第四章・ニーチェの霍乱(7)
六月九日、早乙女家の告別式は滞りなく終了した。
地元で親しまれていた企業の創業者一家の葬儀には、やはりと言うべきか、多くの弔問客と弔電が集まった。
「骨を拾ってやってくれないかな」
穏やかだが悲し気に、伏し目がちにそう頭を下げた優太の申し出を、シロは丁重に断った。
幸太郎は若く健康だった。これまで何度か親戚の骨揚げをしたが皆高齢であったり病に伏していたりしたから、箸で持ち上げたその骨は小さくそして脆かった。
しかし幸太郎の骨はそうではないだろう。固く重たい、生前の様子をありありと思い起こさせるであろう幸太郎の骨。それを箸で拾う勇気など、シロには無かった。
雅楽的なクラクションが鳴らされる。四人の遺体は梅雨の雨とともに、荼毘に付されるための場へと送られた。
葬儀場の職員が沈痛な面持ちで解散の挨拶を述べ、会葬者は一人また一人と散っていく。
彼らのうちの殆どは、今後今までと何ら変わりない生活を送るのだろう。人の死とはそういうものだ。最後の別れを済ませ、己の納得いくように悲しめばそれで一段落。身内でなければまああっさりとしたものである。現に、昼食はどうするかなどという声も聞こえてくるのだ。
皆、今日も明日も生きねばならない。それが現実だ。そしてそれはシロも例外ではない。
彼は葬儀場の入り口に突っ立ったまま、慣れないスマホアプリで市立図書館へ向かうバスの時刻を調べていた。どうやら近くのバス停にあと一〇分ほどで到着するらしい。昼食をとる時間は無さそうだ。
深緑色の、父から借りた傘を開いてバス停へと向かう。仮にも親友の葬儀である。コンビニの安っぽいビニール傘で参列するのは気が引けた。
――さほどお腹もすいていないし。
昨夜から殆ど何も口にしていなかったが、空腹感は無かった。
図書館で用事を済ませたら、自宅で何か胃に優しいものでも食べればいい。ぼんやりと考えながら葬儀場の玄関フードを出た。涙雨が厚い傘布を叩き、心地良い音を立てる。
シロもこの先を生きねばならないのだ。幸太郎の分も、彼と共に。
* * *
市立図書館で目当ての内容の本を見つけ出すことは、容易ではなかった。片田舎の大衆の為の図書館である。専門書籍の類は少ない。
――これか。
一時間ほど館内をうろついてようやく見つけた目的の本は、シロが予想したコーナーとは全く別のところにあった。
『家庭の医学・福祉』。そこには病と闘う患者と、その家族に向けた書籍が並んでいる。
てっきり医学の専門コーナーにあるとばかり思っていたシロには、その分類の仕方は不満だった。目的の本の内容は、凡庸さを感じさせる語感のそのコーナーにはひどく不釣り合いに思えたからだ。
パラパラと内容を確認してから、カウンターで貸し出し手続きを取った。
全身黒ずくめ、喪服姿のシロを司書らは不審そうに眺める。日曜の真昼間にその恰好で館内を闊歩するシロは、すれ違う他の利用者たちからも衆目を集めていた。
――本を読むのにも借りるのにも、服装は関係ないだろう。
とは言え多くの人にとっては和みの日曜、和みの図書館である。線香とユリの花の香りを全身に纏った喪服の青年は、やはり場違いと言わざるを得ないのだった。
* * *
自宅では両親と姉、義兄までもが総出でシロの帰りを待っていた。予定よりも大幅に遅れて帰宅した本人を見て、皆一様に心配と安堵の入り混じった顔をしている。
親友の死を目の当たりにし、近所の川に身投げでもするかもしれないと考えていたのだろう。姉は一目散にシロを抱きしめて泣きじゃくったし、父は溜め息のように
「帰ったか」
と呟いた。義兄もそれに釣られるようにして息をついた。
しかしシロの精神はそこまで脆弱ではない。やるべき事も知るべき事も山積している。寧ろ脳にも心にも、自らの死を考えられるほどの余裕は無かった。
「お昼は? 何か食べたの?」
そう問いかける母もまた、涙声であった。見れば時間は午後二時を過ぎている。
「何か作ろうか?」
「うどんか何かある?」
シロの返答に母は表情明るく頷き、いそいそと台所へ向かった。我が子が食べる意欲、即ち生きる意欲を失くしていないことが、彼女にとっては今現在何より喜ばしい事なのだ。
――家族だ。
そこにあるのは紛れもなく家族だった。互いを無償で愛し存在することだけを重んじる、家族の形。つい一週間前までは、彼の家もそうだったのだろう。黒い噂の絶えなかったあの教授でさえも。
シロは荼毘に付された彼らを想い、その災いが我が身に起こらなかったことを神仏に感謝した。そして同時に、そう考える自分自身を嫌悪してもいた。
家の中には雨上がりの柔らかな日差しが差し込んでいる。