第四章・ニーチェの霍乱(3)
口火を切ったのはシロであった。
アンジュが業を煮やして自ら話し出すか、感情に任せて何らかの言動をとるのを待つかする選択肢もあった。
しかし、火曜日のアンジュの様子ならいざ知らず、今日の利発であるはずの彼女がそのような愚行に走るとは考えにくかった。
「これもまた、立ち入った話になるんですが」
「ええ。人が改まって『訊きたいことがある』というときは、大抵立ち入った話と相場が決まってますから」
盛大なイヤミだ。
さすがの笠原アンジュも、仏の顔が潤沢にあるわけではないらしい。
言葉に憚りが無くなってきている。
「では、お言葉に甘えて」
――不躾、無遠慮。知ったことか。
ここまで己の本分を超えて欲求を最優先させてきたのだ。
知れるところまで、知ってやる。
「この建物の、不動産登記簿を取りました」
「なぜです?」
「え?」
「なぜ登記簿なんかを? この家を買われるおつもりですか」
アンジュは口元を軽く覆い、クスクスと笑った。
細い顎は引かれたまま、大きな瞳はちらりと左下を見る。
少女はさも楽し気に笑って見せているが、シロに対する警戒は先刻から何ら変わっていない。
あくまで、穏やかに。和やかに。
懐柔が目的では無い。会話の主導権とこの部屋の空気を、さらにシロの側へと引き寄せるためだ。
「いやまさか。こんなお屋敷を買おうだなんて、分不相応もいいところです」
「でも、何かお知りになりたい事があったから、わざわざ登記簿なんて取られたんでしょう?」
ヘビの眼だ。
きゅうっと萎んだ瞳孔は、お前は私の意に反する、いざとなれば丸呑みにしてやるぞ、と示威しているようだった。
「ええ。その友人が僕の話を聞いて不思議に思ったそうなんです。こんな所に家なんか建ってただろうかって」
「まあ、ここまで坂を上って来られる方も珍しいでしょうね。その人が知らないのも当然かと」
ほんの少しずつではあるが、アンジュの言葉尻が粗暴になってきている。
心なしか遣り取りのスピードにも性急さを感じられた。
「それで、友人は父親とお祖父さん、高校時代に登山部だった同窓生に訊いてみたんです。この辺りで、笠原という大きな家を見たことがあるかと」
「それで」
「皆、家を見たことがある、と答えたそうです」
「そうでしょうね。私が現に住んでいますし」
どこかほっとしたように、勝ち誇ったようにアンジュの表情が緩んだ。
シロは敢えてゆっくりと呼吸をする。
そうすることで、会話に”間”ができる。
その間は相手を落ち着かせ、且つ会話に意識を集中させる。
つまり次に出てくるであろう言葉に、自ずと緊張感を覚えるのである。
「ですが」
一言。そして一呼吸。
「笠原という名字は、誰も、一度も、聞いたことが無いそうです。表札を見たことすら、無いと」
ゆっくりと、言い含めるように。幼子に言い聞かせるように。
揺さぶりを掛けたい場面で局所的に使えば、この話し方は相手の心に大きな作用をもたらす。
笠原アンジュに対しても、この話法はきちんと作用したようだった。
勝ち誇ったように緩んだ顔は、そのまま固まっている。
瞬きの回数が少ない割に、眼球はどこを見るともなく細かく動き、忙しない。
「……」
「そして余計に気になった友人はいっその事、徹底的にこの家について調べてみようと思いました。所有者が誰で、いつからここに在るのか。少なくともそれは調べがつくだろうと、登記簿を取った」
「おいそれと出来ることではありませんね」
「はい。彼の行動力は僕も見習いたいところです」
にっこりと、余裕がある風に装う。
実際には背中や肩が、バキバキと音が鳴りそうな程に緊張している。
呼吸を正常に保つので精一杯だった。
――おれよりも笠原アンジュが行動心理学に長けていたら、負けだ。
大学の図書館でたまたま目についた本。
