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アイ・マイ・シー  作者: 津久美 とら
第五章・牛歩の歩みに似て非なる
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第五章・牛歩の歩みに似て非なる(4)

 さて、あの人は何をどこまで掴んでいるのだろうか。三つ連続で起きた事件に、関連性を見出したりはしているのだろうか。

 ……ああ、もう月があんなに高い。今日は満月ではなかったようだ。しかしやはり、この家にバルコニーが無いことは悔やむべきポイントだ。澄んだ空気を体いっぱいに吸い込んで、月の明るい夜に読書と洒落こんでみたかった。

 まあ無いものをねだっても仕方がない。目の前のやるべき事、考えるべき事は山ほどある。


「ああ、また」


 キッチンには食器や調理器具が使ったまんま、ほったらかしだ。浸け置きもされていない。ガビガビだ。自分で使ったものくらいは自分で片付けてほしいものだ。この分ではきっと、バスタブも湯でいっぱいだろう。いや”元”湯と言うべきか。この奔放さには全く、文句の領域を超えて頭が下がる。……同時に痛みもするけれども。

 洗い物をする間に、洗濯機を回してしまおう。どうせ洗濯かごも山になっているはずだ。


「ふふ」


 今日の私はそれでも、大変に機嫌がいい。

 二階の部屋からも洗濯物を集めてきて、選り分ける。下洗いを済ませ洗濯ネットに入れて、洗濯機のスイッチを押す。ややしばらく空回りをしてから、使用する水の量と適切な洗剤の量を教えてくれた。その通りに洗剤や柔軟剤を投入すれば、あとは全部洗濯機がやってくれる。今日は量が多いから、少し時間がかかりそうかな。次は洗い物だ。

 あの人はどこまで気付いていて、どこから気付いていないのだろう?


「実は何にも気付いていない?」


 ガビガビになった食器類は水に浸け、グラスなど比較的容易なものから取り掛かる。

 いやまさか。あの人のあの目、あの顔、あの反応。何にも気付いていないわけはない。

 ああ。もうどうして油のついた食器にガラス製品を重ねるんだ。

 むしろ、あれは気付いているのだ。気付いていたし、探ろうともしていた。

 

「まさかね、うん。あれはさすがに予想外だった」


 全く、好奇心とは恐ろしい。もちろん私にも身に覚えが無いわけではないけれど、あの人があそこまで行動心理学を心得ているとは思いもしなかった。あれは勘や経験則といった不確かなものだけではない。知識と技術を心得ている。


「確かに、その通りだね」


 片田舎にある中堅私立大学の文学部。少し甘く見ていたかもしれない。これはもしかすると、思いのほか結果は早いか?


「そうはさせないよ、もちろん」


 ただ、知識と技を心得ていることを悟られた時点であの人の負けだった。結果としてあの人は、未だ私の手の上だ。

 そして、私はまだ私を生かさなければならないはずだ。


「大丈夫、大丈夫」


 私は私を生かす。生かさなければならない。なれど、あの人を殺させるわけにもいかない。


「そんなのは面白くないでしょう」


 そう。面白くない。面白くないのなら、こんなことは一切合切無意味と言うより他にない。かと言ってやりすぎは禁物だ。

 必要なことを、必要な時に。せっかくならより効果的に。タイミングというものは、場合によっては手段よりも相手に与える影響は大きい。しかし一方でプラスにもマイナスにも働いてしまう諸刃の剣だから、見極めは大切だ。あの人もそれをよくよく心得ていた。


「まだだよ」


 そしてそれが私の役目だ。

 急いては事を仕損じる。急がば回れ。昔の人は良い言葉を残してくれた。


「そうだなあ。かくれんぼと言うより、鬼ごっこかな」


 ……違うな。これはチキンレースだ。私とあの人のチキンレース。まだ、今のところは。


「先のことはわからないから」


 あの土曜日。あの人がこの家について問うて来た日。あの時は最高に面白いレースができた。

 私はあの人にタイミングで勝った。いや、あの人のタイミングが負けた。スポーツじゃあるまいし、相手のミスによる勝利を自分に加点してしまってはつまらない。

 あの人はあの時、行動心理学を(もと)にした話術で私を紐解こうとした。細かく私の微細行動を見ては殆ど正確に分析していた。()の取り方や話し方も、絶妙だった。でも。


「でも、早すぎた」


 彼は己の好奇心に任せすぎてしまった。結果、()()()()()()()()()()()()早すぎたのだ。あの日自体が早すぎたと言ってもいい。

 ああいった仕掛け方をするのならばもっとカードを十全にし、盤上もきちんと整えてから臨まなければいけない。でないとあっという間に燃料切れを起こしてしまう。現にあの人は今、多少の手詰まりを感じているはずだ。


「もったいなかったなあ」


 恐らく、普段から他人をよく見ているのだろう。行動心理学の知識を(もっ)てよく見聞きした上で、相手の癖を把握している。それが意識的なのか無意識的なのか、半々なのかは分からないが。だが訓練になっていることだけは確かだ。でなければ微細行動による心理分析など、そう簡単に出来る事じゃない。


「そうじゃなきゃ、ただの癖なのか微細行動なのか、判別がつかないでしょう」


 まあもちろんそれだけではないけれど。


「こちらも人間だからね」


 あれだけ大きく仕掛けてきたということは、私自身の癖はほぼ把握されているということだ。実際問題、あの人は視線について的確に分析してみせた。

 私は普段左下に視線を落とさない。意識的に落とさないようにしている。あの人はそれに気が付いた。私が自分の失態に気付いた時には、もう既に気付いていたはずだ。しかし、気付いたことを私に気付かれてしまった。あれは実に惜しかった。


「私の意地が悪いわけじゃないよ」


 私の癖を把握している。そして十中八九、微細行動を分析している。つまり行動心理学の心得がある。それに気が付いた直後から、私は様々なことを試みた。手の動き、上体の形、物の位置。表情、声、目。

 確信を得たかったのだ。あの人が本当に行動心理学に基づいた言動をとっているのか、微細行動を分析したうえで話しをしているのか。


「きっと根が真面目で素直な人なんだろうなあ」


 あの人は見事に、セオリー通りの分析をしたようだった。


「そう、それでいい。それがいい」


 チキンレースは力の差が開き過ぎてはいけない。お互いがお互いを、寸でのところで牽制しあわなければ。

 ああいけない、手が止まっていた。洗濯が終わる前に、洗い物を済ませてしまわないと。

 さて、あの人は何をどこまで掴んでくるのだろうか。次に会える時が楽しみで仕方がない。

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