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01.旅行前夜

 夕食後、手早く風呂を済ませてリビングに戻ると、ゆかりがローテーブルの前に座って何やら真剣な表情を浮かべていた。

 一体どうしたのだろう、といぶかりながら(あおい)は歩み寄り――彼女の手元を見て、すぐに納得する。

 ゆかりの視線は、テーブルの上に広げた旅行ガイドへじっと注がれていた。


「お風呂、ありがとう」

 そう声をかけると、彼女がぱっと顔を上げる。

 日本人としてはかなり色素の薄い、琥珀色の瞳。それが一瞬だけ、驚いたように見開かれたけれど――すぐにすうっと細められ、柔らかな微笑に変わって葵を迎えてくれた。


 ガイドブックのページをめくっていた白い手が、ローテーブルの上に二つ並んだグラスの片方を持ち上げる。隣に腰を下ろした葵にゆかりが差し出してくれたその中身は、ノンカフェインのブレンド茶飲料だ。

 体質的に冷たい緑茶が苦手な葵のために、彼女はいつも緑茶以外のものを用意してくれる。その心遣いをありがたく思いながら、葵は感謝を告げて、受け取ったグラスを口元へと運んだ。

 氷で良く冷やされた、ハーブの香りのする液体が喉を滑り落ちていく。その感触が、風呂上がりで火照った身体にとても心地良かった。


「旅行の準備、もう終わった?」

「うん」

 もう一度ブレンド茶で喉を潤してから問いかけると、ゆかりが力強い首肯を返してくる。

 その顔には、満面の笑みが浮かんでいた。



 明日から二泊三日の日程で、葵は彼女と二人旅に出発する。

 別に『一緒に暮らし始めて何年目の記念日』とか、『どちらかの誕生日』とか、そういう理由があるわけではない。ひと月ほど前、夕食を食べている時に『そういえば久しく旅行をしていない』という話になり、『この時期なら互いの仕事も閑散期で休みやすいし、行ってみようか』という流れになったのだ。


 そんな理由で決まった旅行だけれども、せっかくだから今までに訪れた事のない場所に行ってみたい。

 それならば行き先はどうしよう、と悩んでいた葵だったが――ある日ゆかりが、旅行代理店の前を通りかかって見つけたというパンフレットを持って、家に帰ってきたのである。


 『寝台特急でのんびり旅をしませんか』。

 そのパンフレットの表紙にでかでかと踊っていたのは、そんな文言。

 夕方東京駅を出発し、夜通し走って翌朝早くに目的地に到着する寝台特急。なんでもゆかりは、少し前にワイドショーで特集されていたのを見て以来、いつかこの列車に乗ってみたいと思っていたのだという。


 葵も寝台特急なんて利用した事はないし、その列車が目指すのも行った事のない観光地。確かに、これなら今までに経験した事のない旅ができそうだ――二つ返事で葵はその提案を承諾し、すぐさま寝台特急の公式サイトで、二人用の客室を予約したのだった。



 そうして決まった旅行を、ゆかりはとても楽しみにしていて――手元のガイドブックも、彼女が準備の一環として先週買ってきたものだ。

 暇さえあれば開いていたから、もう隅々まで目を通してしまったのだろう。そのガイドブックからは、小さな付箋がいくつも顔を覗かせていた。

「行きたいところは見つかった?」

 葵が尋ねると、ゆかりはページをぱらぱらとめくり始める。付箋を頼りに開いた場所を一つ一つ指差しては『ここの景色を見てみたい』『このカフェのケーキが美味しそう』と、期待に満ちたまなざしで教えてくれた。


 ページを()る彼女は、まるで遠足前の小学生のように、琥珀色の瞳をきらきらと輝かせている。

 そんなゆかりの楽しそうな様子は、見ている者にも幸せな気分をもたらしてくれて――いつしかうきうきとした気持ちに包まれるのを感じながら、葵は次々と開かれるガイドブックのページを目で追いかけていった。



