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アイ・マイ・シー  作者: 津久美 とら
第四章・ニーチェの霍乱
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第四章・ニーチェの霍乱(1)

 結局その日、アンジュは渦戸事件についてそれ以上詳しく話すことは無く、シロが動揺を見せまいと必死に自制する姿を上目気味に見つめ、妖艶に笑っているだけであった。


「そのうち分かるわ。テレビより、お友達より、警察より、誰より早くシロさんが犯人を知ることになる。約束するわ。絶対にアンジュが一番に教えてあげる!」


 彼女はそう無理矢理に話を終わらせて、今度はシロの大学生活について何度も質問を浴びせた。シロが答えると、またすぐに別の問いが飛んでくる。


「ねえ、シロさんって彼女はいるの?」

「いないよ」

「好きな人は?」

「今のところ、特には」

「じゃあ、私のこと候補に入れてよ」


 上目遣いに首を左に傾けて、彼女は言った。背中の中ほどまである髪がさらりと揺れる。

 その日のアンジュは、シロがこれまで見てきたどの女性よりも官能的であった。


「気持ちは嬉しいけど、アンジュさんは僕の雇用主だし、何よりまだ十五歳でしょう。僕が捕まってしまう」


 誤魔化し笑いは上手くできたと思う。しかし、発した言葉は自分でも驚くほどに月並みだった。


「雇用主かあ。そうだったかな。……分かったわ。つまんないの」


 不貞腐れた表情で、彼女はテーブルの向かい側へと戻っていった。その動きは先日よりもどことなくぎこちない様に感じられる。

 向こう側へと着いたアンジュは、今日最初に見せていた上機嫌そうな表情へすっかりと戻っている。


――人間、ここまでコロコロと表情や気分が変わるものだろうか。


 もしもそれを意識的に行なっているのだとしたら、彼女の自己制御能力は相当なものだ。


「シロさん、絶対また来て! 私のこと忘れないでね!」


 満面の笑顔でそう言われ、シロははっと我に返った。

 腕時計を見ると十七時半を十五分も過ぎている。笠原邸には十五時半から二時間滞在する契約なのだ。


「すみません、すっかり時間が過ぎてましたね」

「もう! 敬語!」


 この二時間以上、シロは様々な感情の揺れに耐えながら、「敬語をやめてほしい」という要望に従っていた。

 何とかその要望を叶え続けてきたというのに、時間を過ぎてしまった焦りと、ようやくこの空間から解放される安堵感とが一気に押し寄せ、勝ってしまった。

 アンジュは頬を膨らませて睨むようにシロを見遣っているものの、その様子はどこか楽しげだった。


「ごめん、つい。今日はありがとう、すごく刺激的だった。また次の土曜日に」


 嘘ではない。

 一生のうち、たった一日でこんなにも多様な刺激を受ける日など、そうそう無いだろう。

 ドアを開けて振り返ると、アンジュはニコニコと嬉し気に手を振っていた。

 幸太郎が死亡する五日前の、火曜日のことだ。


 笠原アンジュという少女が一体何者であるのか。それは水曜日以降、シロたちにとって最大の疑問であった。

 取り分けシロは、先日まであんなにも知りたいと願っていた渦戸事件の詳細への興味など、ほとんど無くなっていた。

 笠原アンジュから犯人と事件の詳細についてさえ聞き出すことが出来れば、全ての疑問が解消される。


 シロと幸太郎は先行して、笠原邸と笠原勇氏について追及することとした。人間を問い質すよりは容易に思えたのだ。

 勇氏の足跡を求めてインターネットはもとより、大学の歴史資料室や地元図書館、地域郷土史料館に至るまで、ありとあらゆる場所を手分けして探訪(たんぼう)した。

 しかし、氏についての収穫は一つも得られぬまま一日、また一日と時間は過ぎていった。


 明治時代は時の天皇祐宮睦仁(さちのみやむつひと)の崩御によって終わりを迎えている。

 天皇崩御までの間には、廃藩置県や明治十四年の政変、内閣制度の施行など大きな政治的変動があった。加えて、外国諸国との条約締結、西南戦争、日清戦争に日露戦争と対内的にも対外的にも、まさに激動の時代であった。


 その一方で「散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」とも言われ、近代化を奨励する政府により、徐々に西洋文化が大衆の生活へと取り入れられていった。

 服装、髪型、食生活、そして建造物。

 笠原邸は丁度それらの文化が浸透したころに建てられたものだ。

 明治時代の歴史資料を漁るうちに、外観のよく似たものが幾つかあった。有名どころでは東京にある旧岩崎邸、それと日本銀行本店がそれにあたる。

 笠原邸はそれらほどでは無いにしろ、当時のこの辺りではかなり豪奢(ごうしゃ)に見えたことは想像に難くない。建築に要した金額も莫大であったことだろう。


――それほどの金額を用意できる人物であるのに、どこにも触れられていない。


 調べれば調べるほど、笠原邸とその所有者への謎は深まっていった。


 金曜の夜。

 明日は土曜日、アルバイトの日だ。そして六月へ突入する日。本格的に梅雨入りの時季となる。

 シロは梅雨によってこれ以上気分が鬱々としないうちに、せめて笠原邸の謎だけでも解明しておきたかった。

 ほんの少しの手がかりでも良いのだ。


――もう、致し方ない。


 決して乗り気ではなかったし、全くもって不本意と言っていい。しかしほとんど三日を駆使しても、進展はおろか手詰まりとなってしまった今、方法は一つしか残されていないと思われた。