行動心理学や深層心理について書かれたそれらを、シロは読み漁った。
専攻外のその学問は、他者の話を輪の外から聞いている方が性に合うシロにとって、ひどく興味深いものだったのだ。
言葉の裏で、その人は誰に何を思っているのか。
その人の言動の癖さえ分かってしまえば、後は複数ある心理パターンに当てはめて、絞り込んでいけばいい。
それらの本から得た知識は自然と身につき、今まさに活かされている。
アンジュの表情筋は徐々に解かれ、口元だけで弧を描いていた。
眼だけは未だヘビのそれを彷彿とさせ、じっと彼を見つめている。
しかし、先ほどまでもぞもぞと忙しなかった両手が、今はすっかり落ち着いている。
膝の上で何かを握っているようだ。
「すみません、お茶のお代わりを頂けますか」
言うが早いか、シロはグラスに残った麦茶を飲み干し、いち早く冷蔵庫へと向かった。
喉がカラカラに乾いていたのはもちろんだったが、このタイミングでの申し出は敢えてのものだ。
片手に空のグラスを持ち、冷蔵庫のノブに手をかける。
「冷蔵庫、僕が開けて構いませんか」
今度はシロが有無を言わせぬ声を発する番だった。
キッチンスペースにおかれた冷蔵庫は、アンジュの真後ろに位置している。
この状況で、車いすの彼女がノーと言うとは思えなかった。
「ええ、はい。どうぞ」
シロの唐突な言動に多少驚いた様子で、アンジュはぎこちなく頷いた。
首を右へ傾けるのはやはり彼女の癖らしい。
事に乗じて、シロは彼女の両手を盗み見る。
まるで神にでも祈るかの如く、アンジュの白く小さな両手はその膝の上で、固く握り合わされていた。
両腕に力が入り、肩の位置が上がっている。相対的に猫背気味になり、首をすくめている体勢だ。
――何か困っているのか、それとも隠したい何かがあるのか。
麦茶を注いで、椅子へ戻る。
冷蔵庫には麦茶のポットのほかに、密閉容器に入ったコーヒー豆と紅茶葉。チョコレート、常温保存可能なレトルト食品やカップ麺、食パン。牛乳、オレンジジュース、ゼリーにヨーグルト。
どれも一人で消費するには膨大な量だ。
その嗜好品とも言えるようなものばかりが、冷蔵庫にはぎっしりと詰め込まれていた。
IHコンロをはじめ、キッチンには鍋やフライパンなど一通りの調理器具は揃えられている。
だが、それらの器具はあまり使いこまれた様子ではなかった。
「すみません、話を続けましょうか」
シロは一言詫びて、テーブルを見つめているアンジュの様子を窺う。
膝の上で両手を握りしめていた彼女は数秒後、ふっと軽く息を吐いて顔を上げた。
そこには穏やかな、見慣れた微笑みを浮かべた彼女がいた。
ヘビはようやく身を潜めたのだ。
「それで、この笠原勇さんというのは?」
「知りません」
どこか、吹っ切れたかのように彼女はきっぱりと言った。
「えっ?」
「この登記簿は、私がここに移り住む際に確認しています」
「……はい」
「でも、笠原勇という方がどのような人なのか、私は知りません」
「……会ったことも、誰かから話を聞いたことも無いと?」
「ええ」
「ええと、それでは勇氏はアンジュさんの、すごく遠縁にあたる方ということですか」
「いいえ」
――一体、何だというのだ。
苛立ちを隠しきれずに、シロは荒々しく溜め息を吐いた。
また、少女のペースに呑まれている。まるで手のひらでクルクルと踊らされているようだ。
「笠原勇という方について、私は全く何も知りません。血の繋がりも一切ありません。その登記簿を見て、名前も初めて知りました」
「それでは」
「私の名字は笠原ではありません」
シロの言葉に被せるように、アンジュは笑みを深めて言った。
――まだ、まだだ。
本来ならば覗くことも、ましてや踏み込むことなど絶対に許されないであろう、笠原アンジュと名乗る少女の心。
これはまだ、その入り口に過ぎないのだ。