第五章・牛歩の歩みに似て非なる(10)
「どうして……。なんでいきなり……」
怯えてる怯えてる。怖いんだねぇ。キレイだと思うんだけどねぇ、鋼はギラギラ反射しないから。でもまぁたしかに一般的な感覚ではないだろうし、それはこっちの話かぁ。
まずは順手。駆け足程度の弾みをつけて、とりあえず刺さるところまで。体重を乗せきることはまだしない。
「ぐぁ……」
「いきなりじゃないよぉ、前から決まってたもん」
あんたの口には興味ないから、無駄話はもういいよぉ。
鉄の匂い。脂肪分の混ざった温かな液体。力が抜けて左肩にかかってくる重み。苦しみに悶えながら生にしがみつく呼吸。
興味があるのはそういうものだけ。キレイなものだけ。
「残念ながら、決まってたのは私たちの中でだけだよ。この人にとっては”いきなり”以外のなんでもない」
「そうだっけ、そうかもねぇ。でもまぁほら、決定事項に変わりはないし?」
「そうだね。手早く済ませよう」
手早く? せっかくのこの時間を、手早く? こっちにも手順やこだわりがあるんだよぉ?
「あり得ないあり得ない! 手早くなんてできるわけないでしょぉ!」
「そう?」
「そうだよぉ」
まだ刺さり方は中途半端。
柄尻に右手を当てて全体重をかける。ついでに相手の重さも利用してより深く、よりしっかりと。
この時に右足を肩幅分斜め前に出しておいて、左のつま先は外側へ向けておく。足首と膝を柔軟に使うことがコツ。下から突き上げる形になって相手の重さが作用しやすいし、基底面が広くなるぶん踏ん張りがきく。こちらが重さに負けて共倒れになることを防げる。
ああ苦しんでる。痛いよねぇ、苦しいよねぇ。それでいいんだよ。生きてるって感じがするでしょぉ?
その顔とこの重さ。色、におい、温度。ああ、大好き!
「そもそもさ、相手の要望も聞いてあげなくちゃ、フェアじゃないでしょぉ?」
左手も右手も、順手でしっかりと柄を握る。深く息を吸って、止める。
「ふっ」
刺したまま、刃を外側へ九〇度回転させる。人間の肉は硬いから、渾身の力でやらなきゃいけない。力をうまく入れるには膝の使い方と呼吸が大事。ゆっくり深く吸って、短く強く吐く。そして一気に。固い瓶のふたを捻るように。
同時に一瞬だけ、重心を落としてやる。密着していた相手がほんの少しだけ離れるから、こっちの身体の向きを変えられる。よしよし、左肩にかかっていた重みは上手く右肩に移行してくれた。右のつま先が左足にきちんと倣っていれば、今度は必然的に左足が肩幅以上前にくる。
万が一抜けたり手が離れたりすると困るから、身体はしっかり密着させる。相手の正面とこちらの右脇腹で挟むようにして。
声になっていない声が聞こえる。悶え苦しんで、もがきたいのにもがけない絶望色の声。力の入っていない身体が揺れている。痙攣のその振動は、こっちの脳髄まで揺さぶってくる。ああ、その全てにゾクゾクする。たまらないよねぇ。興奮するなって言うほうが無理でしょぉ?