 そうしてしばし、冊子を飾る美しい風景や料理の写真を眺めながら、到着したらどこに行こうかとやりとりしていたが――ふいに電車の音が聞こえた事に気づき、葵ははっと顔を上げた。

 興味を持って見ているわけでもないのに、いつもの癖でつけっぱなしにしていたリビングのテレビ。その中ではさっきまで放送されていたバラエティ番組が終わり、すっかり夏の風物詩となったホラー特番が始まっていた。


 それは、視聴者から寄せられた体験談をもとに作りました、という体裁のオムニバスドラマ。内容は非常にありがちなもの――仕事帰りにうたた寝をして電車を乗り過ごした女性が、いつしか見知らぬ駅にたどり着いていた、という話だった。


 テレビ画面の中で、ギギギィ、と派手で耳障りなブレーキ音を立てて停まる通勤電車。その音に気づいたらしく、ゆかりもまた顔を上げる。

 しかし今の彼女には、ドラマよりもどこを観光するかの方が大切らしい。ちらりと画面を一瞥しただけで、すぐに視線をテーブルへと戻してしまう。


 葵もまた、普段ならばゆかりにならってガイドブックに意識を向けていただろう。

 しかしその目は不思議とテレビ画面に引き寄せられ、そらす事ができなくなっていた。


 そこに映し出されているのは、深い闇の中に沈む、古びた無人駅。そしてその駅のホームを、地味なスーツ姿の若い女性がびくびくとさまよっている。

 人気ひとけのまるでないホームには、駅名を示す看板のたぐいは一つも設置されていない。その事に気づいた女性が、「ここはどこ……!?」とかすれた悲鳴を上げていた。


 彼女が浮かべる怯えきった仕草や表情と、発せられた震える声。

 そして暗闇の中、弱々しい街灯の光に照らされてぼうっと浮かびあがる『名前のない駅』。

 ――その映像が葵に、数日前に見つけた噂話の事を思い出させた。



 『死者の魂を乗せて走る寝台特急』。

 それは、オカルト情報をまとめたブログサイトに掲載されていた噂――仕事中の昼休み、スマートフォンで寝台特急について検索していた時に発見した話だ。

 そのブログの題名を見ただけで、おおよその内容と、さほど目を通す価値もない記事だとは察しがついた。けれど、ちょうど退屈していた事もあり――葵はなんとなく、それを最後まで読んでしまったのだ。


 予想通りその内容は、子供向けの怪談集にでも載っていそうな安っぽいものだった。

 いわく、『あの寝台特急には、あの世を目指す死者の魂がひそかに乗車している』。

 曰く、『乗客が寝静まった深夜、寝台特急は死者の魂を下ろすため、山奥にある「名前のない駅」に停車する』。

 曰く、『寂れて人気(ひとけ)のないその駅はあの世とこの世をつなぐ境界にあり、改札口の向こうには死者の世界が広がっている』――


 そして記事の最後は、管理人を名乗る人物のコメントで締められていた。

『もしも列車が「名前のない駅」に停まっている事に気づいても、絶対にホームに降りてはいけない』

『間違えてホームに出てしまった場合は、すぐに車内に戻る事。さもなくば電車が去ってしまい、その駅に取り残される事になるだろう』

『改札は絶対に通ってはいけない。通ったら最後、死者の世界から戻ってこられなくなるから』

 ――今思い返してもそれは、わざわざ言われなくても想像がつくような、安直なアドバイスばかりだった。


 全体的に暗い色調で統一された、陰鬱な雰囲気に包まれたブログサイト。

 確かにそのサイトには、掲載されている話が本物ではないかと思ってしまいそうになる、奇妙な禍々しさが漂っていたけれど。


 それでも、葵の脳裏に真っ先に浮かんだのは『ばかばかしい』という感想だけだった。

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