第三章・ひとかげ(2)
結果的に、大学が丸一日休校になったことも、教授が一人殺されたことも、事実であった。その影響で遅刻が無かったことになり安堵してしまったのは学生の性としたいところだ。
殺されたのは四十二歳の心理学部の教授だ。児童心理を専門としていたらしい。シロとは籍を置く学部が違うため、直接的な面識はない。
それでもその教授に関する噂は何度も耳にしていた。
『講義中に女子学生に向かって平気でセクハラ発言をする』
『自身の研究室で、受け持ちの女子ゼミ生といかがわしい事をしている』
『高校生と思しき若い女性とラブホテルに入っていくのを見た』
どれもこれも、下世話な内容だった。
それでもこれまで問題とならなかったのは、被害学生からの抗議が無かったからだ。その噂に限らず、教授の機嫌を損ねた学生はどれだけ挽回しようとしても”可”までの評価しかもらえなくなるのだという。
本来ならばそんな横暴が許されるはずは無いのだが、教授の父親はこの市の市議会議員を何十年も務めている、地元の名士と呼ばれる人だそうだ。こと教育に関しては熱心で、H大学も少なからずその恩恵を受けている。大学を運営する側としても、噂の域を出ない話など積極的に触れたくはなかったのだろう。
オトナノジジョウというやつだ。
ニュースはSNSを通して瞬く間に拡がり、夕方には全国ネットで国民中が知ることとなった。
<地方有力市議会議員子息殺害事件>
学生間でまことしやかに囁かれていた黒い噂について触れられることはなかった。
死者の尊厳を守るため。遺族の名誉を守るため。シロにはその大義名分の名のもとに、やはりオトナノジジョウが働いているように思えてならなかった。
SNS上で黒い噂が語られようが、インタビューに応えた学生がそれらしいことを言おうが、どのアナウンサーも、どのコメンテーターも一切言及する素振りを見せない。驚く表情でさえテレビ画面には映らなかった。
シロはといえば、ニュースを見た母と、母から連絡を受けて飛んできた姉からの質問攻めに辟易としていた。中学高校の同級生からも面白半分に事情聴取され、スマホは鳴動しっぱなしだ。
――報道されている以上に旨みのある情報を、おれが持ち合わせているはずがないのに。
殺された教授とはそもそも面識が無いのだし、噂程度の事柄をさも秘密めいたように語ることはシロの趣味ではない。むしろ、こちらが教えてほしいくらいなのだ。
彼は、何故、どうやって、誰に、何で、殺されたのか。
報道では刃物で刺されて死亡したとしか分からない。
どんな刃物で?どこを?前からか、後ろからか。それが分からなければ
「怖いわねぇ、アンタ達も気をつけてよ」
なんて言われても、自衛のしようもないのだ。
結局、その日一日シロの得たい情報は一切得られず、内から外から襲い来る疑問符に押し潰されるだけに終わってしまった。
サイレントモードにしていたスマホの通知ランプが明滅している。大量に寄せられた好奇心たちの中に、幸太郎の名前があった。今朝はついぞ連絡出来ず終いだったことを思い出し、慌てて画面をタップする。
何か新しい情報があるだろうか。
『学生課からメール来た? なんなんあれ』
『ちょ、やばい、なんかウチの教授死んだらしい』
『殺されたの渦戸だって! 腹かっさばかれたらしい…こえー』
地元有力者の子息である渦戸卓は、刃物で腹を裂かれ非業の死を遂げた。
一日の終わりに思いがけず新事実が手に入った。
――腹部を裂かれたことによる神経性ショック死。或いは大量出血による失血死か。まあそれはどちらでも構わない。渦戸は腹に傷を受けた。
有難いことに疑問が一つ解消された。しかし、この情報の精度は気になるところだ。
『ごめん、通知すごくてサイレントにしてた。お腹裂かれたって本当?? 幸太郎は誰から聞いたの?』
真夜中だ。明日の朝まで返信は期待しない。
ベッドに腰掛け、上半身だけ仰向けに倒れこむ。
天井に街頭の灯りが白く映り込んでいた。カーテンを閉め忘れたようだ。部屋の電気は間接照明しか点けていないから、別段気にする必要も無いだろう。
――興奮している。
平凡で平和な生活に鬱屈していた。それがどうだ、この二日間の目まぐるしさと言ったら! それこそ本当に、ミステリー小説の様ではないか!
枕元に置いたままだった文庫本をパラパラと捲った。ページには色によって細かく意味分けされた付箋紙が貼られている。何本も引かれたアンダーラインもまた、色ごとに意味を持たせてある。
オフホワイトの紙の上で、パレードが開催されているようだった。
<ミステリー小説における心理描写とフーダニット>
前期が終了するまでに提出しなければならない自由課題レポート。自分は今、研究材料としているミステリー小説の登場人物と同じ立ち位置にいる。
極彩色になった文庫本のページを眺めていると、クラクラと目眩を覚える。それは決して色味に酔ったからでは無いと、シロは自覚していた。
――身近な人物が殺された。そしておれは今、その事実にひどく興奮しているのだ。