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アイ・マイ・シー  作者: 津久美 とら
第五章・牛歩の歩みに似て非なる
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第五章・牛歩の歩みに似て非なる(5)

 元々、山歩きはシロの趣味のようなものだった。祖父の影響だ。祖父は存命だったころ、よく幼いシロを連れて山を歩いた。

 春は野花を愛でながら山菜を採り、秋には紅葉を満喫しながらキノコを採った。もっとも祖父がいたからこそそれらを採れたのであって、今のシロに山菜やキノコを採って食べる勇気は無い。

 たまに遭遇する小動物を観察するのも楽しかった。祖父は動物にも詳しく、幼いシロに鳴き声から鳥の名前を教えてくれたりその習性を説明してくれたりもした。


 シロが中学校に上がり勉学に追われ山へ行かなくなると、祖父は見計らったかのようにみるみる体調を崩してしまった。孫との山歩きは祖父にとって心身の支えであったのかもしれない。風邪から肺炎を併発し、一ヶ月ほどの入院のあとに亡くなった。七十三歳だった。

 そのあまりの呆気なさに、シロは葬儀でも泣くことが出来なかった。ようやく涙が出たのは、遺骨とともに自宅へ帰ってからだ。人間はあんなにも苦労して何十年も生きるというのに、こんなにもあっさりと死んでしまうものなのか。

 人の死に目に立ち会ったのは、それが初めての事だった。


 祖父は戦前の生まれで、終戦間近に樺太(からふと)から北海道へ引き揚げた”引き揚げ者”の一人だった。

 山歩きの道中、祖父はよく当時の話を聞かせてくれた。


「戦争なんか二度とごめんだ」


 と言いながら。

 肉親の口から聞くその光景は生々しく、凄まじいものだった。学校の教科書では学ぶことができない、汲み取ることさえできない”ただ生きること”の困難さがそこにはあった。

 引き揚げの途中、何人も親族や友人知人が亡くなっていったのだという。引き揚げ船に間に合わず樺太に取り残されてしまったご近所さんとは、その後全く連絡がつかなかった。そう祖父は呟いた。


「生きて戦後を見たかどうかも分からんね」


 それらは平和の世に生きるシロにとって、壮絶で刺激的な話であった。本当ならば、肉親の口からは聞かれないほうが良いはずの過去の過ちの話。しかし祖父は自らその話を聞かせてくれたし、シロもその話を望んで聞いた。当時の話をする祖父の横顔が好きだったのだ。遠くを見つめ、昔を懐かしむ穏やかな横顔。祖父は思い出と亡くした人たちを背負って、現代を生きていた。


「生きるのがつらいとは思わなかったの」


 思春期に差し掛かった子どもの、純粋さからの言葉だった。その問いに祖父は一瞬とても驚いた顔をして、そしてシロの頭を力任せに撫でた。


「なんも。あの時は死んでしまうことのほうが普通(いね)だったんだ」


 追懐する祖父の表情は柔らかく、少し寂し気であった。

 祖父が亡くなってからの一年は、山を見るのも嫌だった。ついこの間まで当然に生きていた人間が、目の前から消えてしまった。その現実を受け入れたくなかったのだ。山には優しい記憶が多すぎた。

 祖父の記憶を思い出へと昇華し、再び山を訪れたのはシロが高校二年になってからだ。それ以降物思いに(ふけ)りたい時、彼は山へ赴くようになった。


――それがまさか、人死にに高揚するようになるとは。


 これを成長ととるべきか、鈍麻と取るべきか。


――いやちがうか。


 人が死んだことに高揚しているのではない。現に早乙女一家、幸太郎の死に対しては今も言い表せぬ悲愴な気持ちがある。

 事象そのものに高揚しているのだ。その発端は渦戸教授殺害事件だった。そこに畳みかけるようにして表れた笠原アンジュの変容。ミステリー小説の登場人物になりきることができる自分の現状に、高揚しているのだ。


――しかしこれは難解だな。


 見上げた樹木の葉はすっかり大きく、色濃くなっている。梅雨が明けたから纏わりつくような暑さはない。寧ろ日の入りの少ないためか、草木から蒸散される水分がひんやりと心地よかった。物思いに耽るには、格好の日和だ。

