第四章・ニーチェの霍乱(5)
シロが幸太郎の死を知ったのは、六月三日の昼頃だった。
その日はレポートの修正に追われていて朝食を摂る暇も、ニュースを観る暇もなく自宅を出た。
午前中一度も幸太郎を見かけなかったが、彼は特段成績にこだわらない。出席日数が足りているから、その日はサボタージュと決め込んだのだろうと踏んでいた。
その時のシロにとっては彼の成績云々よりも、時間に厳しいお爺ちゃん先生の講義に無事間に合ったことと、あと二ヶ月足らずで完成させなければならないレポートのほうが重要だった。
そして昼休み、母親から彼の死を告げる連絡が入ったのだ。
『シロ? 今お昼休みよね』
いやに神妙な母の声色に、ただならぬ事態であることは想像に易かった。
『もう学校で誰かから聞いたかしら。母さんは今優太くんから電話をもらったんだけど。早乙女さん家、火事になったって』
「え?」
『えっ? 誰からも聞いてないの?』
早朝からレポートの修正に追われていたほどだ。シロはその日、講義の合間は常にイヤホンをして資料やノートパソコンに向かっていた。
周囲の声に興味を抱く余裕は無かったし、意識的にも無意識的にも”音”を遮断していたのだ。
親友を見かけない理由が、よもや自宅の火事だなどと、誰が想像するだろうか。
「それで、どうなったの? 幸太郎は? 家族も無事なの?」
『シロ、落ち着いてね。お家は全焼して……』
母はそこでゆっくりと深呼吸したようだった。
その間、シロは息の詰まるような感覚だった。呼吸が浅くなる。
――まさか。
『焼け落ちたお家の中から、優太くん以外のご家族のご遺体が見つかったそうよ』
――まさか。幸太郎が死んだ?
シロを案じて母はわざと遠回しな言い方をしていたが、つまるところは幸太郎が死亡したということだ。
母が電話の向こうから何か語り掛けているが、シロの耳にはまるで聞こえて来ない。
首から上の耳や目、脳に至るまで分厚い膜に覆われたような感覚だった。ただドクドクと脈打つ自分の鼓動だけが聞こえていた。
後に聞くところによれば、同級生たちは殆どがその事実を知っていたのであった。知っていたからこそ、当然にシロも関知しているものと思っていた。
慰めの言葉を掛けなかったのは、彼がその日、常に鬼気迫る表情でいたからである。同級生たちはシロが滅多に見せない険しい表情でノートパソコンに向かっている理由を、幸太郎の死から目を背けたいがためだと思い込んでいたのだ。
同級生たちの気遣いが、却って裏目に出てしまった。
それからの数日間を、シロはよく覚えていない。
ただ今までと同じように自宅を出て大学へ向かい、講義を受けた。
笠原アンジュにはその週のバイトを休ませてほしいと連絡を入れた。詳しい事情は話さなかった。
講義以外の時間は殆ど全てをレポート作成に費やした。お陰で完成も間近、あとは精査するのみだ。
これまでと明らかに違っていたのは、家族を含めた周囲のシロへの対応。そして学内のどこを見ても幸太郎の姿が無い事であった。二人一組の警察官たちでさえ何度もその姿を見かけたというのに、幸太郎だけを、シロは終ぞ見つけられなかった。