに駆られて走り出そうとしたけれど――やはり両足はその場に貼り付けられたかのように、ぴくりとも動かなかった。
「なんで………っ!?」
悲鳴じみた声を上げながら両足に力を込め、この世ならざる力に抗おうとする葵だったが――その間にゆかりを模した彼女が、とうとう改札を駆け抜ける。
いつしか闇は床から天井近くまで、アメーバやスライムを思わせる動きで大きく広がっていた。しかしその体表が再度ざわめいたかと思うと、今度はそこからたくさんの黒い何かが、音もなく生み出される。
――それは、人間の腕にとても良く似ていた。
ただし人体のあるべき姿は、完全に無視している。一本が数メートル以上あり、その途中には関節がいくつもついていて――そしてその先端には、ごつごつした掌と、異様に長く節くれ立った五本の指が生えていた。その指は蜘蛛の脚を思わせる動きで、獲物を求めてわしゃわしゃと蠢いている。
ゆかりの姿をした彼女の身体に、その黒い腕達が不気味な動きで絡みつく。
頭や肩、腕や足や胴をいくつもの掌が掴んだかと思うと、華奢な身体を自らの元へと一気に引き寄せた。
刹那、さらに大きくその身体を広げた闇が、彼女の姿を包み込む。
まるで軟体動物が獲物を捕食するように、闇はつややかな黒髪を、痩せた身体を、薄紅色のワンピースを、音すら立てずに飲み込んでいく――おぞましい光景に葵は、呻き声にも似た悲鳴を上げ、ゆかりの名前を呼ぼうとした。
「……ゆ………っ……」
けれどその瞬間、脳の中に鉛を詰め込まれるような鈍い圧迫感が襲いかかり――葵の声は、形をなす事なく消えてしまう。
睡魔に良く似たその感覚が、葵からあらゆる気力を奪い去る。重くなった手足から急速に力が抜けていき、気づけば身体がその場に崩れ落ちていた。頭の中がみるみるうちに霞んでいき、思考が曖昧で散漫なものへと変わっていく。
――その中で、葵は唐突に理解した。
『ゆかりを返して』と願い続けていた自分に、彼女が発した『かえしてあげる』という言葉。
あれはきっと『返してあげる』ではなく、『帰してあげる』。ゆかりが葵の元から奪い去られたのではない。最初から葵一人だけが、この世界に誘われ、引きずりこまれたのだ――
「……く………っ」
意味をなさない呻きを上げる葵の身体から、まるで全身麻酔をかけられたかのように、急激に皮膚感覚が奪われていく。
それでもたった一つ、右手に握り締めたヘアクリップの硬い感触だけは、いやにはっきりとしていて――葵は最後の力を振り絞り、それを握る指にもう一度力を込めた。
「……ゆか、り………」
最後にもう一度、何より愛おしいその名を口にして。
――そこで葵の意識は、ぷっつりと途切れた。