第四章・ニーチェの霍乱(6)
六日木曜日の夜、幸太郎の兄・優太から一年ぶりの連絡が入った。
『八日に、家族全員分のお通夜をすることに決まったから、その連絡をと思って。検死もしなくちゃならなかったから遅くなったんだけど、最期に顔を見せてやってくれないかな。……幸太郎の顔は、見られないんだけど』
死因が焼死である時、大抵の場合故人の顔を見ることはできない。遺体の損傷が通常に比べてあまりに著しいからだ。故に、棺にも検死から戻ってきたままの状態、つまり納体袋に入れられた状態で収められる。
ましてや今回の火事は家屋が一軒丸ごと焼け、一部が倒壊したほどの炎の勢いだ。
スプリンクラーはきちんと作動したものの、天井もろとも勢いに呑まれ、与えられた役目を果たすことは出来なかった。代わりに焼け石に水という諺を、身を挺して証明してみせたのだ。
その炎による人体への影響は想像を絶する。
通夜が終わってからも未だぼんやりと祭壇を見つめるシロの横へ、優太が静かに腰を下ろした。
通夜振舞いがようやく一段落した午前零時少し前。日付は九日になろうとしていた。
親族以外の会葬者では、シロだけが唯一線香番として残っている。一般的な事ではないはずだが、優太はそれを快く了承してくれた。
「シロくん、何か食べた?」
「いえ。あんまりお腹空かなくて」
「少しでもいいから何か食べてね。コウが心配する。って言っても、もう大したものも残ってないけど」
通夜振舞いは通夜の儀を行った大きなホールでそのまま行われた。棺が四つもあるのだ。通常のように、では皆さんこれより先は故人を偲びながら別室で、とはいかなかったのである。
長テーブルに盛られた料理は、寿司や一口蕎麦、唐揚げなんかの目ぼしいものから無くなっていった。
優太はその名の通りに、誰にでも優しく穏やかな人間だった。
火事の起きたその日は、たまたま夜遅くまでS区で友人と酒を飲んでいたらしい。連絡を受けて駆け付けたころには、既に彼の家は丸ごと炎に包まれていたという。
「どうしてウチだったんだろう」
「どうしてでしょうね」
「悪い事なんてしてないと思うんだけどね」
「ええ」
「でも、知らないところで恨みを買ってたのかな。わざわざ全員を刺して火を点けるなんて、尋常じゃないよね。ウチの家族はそんなに恨まれるような人間だったのかな」
穏やかな、独り言のような優太の声は、発せられるごとに涙の影を濃くしていった。
「優太さん、今なんて」
「え?」
瞳いっぱいに涙を溜めたまま、優太は顔を上げる。
サイズの合わない、借り物らしき喪服。その左裾に付けられた喪主飾りに、零れ落ちた水滴がパタパタと染みを作った。
「刺されていたって」
「ああ……。警察がね、そう言っていたよ。検死の後。それで、何か恨みを買っていたりしてないかって。今思えば失礼な話だよね」
頬に流れた涙を拭い、優太は苦虫を嚙み潰したような顔で話し続けた。幸太郎とほぼ同時期に知り合った彼のそんな表情を、シロはこれまで一度たりとも見たことが無い。
他言しないでくれって言われたんだけどね。そう言葉を挟みつつも話すことをやめないのは、彼の中に少なからず方々への悔しさが渦巻いているからであろう。その心中は推し量って余りある。
「みんな右の脇腹だったって。ほら、渦戸先生の時もそうだったでしょう。だから関連性が無いか調べてるみたいなんだけど」
「今回も、包丁だったってことですか」
「いいや。何か特殊な刃物らしいんだ」
「その……幸太郎からは、渦戸教授はお腹を裂かれたらしいって……すみません。ずけずけと」
「いや良いんだ。みんな気を使ってあまり話しかけてくれないからね。俺は元々おしゃべりだし。ていうか、ウチは全員そうだな」
そう笑った彼の目に、再びじわりと涙が浮かんだ。
「シロくんが相変わらずでむしろホッとしたよ。気になることはすぐに解消したがる」
「すみません。良くない癖だと分かってはいるんですけど」
「仕方ないよ、そういう性分なんだ。持って生まれたものなんだよ。コウも、シロくんのそういうところ、心配してたけど気に入ってもいたみたいだし」
ふ、と祭壇に目を向けた優太につられて、シロも何分かぶりに幸太郎の笑顔を見た。
大学での出来事を自宅でもよく話していたのだろう。大きな身振り手振りで家族へ話して聞かせるその様子を想像する事は、何ら難い事ではない。
「ウチの家族は刺されただけだったみたい。だけって言うのもおかしいけど。ただ出血がかなりひどかったらしくて、火が回る前にはみんな亡くなってたようだって。煙を吸った痕跡はなかったって、そう言われたよ」
――生きたまま燃えていくよりはずっといい。痛かっただろうが、それでも。それでも何倍もマシだ。
それは決して口には出せない安堵だった。
つい先日まで自宅で慎ましく穏やかに暮らしていた家族。その遺影を見つめてボロボロと静かに涙を流す優太に、シロは声をかけることも、背中をさすることも出来ない。
今何を言おうが、何をしようが、彼の心を癒すことなど到底叶わないのだ。