第一章・扉と階段(1)
五月。芽吹いた若葉が青色を強くし、日に日に日差しも夏のそれに近づいていく。
木も花も動物も、それに釣られて人間もめきめきと生命力を伸ばしている、そんな季節だ。
大学に入って二回目の五月、昨年よりも早まりそうな梅雨の気配に、シロはすでに嫌気がさしていた。
講義にはとっくに慣れ友人もいる。先輩に知り合いもできたし早くも後輩にも顔見知りができ始めている。
決して悪くない大学生活。むしろ恵まれていると言っていい。
それでもシロには、何か釈然としない思いがあった。
つまらない。
「シロ」
背後からの聞きなれた声に振り向くと、友人の姿があった。
ひょろりと細長い体形。耳に心地良いテノール。顔の造作の良し悪しは同じ男性であるシロにはわからないものの、明るく屈託のない彼は女子生徒からの人気も高いようだった。
「早乙女」
早乙女幸太郎。
平凡と非凡をうまく混ぜ合わせたような彼の名前は、シロにとって最も羨ましいものである(本人曰く、記名に時間がかかるから嫌なのだそうだが)。
戦国武将の幼名を思わせるタケシロという名前よりは、幾分もマシに思えた。
「名前で呼べって。恥ずかしいんだよ」
「なんで。おれのことはむしろ名字で呼んでって」
「それこそなんでよ。良いじゃん、武白。一回聞いたら忘れねーし。あだ名もタケかシロで選べるじゃん。選択肢あってうらやましー」
何度このやり取りをしたか分からない。それでも互いに呼び方を変えないのは、友情の深さを表しているとも言えた。
幸太郎とシロは同じ学部に在籍し、これまでの講義の殆どを同じくしている。
シロには幸太郎ほど仲の良い友人はいなかった。それは幸太郎にとっても同様であった。
勿論それぞれに違う部分はある。
シロがサークルに所属していないことに対し、幸太郎は映画サークルに所属し、学内に留まらず顔が広い。
しかし、どうにも馬が合うのはシロだけなのであった。
「そんで、どこ行くのよ」
「幸太郎こそ」
度々名前で呼べ、と言われるのでたまにはそうすることにしている。
その瞬間に見せる幸太郎の表情は、むかし川田家で飼っていたゴールデンレトリバーを思い出させた。
人好きのする笑顔。喜怒哀楽を惜しみなく表現できることは、幸太郎の最大の長所だ。
「次の講義は休講になりましたからねー、シロと同じで」
――つまり、おれの行くところに付いて来るわけだ。
満面の笑みを湛える友人に、シロも薄く微笑んだ。今更、幸太郎と行動を共にしないことのほうが気持ちが悪い。
中堅私立大学の文学部。県庁所在地の隣市、その郊外。
大人の足で二十分ほど駅から歩けば、山の登山口にたどり着く。
シロたちの通う大学は、言ってしまえば可もなければ不可もない。
卒業後に都心に出る者は少なく、大半が実家暮らしを続けながら地元中小企業へ就職する。親や親せきのコネ入社なんてことも決して珍しくない。
ややしばらく独り身の身軽さを堪能したら、今度は上司や知り合いの持ってきた見合いで結婚する。
三十年ローンで小さいながらもマイホームを買い、ようやく実家を離れる。
子供は二人。自家用車はヴィッツかノート。
平穏平和、全方向に波風立てない人生だ。
シロの両親は正しくその通りにこれまでを歩んできた。
シロの姉も例に漏れず同様だった。上司の見合い話を受けて晴れて結婚、半年前に実家を出た。
聞けば『幸せにやっている』そうだ。
そんな家族の、周囲の平和さが、シロの内にある鬱屈した気分を増長させていた。
しかし、それは幸太郎も例外ではない。
彼の父親は町工場の二代目だ。将来的には幸太郎の兄が経営を継ぎ、本人はその補佐となるのだそうだ。
まあよくある次男坊像だけどさ、兄貴一人じゃ心配だし、就活しなくていいし、俺も工場はきらいじゃないし。
そう言って彼はやはり屈託なく、ほんの少し照れ臭そうに笑っていた。
シロには、自分の将来など少しも見えてはいない。
「なあ、そういえばアレどうなった?」
「あれ?どれ」
幸太郎の話には指示語や擬音語がやたらと用いられる。
聞き返すか、或いは正しく推測するかしないと、まったくかみ合わないまま会話が進んでしまうのだ。
「バイトがどうとか言ってたじゃん」
「ああ。次の日曜に来てくれって」
「面接かあ。履歴書書いたん?」
「いやそれが、特に必要ないって言うんだよね」
「まじかよ。え、何そしたら実技試験とかあるわけ?」
「そういうわけでもないみたい。ただ、来てくれって」
「そんだけ?」
「そんだけ」
「まじかよー。大丈夫かそれ」
「うーん、まあ、マズそうだったら逃げるよ」
「まじで。お前に逃げるとかできんのかよ」
幸太郎の口の悪さは玉に瑕だ。
反対にシロはおっとりとした姉の影響が強く、いわゆる”今時の若者の言葉使い”というものをよく知らない。
昔、女みたいな喋り方だと同級生にからかわれたほどだ。
「とって食われはしないでしょ、たぶん」
「たぶんて」
シロが冗談めかして笑うと、幸太郎も釣られて吹き出す。
その笑顔がシロの内の鬱屈した気分、仄暗い塊を、少しだけ解いてくれる気がした。