第二章・あし(2)
思えば屋敷に到着する前から、想定外のことばかりである。
バス停から延々と山中に続く坂道。どことなく気味の悪い屋敷内。ダンジョンか謎解きゲームのような地下への階段。ノックをしても返事のないドア。屋外での発汗に加え、冷や汗や心拍数の増加で腰の抜ける思いだった。
極めつけは、ようやく会えた屋敷の住人が車いすに乗った美しい少女であったことだ。
精神的にも身体的にも、すっかり打ちのめされてしまった。
――今日はよく眠れるだろうな。
アンジュはテーブルの上に置いた両の手を組み、微笑んだままじっとシロを見つめている。キラキラした眼差しだ。好奇心や期待に満ち満ちている。
「川田さんは、おいくつなんですか?」
「今年で二十歳になります。大学二年です」
「じゃあ、四つ年上ですね」
「笠原さんは今年で十六歳ですか」
年齢に比べ、随分と落ち着きがある。
「そうです。学校には行っていないので、誰かとお話しする機会が欲しくて。それで川田さんをお呼びしたんです」
「高校、進学されなかったんですか」
「はい。何かと面倒ですし、生きるのに最低限必要なことは義務教育で学べました。あとは自主学習で興味のあることを突きつめていけたら良いのかなと」
「そうですか。なんだか勿体ない気もしますね」
「勿体ない、ですか」
初めて顔を合わせたときから変わることなかったアンジュの表情が崩れた。
意表を突かれた、思ってもみなかったとでも言いたげに、きょとんとしている。
「ええ。会ったばかりの僕が言うのもおかしな話なんですけど。勉強がひどく苦手なようには見受けられませんし、コミュニケーションが不得手というわけでもなさそうなので。勿論通学とか校舎の中とか、僕にはわからないご苦労はあるとは思うんですけど」
彼女は利発だ。まだ十五歳の少女というのが驚きに値するほど、言動は大人のそれに近い。
自身のハンディキャップにおいて世間に対する不満や反感、あるいは悲壮感を表に出す様子はない。初対面の人間とも臆することなく会話ができる、ある種の度胸のようなものも備わっている。
学校のクラスメイトに彼女のような人物が居れば、皆が輪となり進んで役立とうとするのではないだろうか。彼女にはその素養がある。学校生活に、大きな支障を”作らない”。
「親御さんや学校の先生も同じように申されたのでは?」
「そうですね、何も問題ない、という様なことは言われました。だけど両親とは一緒に生活していませんし、進路に関しても電話でやり取りしただけなので、よくある気休めと思っていました」
「えっ、一人暮らしなんですか?」
「ええ」
頷いたアンジュの表情は、最初にシロが目にしたものへ戻っている。
「あの、失礼かもしれませんが、大変ではないですか」
「意外とそんなに困ることはないんです。週に何度かお手伝いさんが来て掃除や洗濯なんかをして行ってくれるので」
「お手伝いさん。なるほど」
言われてみれば、広い屋敷の中は清潔だった。
足の不自由な彼女がこの屋敷中の家事を行うのはいくら何でもハードルが高すぎる。健常者であっても骨の折れることだろう。
「親が勝手に頼んでしまったので、どんな人なのか実のところまだ良くわからないんです。ヘルパーさんではないので家事以外のことはお願いできませんし。私はいつもこの部屋に居るので、正直いついらして、いつ帰られるのかスケジュールも知らないんですよ」
女性の一人暮らしだ。本人以外の人間の出入りもあったほうが良いだろうと思われた。しかし、アンジュの穏やかな微笑みは苦笑へ変わる。
笑顔は彼女の処世術なのだろうか。
「ええと、話し相手が欲しいと仰ってましたが」
「はい。お手伝いさんを呼びつけて、本来のお仕事の手を止めさせては申し訳ないですから。けれど、私は誰かとお話がしたい。それで募集したんです」
「それで、あの、来たのが僕だったと?」
「ええ。善い人そうで安心しました」
「いえあの、僕が言うのはやっぱりおかしいんですが、本当に僕で大丈夫なんでしょうか」
「大丈夫、とは?」
今度は微笑んだまま、アンジュの首がことんと右へ傾く。
ともすれば大人よりも大人らしい言動の反面、どうやら少し浮世離れした部分もあるようだ。
「僕は男性で、笠原さんは女性です。いえ、下心はありませんが親御さんも流石に心配されるでしょうし、世間の目っていうのもあります。一般的に考えて年齢は問わずとも話し相手は女性の方のほうが良いのではないですか」
驚いた。年頃の女の子がこんなにも無警戒で良いものなのだろうか。
アンジュのそのあまりに無邪気な様子に、普段のシロからは想像できないような早口で、押しつけがましいことを喋ってしまった。
――これではまるでお節介な親戚のオジサンだ。
親族の法事で酒に酔い、しつこく姉に管を巻いていた遠縁の情けない姿が脳裏に浮かぶ。
アンジュは傾げた首をそのままに、固まってしまっている。
言わなければよかった。初対面の人間相手に、何を偉そうに語っているのか。何より彼女は自分の雇用主となるかもしれないというのに。
落ち着いたはずの脈拍が再び早くなっていくのを感じた。耳の奥で心臓の音が聞こえる。
「すみません、出過ぎた物言いをしました」
「いいえお気になさらず。気に掛けていただいてありがとうございます」
やはりにっこりと笑って、彼女は麦茶のグラスを傾ける。
「どなたでも良かったんです」
「え?」
「話し相手。お願いする方に対して特に要望は無くて、最初にお電話してくださった方にと決めていました。そしたら一番最初のお電話が川田さんでした」
「正直、先ほど仰ったような懸念が全く無かったわけではありません。でももしその懸念が現実になったとしても、その時にどうするのか決めれば良いと思って。どういう結果になっても、その方に決めたのは自分なんだからと。自業自得ってやつですね。お会いしてみて、お話ししてみて、やっぱり自分は間違っていなかったと思いました。川田さんに来ていただけて良かった」
アンジュは一層笑みを深め、よろしくおねがいします、と穏やかな声で言った。
この短時間ですっかり見慣れてしまった彼女の笑顔は、それでもやはり美しかった。
第二章・あし 了