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アイ・マイ・シー  作者: 津久美 とら
第五章・牛歩の歩みに似て非なる
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第五章・牛歩の歩みに似て非なる(1)

 幸太郎がいなくなってから、一ヶ月になろうとしていた。横から絶え間なく入って来ていたテノールが無いだけで、こんなにも学内を静かに感じるとはシロは予想だにしていなかった。


 渦戸教授に続いて起きた早乙女家放火事件には、さすがの大学側も対応を取らざるを得なかった。渦戸の事件時には学生へ向けて特にこれといったケアは無かったが、今回においては臨時カウンセリング室が三室設けられることになったのである。

 市内で凄惨な事件が立て続けに起こったこと、被害者がどちらもH大学の関係者であったこと、二件目に至ってはその被害者が非常に顔の広い学生であったことなど、様々な理由が挙げられた。


 心理学部の教員はその全員が臨床心理士や心理カウンセラーの資格を持ち合わせている。しかしその設置に伴って、臨時カウンセリング室への入室と学生から講義に関すること以外の相談を受けることを禁じられた。学生たちとの距離があまりに近すぎるからだ。

 一定且つ適切な心理的距離を双方が維持できない場合、心理士やカウンセラーの仕事は成り立たなくなってしまう。故に三室を設けると同時に、外部より三人の心理カウンセラーと一人の臨床心理士が呼ばれたのであった。

 学内にはいまだ警察官たちも闊歩していたから、それまでよりも”大人”の空気が濃く強くなっている。

 シロは徐々に雰囲気の物々しくなった学内を、寂しさと窮屈さの()い交ぜになった様な恰好で歩いた。家族に学友、ゼミの教授や学生課の職員までもが彼にカウンセリングを受けるよう勧めてくる。今現在は何とかすり抜けているものの、彼らはタイミングを見計らって何度もやって来るのだ。


――自分でも驚くほど、何ともない。


 その”何ともない”事実を、気取られたくなかった。もちろん彼だって寂しさや虚無感といったものは感じていた。しかし突然涙があふれて止まらなくなる、ひどく気分が落ち込んで何もする気にならない等のいわゆる”うつ状態”といわれる症状は一切無かった。食欲が無い、眠れない、何をしても楽しくないということも無い。そして何より、カウンセリング云々に貴重な時間を取られたくはなかった。

 今はとにかく、笠原アンジュについて知らなければならない。そう親友にも誓ったのだ。


――やはりあの火曜日の彼女と、昨日S区で遇った彼女は同一人物であろう。


 その考えがどうにも頭から離れなかった。

 先月末の火曜日に彼女の変容を初めて目の当たりにし、シロは市立図書館で一冊の本を借りた。心理学の専門書である。もちろん彼は心理学においては門外漢だ。しかし彼女のあの変容ぶりと態度については、思い当たる節があった。


――こんなことなら心理学部にしておくんだった。


 とは言え、他学部と合同の一般教養を終えたばかりの二年の六月だ。夏になるかならないかというその時期に、専門知識など殆ど無いのではないかと思われた。現にシロ自身がそうである。ならばスタート地点はほぼ同じだ。寧ろ自分で知識を取捨選択できるのだから、優位であるとも言える。

 奇しくも、彼がまず片付けなければならないはずの自由課題レポートは既に終わりが見えていた。


<ミステリー小説における心理描写とフーダニット>


 題材にしている小説の登場人物になりきる時間は、まだある。

 シロは夕方の静かな図書室で笠原アンジュについて考えを巡らせた。前提として、彼女の変容ぶりを尋常の範囲外であると仮定する。その上でまず考えられたのは、彼女が何かしらの精神疾患を抱えていることだ。

 彼が真っ先に思い浮かべたのはDID・解離性同一性障害。いわゆる多重人格であった。誰もが一度は聞いたことのあるその疾患名は、彼女のあの性格の変わりようにはぴったりとあてはまると思われた。


――二十四人もいたらさすがに困るな。


 その疾患名から、何年か前に読んだノンフィクション小説が思い出された。九〇年代前半日本中に『多重人格』という名称を知らしめ、世を席巻した本である。そのブームの最中は、猫も杓子も二重人格多重人格と騒がれたという。そしてその影響でそれまではタブーであるかのように敢えて言及されてこなかった、様々な精神疾患が意図せず脚光を浴びることとなったのだ。

 現在では社会問題化しているとも言えるうつ病や躁うつ病。中でも当時、その名のインパクトの強さから人々へ知れ渡ったのが精神分裂病だ。今で言うところの統合失調症である。妄想や幻覚幻聴といった特徴的な症状。それに加えて百人に一人程度が生涯で一度は発症すると言われるその発症率の高さも、注目を集める所以(ゆえん)となった。


 市立図書館で借りた本に栞と挟み、深く息をついて天井を見上げた。湿り気を帯びた紙とインクのにおいが、彼の肺を満たした。青白い光を放つ蛍光灯に、埃の塊がぶら下がっている。その怠惰の塊を、斜陽がオレンジ色に染めていた。


――希有か。


 解離性同一性障害の正確な患者数は分かっておらず、そもそも医師がそう診断を下した症例数も最近では大変に少ない。類似した症状を呈する精神疾患は他にもあり、大抵の患者はそちらであると診断されるからだ。つまり、解離性同一性障害という疾患自体が稀有であると言える。


 頬杖をついて窓枠に切り取られた小さな夕空を見るともなく見る。家路についたカラスが五羽、その四角い薄暮の中を横切った。

 本の記述を頭の中で反芻(はんすう)し、シロは全身に気怠さが広がっていくのを感じた。早くも出鼻を挫かれてしまった気分だ。その気怠さは先の見えない不安、正体の分からない不安となって彼を蝕む。

 明日は火曜日、笠原邸へ赴く日だ。

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