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アイ・マイ・シー  作者: 津久美 とら
第四章・ニーチェの霍乱
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第四章・ニーチェの霍乱(2)

 決して広くない部屋。

 先日充満していた香水の香りはもう感じられない。

 その代わりか、限界まで糸を張りつめたような、ピリピリとした空気に室内全てが支配されていた。

 勿論その対象はシロも例外ではない。

 ほんの少しの物音でも、部屋がまるごと崩壊してしまいそうだった。


――隠忍(いんにん)しきれるだろうか。


 ヘビに睨まれた蛙。シロは今、蛙だ。

 口元だけで微笑むヘビは、シロを見据えたまま微動だにしない。

 睨み睨まれ、無言の攻防戦に終止符を打ったのはヘビの側であった。

 笠原アンジュがその美しく整った唇を開く。


「工場というと、早乙女産業ですか」


 中性的で落ち着いた、良く通る声。

 正答以外の返答は認めないとでもでも言いたげな、有無を言わさぬ声。

 時おり左下瞼がひくりと動いたが、少女の様子が大きく変化することは無かった。

 しかし、華奢な身体から発せられる空気に、シロはまるで憤怒のようなにおいを感じていた。


「この町で長く続いている工場だそうですね」


――やはり早計だったか……?


 しかし質問の順番をどう組み換えようが、幸太郎は必ず絡んできてしまう。彼の存在を隠して話せば、必ず矛盾が生じてくる。

 聡明な彼女は、絶対にその矛盾を見逃したりはしないだろう。


『口から出らさった言葉を消すことは、できないのよ』

 シロの亡くなった祖父の口癖であったが、この教えは正道であった。


「それで。質問は幾つかあると仰っていましたけど」


 アンジュはゆったりと、麦茶のグラスを口へ運ぶ。

 その様子も口調も一見穏やかであるが、シロには先ほどの不穏さが全く消散したようには思えない。

 麦茶を嚥下した彼女は、斜め前にあったコースターを自身の前へずらし、その上へグラスを置いた。

 そしてじっと、シロを見つめる。口元だけは弧を描いたままだ。

 そのすっきりとした顎がくっと引かれ、見つめるというよりも、微笑みながら睨んでいるという表現が近い。

 吸い込まれる。いや、呑みこまれる。その時はきっと、頭から丸呑みであろう。


「そうですね……」


 少女の(うかが)い知れぬ迫力に気圧されて押し黙っている今のシロは、傍目にはひどく貧相に見えた。

 アンジュについて更に言及するべきか、笠原邸と笠原勇氏について問うべきか、渦戸事件について問うべきか。

 もしくは、今はもう何も問わずにおくべきか。どれだけ悩んだところで、そう簡単に結論には辿り着かない。

 しかし今沈黙を作ることは、決してマイナスには作用しないはずだとも思われた。

 先ほどから、アンジュは何度か微細行動と言える仕草を見せていたのだ。


 彼女は一瞬ではあるが何度か左下に視線を落とした。今日までのシロとの会話中に、その方向へ視線を落としたことは無かったのにも関わらず。


 人は記憶した何かを思い出すときには左上、何かを考えるときには左下を見る傾向があると言われる。

 それは創造性など直感的な働きを司るのが右脳、言語分析など理論的な働きを司るのが左脳と役割が違うためだ。

 つまり彼女は、シロの質問に対し事実を即答することを避け、自身にとって ”嘘ではない最善の回答” を模索した。

 視線の方向は利き手によっては逆になる場合もあるそうだが、笠原アンジュが右利きであることは確認済みである。使われていたのは常に右手であった。

 麦茶をグラスに注ぐ時、そのグラスをテーブルに置く時、麦茶を飲む時。

 そしていつも彼女の斜め前に置かれていたグラスは、先刻コースターごと自身の前へと移された。

 相手とのあいだに障害、壁を作ることによって、会話に積極的に応じたくないだとか最低限のやり取りで済ませたいなどという心境の表れと考えられる。


 笠原アンジュが無意識に示す心意はほかにも挙げられる。

 これまで彼女の両手は狭いテーブルの上で組まれており、上半身は比較的前のめりで、シロとの身体的距離は近いと言えた。

 しかし今その両手は机の下へ隠されている。それに伴って上体が後ろへ反れてシロとのあいだに距離が出来た。

 これもまた会話に対し消極的であることの表れだ。


 膝の上の両手。

 安心感を得るために自身の身体に触れるその動きは、いわゆる ”なだめ行動” であろう。

 また上半身が反れたことで、引かれた顎と睨むような瞳が強調されている。

 本来気持ちに余裕があればそこで姿勢を正すものだが、今のアンジュにはその精神的余裕は無いらしい。

 むしろ、威嚇や攻撃の意思があると捉える事さえ可能だ。


 実に、ノンバーバル行動とは恐ろしいものである。

 笠原アンジュは常日頃、非言語ノンバーバルコミュニケーションに関しては丹念に勉強し、気を使っていたはずだ。

 しかしながら無意識化の行動、ノンバーバル行動まで統制出来る者は非常に稀である。

 彼女もまた例に漏れず、ノンバーバル行動までは統制出来ていない。

 ひくりと僅かに動いた下瞼もそうだ。まさにその瞬間、嫌なところを突かれた、不快な会話である、と身体が勝手に喋ったのだ。


 身体は時として、言葉よりも殊更に雄弁だ。

 今こうしてシロが思考を巡らせている長い時間も、彼女にとってはひどい心理的負担になっていることが伝ってくる。

 膝上の彼女の手(おそらくは指先だろう)の忙しない様子が、前腕と上腕の僅かな動きから見てとれた。

 焦り、不安、苛立ち。


 笠原アンジュが支配していた室内の空気は、徐々にシロにとって優位な方向へと傾き始めていた。 

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