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アイ・マイ・シー  作者: 津久美 とら
第五章・牛歩の歩みに似て非なる
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第五章・牛歩の歩みに似て非なる(3)

 堂々巡りだった。

 泥沼に飲まれかけた思考の手綱を、シロは渾身の力で引き上げた。酸素の不足した頭を、情報を精査することにのみ注力させる。

 離人感や現実感消失といった感覚は誰しもが生涯で一度は体験することだ。仮に統合失調症に罹患していたとしても、家族が誰も気が付かないことはないだろう。とにかく今は、笠原アンジュのあの変容についてだ。


――落ち着けなければ。


 深呼吸によって体内に取り込まれた湿った空気が、シロの脳にゆっくりと酸素を供給していく。開いた本のページはじっとりとその湿り気だけを含んでいた。

 幸太郎が話したS区での笠原アンジュ目撃談について、実のところシロは懐疑的であった。ただそれは昨日までの話だ。

 あれは確かに笠原アンジュだった。この目で見てしまった以上、否定できない事実だ。そしてその事実により、幸太郎の目撃談への信憑性は格段に上がってしまった。

 妖艶な笑顔のアンジュとヘビの様相を呈したアンジュが、芋づる式に思い起こされる。彼女たちは彼の脳を再び混乱に陥れようとしていた。これではまた沼に足を取られてしまう。先へ進まなければ。シロは頭を振り、栞の続きを追った。


 解離性同一性障害は、人格の分裂という非常に特異な性質を持つ。そしてその分裂は一つに留まらない。つまり解離性同一性障害の患者には主たる人格のほかに、二つ以上の人格が見られるということだ。現にかのノンフィクション小説の題材となった彼には、二十四人もの人格が確認されたという。

 分裂した複数の人格は”人格交代”によって表へ現れるものと、内に籠ったままのものとに分かれる。そして更にそれぞれの人格にも、多様且つ突出した特性が見られるのだ。


 シロが目にした笠原アンジュの変容は、細分化すると三つに分けることが出来る。

一、穏やかでコミュニケーションに長けた彼女。

二、妖艶で奔放、かつ他者に甘える彼女。

三、相手へ畏怖の念を抱かせる、ヘビのような彼女。

 しかし、その三つの細分化をあからさまに固定してしまうのには疑問が残った。


――人間の性格は穏やかな側面だけではない。現におれだって内にヘビを飼っている。


 シロ自身にも思い当たる節があった。

 人は気持ちの振り幅があまりに大きいと、傍からはその性格までもが変わってしまったかのように思える時がある。

 今この瞬間。何をおいても「知りたい」という欲求に逆らうことのできないこの瞬間こそ、彼のその時だった。亡き親友が『人格が変わったようだ』と諫め、心配するほどに。ただそれは親友の兄が言ったようにシロの性分、持って生まれたものである。

 ならば笠原アンジュにおいても、それら生まれ持ったものを考慮に入れなければならないのではないか。その場合一見『一の彼女』と『三の彼女』は対極に位置していると思えるが、もしや人間の表裏一体性とも言えるのではないか。長所と短所が正しくそうであるように。そしてそれこそが、シロが彼女と初めて相対した時に感じた「引っかかり」の根源ではないか。

 その二つを同じ人格と推察する。人格が変わってしまったかのように、感情の振り幅が大きいだけだとする。そうすると彼女の人格は二つに留まる。二つのうちどちらかが主人格であるとするならその疾患の稀有さも含め、笠原アンジュは解離性同一性障害ではない可能性が高くなってくる。

 ただし、これは現時点での仮定である。彼女の内側を判別するには、情報も時間も足りていない。


――今後の彼女に賭けるしかない。


 笠原アンジュが何か別の情報、もしくは確固たる確証を与えてくれることを祈るばかりだった。


 * * *


 彼女はその後も度々変容を繰り返した。『一の彼女』と『二の彼女』である。『三の彼女』、ヘビだけがすっかり鳴りを潜めている。

 その間に梅雨は明け、そろそろセミたちがその短い生涯を始めようという時季だった。


 シロがそれまで通り笠原アンジュの話し相手をする一方で、また一人この町で男性が殺された。

 その人物の顔も名前もシロは知らない。生粋の赤の他人だ。ただ剣呑な事件が三件連続で起こったこと、その男性が殺された場所がS区のラブホテルの一室であったことにはやはり興味をひかれざるを得なかった。彼にとっての非日常はまだ続いている。

 古めかしく安っぽいその建物に防犯カメラの類は設置されておらず、受付でカウンター越しに鍵を受け取る昔ながらのシステムであった。ホテル内で男性の顔をしっかりと目撃した者はいないことになるのだ。

 金曜の夜、S区が一週間で一番賑わうその日その時間に男性は殺された。近隣のコンビニエンスストアの防犯カメラに不審な人影は映っていなかったというが、行き交う人があまりに多く判別がつかないというのがその実である。

 S区。男性が殺された地域が、ただS区だったというだけのことだ。だがシロにとって、S区と笠原アンジュとは自然と紐付いてしまうものであった。

 アンジュはと言えばこの三週間、目新しい情報も確固たる確証ももたらしてはくれなかった。


「誰より早くシロさんが犯人を知ることになる。約束するわ。絶対にアンジュが一番に教えてあげる!」


 そう笑ったはずの『二の彼女』は、一向に渦戸事件について話す様子は無い。テレビのニュースからもこれと言った情報は得られなかった。

 『一の彼女』を主として『二の彼女』が日を置いて表れる。この三週間シロは笠原アンジュに対し、何かを言及するような話題は敢えて出していなかった。そのおかげと言うべきか、ヘビは姿を現さない。

 思い起こせばヘビ、『三の彼女』が出てきたのは、彼女にとって不都合な場面だけであった。それを踏まえると『三の彼女』は他者を牽制したい時にのみ現れるとも言える。その考えは、彼にとって殆ど確たるものだった。

 笠原アンジュの変容を、性格の表裏一体であるとすること。『一の彼女』と『三の彼女』を同一の人格と見做(みな)すこと。それは今となっては彼女を解離性同一性障害と仮定するよりも、はるかに現実味を帯びた話だ。ならば、シロも別視点から再び考察をし直さなければならない。


――笠原アンジュは、いったい何を孕んでいる?


 彼女が何かしらの精神疾患を抱えていること自体、仮定でしかなかった。しかしその仮定を元に考察を進めると、その変容についてだけは納得がいくように思われてならないのだ。


『境界性パーソナリティー障害』


 BPDと略されるその疾患と症状に、シロは一筋の光明を見ていた。

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