「で、さっ」
腰を落として全体重を左足へ。右耳から肉が裂かれる音が聞こえたら、素早く自分の右足を引く。倒れてくる相手の身体に巻き込まれないように注意。
体勢を整えて振り向けば、そこにあるのはまだ微かに揺れる相手の身体。その身体と地面の間には、赤くてキレイな水溜まり。奥にほんの少し見えるのは、上行結腸と空腸かなぁ。
これが唯一知ってること。何度も失敗して、ようやく学んだこと。生きる方法。生きる意味。生きていく糧。
「でさ、どうしてほしい?」
「……」
あれ。
「おーい聞いてるぅ? てか聞こえてるぅ?」
「……」
「ええ……。もう死んじゃったのぉ? ちょっと早すぎない?」
もう少し耐えてくれると思ったんだけどなぁ。ショック死って早いもんなんだねぇ。それにしたって要望言う前に死んじゃうなんて、あんまりだよ。おかげでフェアじゃなくなっちゃった。
……おぉ、月が思ったよりも明るい。キレイだねぇ。薄汚い歓楽街のそばでも、キレイなものは在るんだねぇ。このジメジメさえ無ければもっと良い。まだ五月下旬なのに、やんなっちゃうなぁ。
「そしてここは意外と人通りが少ないねぇ」
S区の脇にある、この町で一番大きな公園。南北に一キロ、東西に三キロ。それだけの広さがあれば、遊歩道から外れた死角ももちろんあるわけ。
「いいね、使えるねぇここ」
ああでも、同じ所じゃつまんないか。簡単に足がつくのもごめんだしなぁ。
ていうか今回のコレ、失敗じゃん? 失敗作じゃん? 楽しかったよ楽しかったしキレイだけどさぁ。あーあ。切り口がきったねぇんだよなぁ。
「だめだなぁ、やっぱり」
だめだろうなとは思ってたんだよ。あーあ、なんでこんな些末なことも……。
「まともにできないわけ?」
「ご、ごめん……」
「ごめんじゃなくてさぁ、なんでできないのかを訊いてるのね」
「ごめん……」
「だぁかぁらぁ。聞きたいのはそういう言葉じゃないわけ!」
「ひっ」
「言ったよねぇ、普通じゃダメだって」
「うん……」
「コレはさぁ、始まりなのね。スタート。デビュー。イニーツィオ。プロローグ。あんたの好きなクラシックで言えば前奏曲!」
「うん……」
「それってやっぱり、すごく重要だと思うんだけど、どぉ?」
「そ、そうだね」
「じゃあちゃんとやろうよぉ!」
「ご、ごめ……」
あーあ泣いちゃったよ。何で泣くかなぁ、みっともない。だからこいつには任せたくなかったんだ。
「まぁまぁ、そんなに大きな声出さなくてもいいじゃない。計画はきちんと実行できた」
「あのさぁ、こっちはアンタと違ってようやくなの」
「わかってるよ」
「この日のために我慢して我慢して、さんざん色々考えて」
「うん」
「その結果がコレ。納得いかないでしょぉ? やるなら完璧にやりたいわけ」
「そうだね、悔しい気持ちはわかるよ」
「出たよお得意のシンリガク」
今さらそんなの通用しないよぉ。
落ち着いた声のトーンを保って、絶対に否定をしない。オウム返しと肯定をひたすら繰り返して、いかにも共感しているかのように振る舞う。こっちの気分が落ち着く頃合いを見計らって、一気に自分の考えへ舵を切る。
「アンタのやり方はわかり切ってるし、もう見飽きたよぉ」
「だろうね」
すかして笑っちゃってさぁ。腹立つなぁ。
「アンタも殺せればいいのに」
「それは困るよ、お互い」
「お互いねぇ。アンタのお互いって、誰と誰のことぉ?」
「みんなだよ。みんなが揃わないと、意味がないでしょう」
「意味ねぇ」
「ふふ」
「アンタが腹の底で何考えてるのか、本当わかんない。気持ち悪いなぁ」
気持ち悪いどころじゃない、虫唾が走るレベル。言わないけど。
「それはむしろ光栄だね。私にとっては腹の内を簡単に理解されることほど、気持ちの悪いことは無いよ」
「あっそぉ」
多分死んでも理解しあえないんだろうなぁ。そんなことに存在意義は求めてないし、別にいいけどねぇ。
「さぁ次は誰にしよう」
ようやく手に入れた出番だ。思いっきり踊って踊らせないと、損でしょぉ。
ああ、あれの家族なんてのも面白そう。平凡に飽きた顔が絶望に満たされてるところ、見てみたいなぁ。
「でもアンタは良しとしないんだろうなぁ」
「……きみの考えそうことは何となくわかるけど、あの人もその家族も殺させないよ。そんなのは面白くないでしょう」
腹立たしいけど尊重しておかなくちゃねぇ。安全にキレイなものが見たいから、わざわざ計画だかなんだかに沿ってるわけだし。捕まっちゃうにはまだ早すぎるしねぇ。
月明かりに光る水溜まりは、酸化して少しずつ黒ずんできている。それでもキレイ。どれほど汚い人間でも、内臓とその血の色だけは平等にキレイ。フェアだ。
「ねぇ泣き虫さん。今度は包丁じゃ許さないよぉ」
「ひ、う、うん……」
さて、明日の朝はどんなテロップが見られるかなぁ。
「あんたもあんたの切り口もきったねぇけど、血と内臓の色だけは褒めてあげるよ。渦戸せんせぇ」




