第五章・牛歩の歩みに似て非なる(2)
正確な疾患名を付ける必要はない。付けることも出来ない。彼は医師ではなく、一介の大学生である。ただシロの好奇心、知的欲求はその妥協を許さなかった。
心理学部で課題として取り上げられているのだろうか。大学の図書室で解離性同一性障害について詳細に書かれた本を見つけることは出来なかった。市立図書館で借りて来た本とインターネットから得られる情報だけが、今のところの頼みの綱だ。
厚生労働省によれば、解離性同一性障害はそもそも『解離性障害』という大きな区分に含まれる。その区分の中には様々な症状と疾患名が記され、解離性同一性障害が極めて特徴的な症状を示すことも書かれていた。
――離人感。現実感消失。
たまたま行き着いたその症状に、彼の身体が強張った。
初めて笠原アンジュと会ったその日、シロは確かにその症状と同じ体験をした。自分の姿をどこか別のところから眺めている。意識が隔離されている感覚。自分ではない誰かが自分の身体を操っているような感覚。
自分の身体を他人が動かしているような感覚の事を”させられ体験”と言う。
知れば知るほどに、シロは自分も何かしらの精神疾患を抱えているのではないかと疑心に駆られていった。
――幻聴はない。幻覚も妄想も、ない。
その疑心が頭をもたげる度、自分自身を振り返ってはそう言い聞かせた。
――本当に?
ヘビの目。
――本当に?
ヘビの目。ヘビの声。
笠原アンジュのあの瞳孔のすぼまった目。あの中性的で落ち着いた良く通る声。それらは有無を言わせぬ圧力を持っている。
――本当に、何もない?
獲物を見据えたヘビのようなあのアンジュの姿が想起される。外側から包み込むように、なれども脳の奥から指先まで波紋の様に広がるその圧力は、考察するシロの足を何度も止めさせた。
彼女の目と声が、強く静かに問いかけてくるのだ。
――本当に、あなたは違う?
それはひどく恐ろしいことだった。
思い浮かべている目の正体も声の正体も、彼女ではない。しかし寧ろそう認めてしまうことの方が、より恐ろしいとも思われた。正体を自分自身であると認めるということは、それらを幻覚や幻聴であると認めることになるのではないか。
昨日のあの感覚は、現実感消失ではないのか。周囲の光や音が切り離され別の場所に居るかのような、あの感覚は。
離人感や現実感消失、させられ体験。そして自分の内から聞こえる、自分のものではない声。
シロが笠原アンジュと対峙し体験したその四つの感覚は、統合失調症患者の口からよく聞かれるものだ。
――泥沼だ。
止めた足は確実に、ずぶずぶと思考の沼に飲み込まれていた。とある哲学者の言葉が思い出される。
『深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。』
『人生を危険にさらせ。』
そう述べた哲学者もその言葉たちも、多重人格同様あまりにも知られ過ぎていよう。
正しくその哲学者の言葉の通りに、精神世界へ挑む者はたとえどのような肩書きであっても己の精神は常に半ば剥き出しであるという。ミイラ取りは容易にミイラとなり得るのだ。
そして言い聞かせる。
――大丈夫だ。自分は何ともなっていない。




