第二章・あし(1)
勧められた椅子へ、そろそろと近づく。
「外、随分暑いんですね」
「え?ああ、はい。というよりもここまでの坂道にやられました」
「ああ、なるほど。でも家の中は寒いでしょう。玄関のカーテン、閉まってたんじゃないでしょうか」
「え、はい、そうですね」
どの問いかけへの返答だったのか、シロ自身にもよくわからない。
少女の言葉に呑まれるように、言葉が口からついて出る。
「カーテン、開けてきたほうがよかったですか」
「いいえ、大丈夫ですよ。飲み物は冷たいのと温かいの、どちらが良いでしょう」
「あ、ええと、冷たいので」
――未だ動揺冷めやらぬ。
シャツは冷えていても、体内に熱は籠ったままだ。
シロは自分の姿をどこか別のところから眺めているような気分だった。
自分の身体、自分の思考であるのにまるで他人が操作しているような。意識はガラス一枚隔てたところから、ぼんやりとそれを眺めているのだ。
この感覚を何と言うのだったか。
「コーヒー?紅茶?麦茶もありますよ」
「アイスコーヒーってことですか」
「ええ」
「えっと、でしたら、麦茶で」
じゃあ、を寸でのところで言い換えた。
この少女は初対面のシロに警戒することなく接している。
ともすると親戚と話しているのかと錯覚させられそうだ。その錯覚は油断を生み、その油断は言葉となって現れる。
彼女はあくまでも他人で、しかも初対面の人物である。
どれだけ相手が友好的でも、言葉は慎重に扱わなければなるまい。
ぼんやりと自分を眺めている感覚の中でも、シロの意識は思考の手綱を握っていた。
アイスコーヒーもアイスティーも好物だが買ったものならば単価が高い。淹れるのなら手間がかかる。
その点麦茶であればポットに作り置きだろうから、初対面の車いすの少女を煩わせることもないだろう。
そこまで思案したにも関わらず、シロの気づきは遅かった。
「あの、手伝います!」
手間を考えるくらいなら、初めから遠慮するなり手伝うなりするべきだ。慌てて声をかけたが、少女はすでに膝の上のお盆へグラスを載せているところだった。
「大丈夫ですよ、慣れてますから。ありがとうございます」
少女・アンジュはにっこりと笑う。白い肌の頬だけ、うすく色づいたように見えた。
「どうそ座っていてください」
「あ、はい。失礼します」
逡巡した。”座る”という動作が申し訳ない気がしたのだ。
幸か不幸か、シロが車いすを使用している人と面と向かうのは、これが初めてのことであった。
「お気になさらず」
「はい、すみません」
相手の逡巡にも慣れているのか、にこやかな表情を崩さずシロを椅子へ促す。
シロは三回目の勧めに、ようやく腰を落ち着けた。
アンジュは流れるような動作で車いすを反転させ、腰かけたシロの斜め前から麦茶の注がれたグラスを置く。
バブルボール型のグラスは飲み口が薄く、丸い側面には優雅に泳ぐ金魚模様の擦り加工が施されている。客用であろうそのグラスの下には、真っ白なレースで作られた品の良いコースターが敷かれていた。
「ありがとうございます」
――お盆、滑らないのだろうか。
謝意を表しながらも、シロの意識は方々へ飛び回る。
彼女の膝に乗せられたお盆には、表面にシリコン加工をすることで滑りにくいよう工夫されていた。なるほど、これなら安定感が増す。
彼女は再びくるりと車いすの向きを変え、テーブルを挟んでシロの真正面の位置へついた。
お盆はテーブルの上に置かれ、麦茶のグラスは彼女が普段使っているものだろう、積み重ねができるよう下部が一回り細くなっている。奥に見えるキッチン横の食器棚に、同タイプのものが幾つか重ねられていた。
飲み口の厚い硬化ガラス製のタンブラー。喫茶店などでよく見掛ける品物だ。
その下にある木製の丸いコースターは所々撥水剤が剥げていた。長く使用しているようだ。
「どうぞ。ご遠慮なく」
「いただきます」
とは言え相手よりも先に口をつけるのは気が引ける。グラスを眺めるふりをして、シロは彼女がグラスへ口をつけるのを待った。
彼女はゆっくりとした動作で麦茶を口に含み、微笑んだ。もしかするとシロが待っていたことも彼女にはお見通しなのかもしれない。
アンジュの瞳には、そう思わせる不思議な魅力があった。
相手の心を見透かすような、相手の視線を吸いつかせるような、魅力。
「美味しいです、ありがとうございます」
一気に飲み干してしまいたい欲求を何とか抑える。微笑み続けるアンジュに、シロも余裕のある風に微笑み返した。
「良かったです。麦茶ならまだありますから、遠慮なさらないでくださいね」
「はい! あぁ、いえ、大丈夫です」
とても元気よく返事をしてしまった。
まるで友達の家に遊びに来た小学生のようではないか。落ち着かなければ。
シロは自分のペースを崩され、すっかり少女に呑み込まれてしまっていた。