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アイ・マイ・シー  作者: 津久美 とら
第四章・ニーチェの霍乱
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第四章・ニーチェの霍乱(9)

 その晩、シロはS区に居た。幸太郎の弔問で遇った映画サークルの面々と弔い酒を交わす流れとなったのだ。自分だけ未成年だからと断ろうとはしたものの、結局押し負けて連れて来られてしまった。

 未成年飲酒などと、下手な真似で自身の経歴にキズを付けたくは無い。しかしここまで来てしまっては致し方なし、どうにかノンアルコールだけでやり過ごそうと腹を括った。


「そういえば、あの火事の後オレ事情聴取されたんだよね。ケーサツに」

「マジで? 俺も俺も」

「みんなされてんのかね? だとしたらすげぇ人数だぜ」


 シロも任意の事情聴取を受けていた。

 ノートパソコンやスマートフォンも見せてほしいと言われたから、数日間警察へ預けた。特段見られて困るものなど無い。隠したいものはと問われたとしても、せいぜいアダルトサイトの履歴くらいだ。それだって法に触れるようなサイトでは無いし、むしろ青年期らしい健全さであるとすら言える。

 事件当時にどこで何をしていたのかも、もちろん訊かれた。刑事ドラマでもよく見る”アリバイ確認”だ。

 火事が起きたのは深夜二時前後。シロはその時、自室でレポート作成に勤しんでいた。家族はとっくに就寝している時間である。その時間に彼の姿を見た者は一人もいない。そもそも近親者の証言はアリバイの証明にはならないと言うから、彼がその日レポートを書いていたと証明してくれるのはノートパソコン内にあるデータの保存履歴だけだった。しかしそれだって、機械の時間設定をいじってしまえばどうとでもなる。

 つまり、シロには事件当時のアリバイが無い。その代わりに、犯人であるという証拠も動機も何一つ無かった。今酒を酌み交わしているこの面々も含めて、この町の住民殆どがそうであろう。


 入店から約一時間。すっかり赤ら顔になった彼らから、警察の動向を茶化した言葉は度々聞かれていた。しかし、幸太郎の死を悼むような言葉が出る気配はない。


「献杯」


 とグラスを合わせはしたものの、皆彼の死を避けていた。

 認めたくないのだ。周囲を明るくするためだけに産まれてきたような、笑顔の絶えない人望の厚い人間。そんな彼が何者かに殺されたなどと。その様子は渦戸教授の時とは正反対であった。


「まもなくお時間十五分前でーす! ラストオーダーどうされますかぁ?」


 九〇分制飲み放題の終了時間を、店員が間延びした声で報せた。各々のグラスにはまだ半分以上中身が残っている。


「じゃあ俺ウーロンハイ」

「レモンサワーで」

鍛高譚(たんたかたん)水割り」


 S区内随一の格安飲み放題とはいえ、全員しがない学生の身である。できる限り元は取っておきたいところだ。


「シロは?」

「おれはノンアルコールのカシスオレンジで」

「かしこまりましたぁ」


 店員はハンディターミナルへ手早く注文を入力すると、間延びした声を残すようにして去って行った。

 金髪のショートヘアに、これでもかと耳に開いたピアス。百六十センチ後半の身長、がさついた声、薄い身体。シロにはその店員の性別すら分からなかった。物事を判断しようという時、聞こえるものと見えるものだけではもしや情報が足りないのではないか。


 それは二件目のカラオケ店へ向かう途中であった。偶然か或いは必然か。シロはふと、亡き親友の言葉を思い出した。


『歩いてたよ。普通に』


 人間の脳とは実によく出来ているもので、見覚えのある物や人物を視界に捉えやすい。

 学友たちの一番後ろを歩いていた彼は、ラブホテルの立ち並ぶ路地を見た。何の気は無い、ただそこに人影があったからである。しかし思えば、その人影は脳が勝手に意識して捉えたものであったのかもしれない。


「笠原さん」


 発された瞬間に霧散するような、小さな呟き。それがその人に届いたのかどうかは分からない。

 ただ、シロがそう呟いたと殆ど同時にその人は振り返った。振り返って、にっこりと笑った。可愛らしく儚げな。それでいて目眩を引き起こさせる妖艶さを(はら)んだ、あの笑顔だった。

 その人は腕を組んでいた男性の耳元で何かを囁いて、立ち尽くすシロに小走りで向かってきた。コツコツとヒールの音が響く。長く美しい髪が揺れる。喧騒にまみれた歓楽街の一角。周囲の光や音が切り離され、シロの意識と感覚は全てその人へと注がれた。


――いやだ。


 いっそ逃げ出してしまいたい。昼間親友の骨に立てた誓いなどかなぐり捨てて、この場から走り去ってしまいたい。けれどもやはり、知らなければならない。知りたいのだ。本能と欲求の板挟みだった。


「シロさん!」


 彼女は力無くぶら下がっていた彼の右手を握りしめた。そして明るく上機嫌な声で


「これはナイショね」


 と笑った。

 握った手を不意に引っ張られ、互いの顔の距離が近づいた。香水のあの甘い香りが鼻をかすめる。焦点の合わないシロの目をのぞき込んできたのは、あのヘビだった。


「次は私の家でお会いしましょう」


 ヘビは聞き慣れた中性的な落ち着いた声で、小さくそう言った。

 シロは何も言わず、何も言えず、身動き一つ取れない。まるで金縛りだ。

 待たせていた男性と再び腕を組み、ヘビ、笠原アンジュは吸い込まれるようにラブホテルの中へと消えた。光も音も切り離されたまま、ただ呆然と彼はその後ろ姿を見送った。


 翌日のニュースは相変わらず、どの放送局も渦戸教授殺害事件と早乙女家放火事件とで持切りであった。


第四章・ニーチェの霍乱  了

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