 BPD・境界性パーソナリティ障害は、素人のシロには大変に難解な疾患であった。精神世界自体がそもそも難解であるが、この疾患は専門医でも正確な診断を下すのにやはり大変な時間と経験を要する。主訴の傾向ごとに様々な型へ分類され、その症状も非常に多様なのだ。その難解さはベテランの医師でさえも誤診へと導く。


――対人関係の不安定さ。対人操作、衝動的行動。


 境界性パーソナリティ障害の患者にはよく見られるものだ。

 患者は自身の思考や感情をうまくコントロールできないことが多い。ゆえに『このような自分では見捨てられてしまうのではないか』という”見捨てられ不安”に駆られ、他者との関係性に支障をきたしてしまう。

 そして葛藤の末に表れるのが、”対人操作”や”衝動的行動”といった症状なのである。


 対人操作は独占欲や見捨てられ不安によって、様々な手段を使って相手を操作しようと翻弄する。根も葉もない噂や嘘を口にしたり、構ってほしいがために特定の人間に甘えたり相談を持ちかけたりするのだ。

 一方で衝動的行動にはアルコールや薬物等への依存からリストカットや自殺企図(きと)といった、ともすれば生命を脅かしかねないような自己破壊的行動までもが含まれる。最も重いものが自殺だ。

 どちらも周囲への影響は甚大である。そして軸となっているのは、患者本人の不安定な思考や感情、行動からくるコミュニケーションの難だ。


――衝動的行動も対人操作も『二の彼女』に当てはまらないだろうか。


 手近な石に腰を下ろし、シロは笠原アンジュとそれらの症状とを照らし合わせた。一層距離の縮まった山土からは、生命の香りが立ち上ってくる。生物が落葉を分解し新しい生命を生み出さんとする、気概の詰まった香り。その香りは彼の思考と精神を安定させた。

 『二の彼女』の言ったあの言葉。


「アンジュが教えてあげる!」


 あの言葉は本当だろうか。自分の気を引くための方便ではないのか。

 S区で遇ったのは間違いなく『二の彼女』だった。傍目には不自然さを微塵も感じさせずに、彼女は近寄ってきた。まるで親しい友人と出くわしたかのように。そのまま無視することも充分に可能であったのに。そして直後にヘビ、『三の彼女』が現れた。

 それらを一連させると、シロに対する対人操作であるとも考えられる。構ってほしいがために嘘をつき、見捨てられないように(おもね)り、自分が傷つけられる前に相手を威圧し牽制を試みる。それはとても幼稚な言動で、しかし彼女にとっては切実なものだ。


 幸太郎の目撃談は『S区でアンジュらしき女の子が男性とラブホテルに入っていった』というものだった。シロがその目でみた光景も、正にそれだ。

 衝動的行動にはアルコールやギャンブルへの依存がまま見られる。同様に多いとされるのが性的逸脱、性依存だ。肉体関係を結ぶことによって境界性パーソナリティ障害の症状である空虚感や不安感を埋め、安心感を得ようとする。

 相手の体温がわかりやすいその行為は、あたかもコミュニケーションが容易になったかのように錯覚させる。その錯覚が、患者を依存へと引きずり込むのだ。安心感を得られるうえにコミュニケーションも取れ、一石二鳥ではないかと。そうしていれば自分は見捨てられずに済むのだと。

 性依存はリストカット等と同様に、自己破壊的行動である。


――全て彼女の自己防衛による無意識的なものだったとしたら、おれはどうする?


 どうしようもないのが現実だ。笠原アンジュが境界性パーソナリティ障害であるとしても、シロは彼女の家族ではないのだ。手立ては無い。

 たった一人の少女にも手を差し伸べることのできない自分を、彼は情けなく思った。反面、笠原アンジュが精神疾患を抱えている可能性への確信はやはり強まっていく。


――ラプンツェルのようだな。


 カシワの葉の間から、濃い青色が覗いている。雲は見えない。当分雨は降らないだろう。

 境界性パーソナリティ障害を含む大区分としてのパーソナリティ障害は、多くの精神疾患と同じく未だ原因の解明がされていない。脳に先天的な要素を持って産まれる場合もあれば、幼少期の苦い体験などの環境要因が原因となることも多い。

 十五歳の彼女は車いすに乗り、この山の中の屋敷に一人で住んでいる。

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