 明日、笠原アンジュへ問うてみること。

 シロは十五歳の少女に一縷の望みをかけることにした。


   * * *


 アンジュと顔を合わせるのはこれで三度目となる。

 薄曇りの土曜の午後、笠原邸のインターホンの前でシロは様々に思考を巡らせる。

 彼女に訊ねたいことは火曜日よりも格段に増えていた。ゆっくりとした呼吸を意識しながら、頭の中を整理していく。


〇初めて会った日曜、その夜について。自力で歩いていた件だ。

〇先日の火曜日の様子について。これは今日の彼女の様子を見てからでも良い。あれが彼女の本質として受け入れる事とし、言及はしない。

〇笠原邸について。もしも彼女が何か知っているのなら、是が非でも教えてほしい。

〇渦戸事件について。誰よりも早くシロに犯人を教えると、彼女は言った。

 ただし、順番は問わないこととする。会話には流れというものがある。あくまで、臨機応変に。


 アンジュは柔らかい微笑みを湛えていた。

 火曜日の様子とはまるで違う。シロが初めて会ったときの”大人びた少女”であった。

 胸元に三つの釦が付いた紺色のワンピース。ヒールの無い黒い靴を履いている。化粧はされていなかった。


「こんにちは。お待ちしてました。どうぞ」


 アンジュはゆったりとした口調でシロに椅子を勧めた。


――今度こそ何が何だか分からなくなってきたな。


 今日の穏やかなアンジュの様子を見て、シロはもう一つ調べるべき事柄があったことを思い出した。笠原邸に思考を占拠され、すっかり忘れてしまっていたのだ。

 しかし、悔やんだところで今はどうしようもない。とにかく多少なりとも疑問を解決することが最優先だ。


「今日はなんだか、先日よりも緊張されてますね」

「えっ、いや……」


 彼女は敬語で接してくる。自分はどう接するのが正解なのだろうか。


「ああ、この間、敬語をやめてほしいと私が言ったんですね。ごめんなさい。シロさんの楽なようにお話ししてください」


 アンジュは困った顔で笑い、初対面時と同じように麦茶を差し出した。

 車いすをスムーズに操作し、シロの向かい側へと戻っていく。


「ええと、今日は幾つか訊きたいことがあって」

「なんでしょう」


 彼女の表情は崩れない。

 呼吸を整えて、シロはアンジュのその大きな瞳を見据えた。アンジュもまた、シロの目をしっかりと見つめている。


「この間の日曜日。僕とアンジュさんが初めてお会いした日の、夜のことなんですが」

「はい」

「アンジュさん、S区に行かれましたか?」


 唐突すぎただろうか。

 いや、欺瞞(ぎまん)の無い返答を求めるのなら、こちらも相応に直球でいくべきではないか。

 本来なら、笠原邸と笠原勇氏についてを一番に訊きたかったはずだ。しかし、こうして初対面時と同じアンジュの姿を実際に目にしてしまった以上、シロの内にある疑問解消への欲求は止められない。


「どうでしょう。行ったかもしれませんね」


 アンジュの言動に動揺は見られない。


「友人が、あなたらしき女性を見たと言っていたんです。先日お話しした工場の息子なんですが」

「ええ、その方については聞きました」

「その友人は、あなたが補助もなく自力で立って歩いていたと言っていました」

「そうですか」


 やはりアンジュの表情は崩れず、仕草にも変化はない。

 しかし一瞬。ほんの一瞬だけ、彼女の視線が左下を向いた。幸いにも、シロはその眼球の動きを見逃さなかった。

 シロはここぞとばかりに矢継ぎ早に言葉を投げかける。


「それと、火曜日に僕がお会いした時のあなたは、今日や日曜日とは様子が全く違っていた。まるで別人のようでした。友人は、その火曜日にもこの家の近くであなたを目撃しています。その時もやはり立って歩いていたそうです。ちなみにその日、あなたは僕の前では終始車いすを使われていました。なぜですか?」

「なぜ、というと?」


 アンジュはテーブルの上で組んでいた両手を膝の上に乗せ、ことんと右に首を傾げた。


「僕にはわかりかねるんです。一体、どちらが本当のアンジュさんなのか。今僕とお話ししているのが本物なのか、それとも火曜日のアンジュさんが本物なのか」

「そうですね……」


 彼女は珍しく押し黙り、今度も視線は左下を向いた。


「敢えてその質問にお答えするならば、どちらも私です。全て、本物の笠原アンジュです」


 笠原アンジュは口元にだけ笑みを湛え、シロの目をまっすぐに見据えた。


――答えになっていない。


 従容(しょうよう)とした彼女に対して、シロの心の内が発せられることは無かった。

 発することなどできなかったのだ。


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