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アイ・マイ・シー  作者: 津久美 とら
第三章・ひとかげ
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第三章・ひとかげ(7)

 幸太郎の話によれば、笠原アンジュは今週の日曜日、つまりシロと初めて顔を合わせたその日にS区歓楽街にいたという。


「そん時は、あー、なんかめっちゃ可愛い子いるなーぐらいにしか思わなかったんだけど、その子、後から来たマスクしたおっさんとラブホ入ってったんだよ。援交かよって思って。まあぶっちゃけそういうのたまに見かけるし、おっさんの顔もわかんねーし、十代っぽかったけど実は二十歳超えてて普通に付き合ってんのかもとか思ってさ。あんま気にしてなかったのね」


 幸太郎は思い表情で声をひそめたまま、再び辺りを見回した。

 まだ注文の品が運ばれてくる様子はない。従業員は忙しなく客の多い店内を行ったり来たりしていた。


――しかしなぜ今頃になってこんな話を?


 シロが笠原アンジュについて話したのは、まさにその日曜の夜だった。

 幸太郎は先輩とカラオケに居ると言いながらも、興味津々にメッセージを送ってきたのだ。


「でもそのあとすぐ渦戸が殺されて、俺もすっかり忘れてたわけ。で、昨日はスマホ開くのも嫌でさ。ぼーっとしてたらシロの話思い出して。もしかして、俺が見た子と合致すんじゃねえのって」


 かなり可愛かったし、頭の片隅に残ってたんだなきっと。

 そう呟いて、幸太郎はウンウンと頷いた。どれだけ真面目に真剣な話をしようと、やはり彼は彼だ。

 その幸太郎らしさを、シロはほんの少し心丈夫に思った。


「それで、この流れなわけね」

「そう。で、まだこれにはだいぶ続きがあって」

「続き?」

「うん。そのアンジュちゃん見掛けたのを思い出した後に、あれあそこの山にそんなでかい家あったかなって思ったんだよ。少なくとも俺は見たことなかったし」


 それはシロも同様だ。

 山歩きをするシロでさえ知らなかった。あの日笠原邸へ赴くことが無ければ、恐らく一生あの家の存在など知らなかっただろう。


「それで親父とじいちゃんに聞いてみたわけ。それと高校の登山部だったやつらにも」


 行動が早い。これも幸太郎らしさ、長所の一つだ。見習うべきところである。


「そしたらさ」

「そしたら?」


 幸太郎は勿体つけるように間を溜めて、深呼吸をする。余程言いにくい事なのだろうか。


「その家に、笠原って人が住んでたことはないって」

「……は?」


 そんなはずはあるまい。

 現に、笠原アンジュは今もそこに暮らしている。


「家自体はあるんだよ。バス停よりもずっと坂を上ったとこだってんで、俺は知らなかった。でも登山部の奴とじいちゃんは、その建物を見たことがあるらしい。ほら、じいちゃんは毎年山菜採りに行くから」


 幸太郎の祖父が春の山菜採りを毎年楽しみにしていることは、シロも知っている。実際に、何度か山で偶然に遇ったこともある。


「でも誰も、笠原って表札を見たこともないし、人が出入りしているところも、そもそも住んでる雰囲気も感じたことないって」


 幸太郎は大きなアウトドアブランドのリュックの中をごそごそと漁りながら話す。

 教科書、ノート、ファイルにレポート資料用の書籍。スマホ用のポータブル充電器に、その上ジャンプの今週号まで出てくる始末だ。今日はもう水曜日である。

 その膨大な荷物の中から、しわくちゃになった二つ折りの用紙を取り出して、彼は再び口を開いた。


「さすがに不気味だと思って、じいちゃんとか他の山菜採りの人たちもどうにからならないかと思ったんだけど、建物の持ち主と連絡がつかなくてどうしようもないんだと」


 昨今よく聞く、空き家問題というものか。

 しかし人は住んでいるのだ。空き家ではないし、連絡が取れないはずはない。家に出入りしているお手伝いさんだっているのだから、いくらでも手立てはあるだろう。

 シロにとって、幸太郎の口から出てくる内容は興味をそそられもしたが、憤懣(ふんまん)たる思いもあった。


――笠原アンジュは確かにそこに居る。室内だって荒れるどころか、丁寧に掃除がなされて生花まで活けられているというのに。


 社会問題化している空き家と、シロの知る笠原邸とは似ても似つかない。

 先ほど幸太郎の鞄から引っ張り出されたしわくちゃの紙がシロの前に置かれた。


「これ。俺も気になってさ、調べてみたんだよ」


 しわしわになった二つ折りのそれを開くと、そこには

<建物の登記事項証明書(全部事項証明書)>

 と題されていた。用紙の一番下には、シロたちの住む地域法務局の印が捺されている。

 笠原邸の建物登記簿であった。


「ここ見て」


 そう幸太郎が指した先には左側に “所有権に関する事項“ 右側に “所有者“ とある。


――所有権保存・明治三十年。所有者・笠原勇。


「俺もこういうのは詳しくないけど、この笠原勇って人。多分この人が現在の所有者だと思う」

「そうなるよね」

「でもな」


 次に幸太郎が指したのは “権利者その他の事項“ の欄だった。

 そこには笠原勇氏の名前と、登記時に住んでいたであろう住所が記載されている。

 更にその上の欄には “原因及びその日付[登記の日付]“ とある。その下には小さく括弧書きで(明治三〇年九月十五日)と書かれていた。

 原因とは、恐らくは登記の理由ということだろう。


――明治三〇年九月十日。


 つまり、勇氏がこの建物を建てて所有権を得たのは明治三〇年の九月十日。登記手続きを行ったのは同年の九月十五日ということになる。


「でも、登記簿には新築ってあるよね。この人が建てた可能性が高い……?」


 開国してからたった三〇年の日本。産まれたばかりの子に、あれだけの屋敷を所有させる親がどれほどいるだろうか。


「そう思うよな。いくらなんでも産まれたばっかの赤ん坊に、あの家をプレゼントする親なんていないだろ。ましてや江戸幕府が終わったばっかりの時代だぜ。だけど、こうして現行の登記簿に残ってる。平米数なんかの細かい部分の記載漏れもない」

「勇氏があの家を明治三〇年に建てて、その後本人、もしくは代理人が現行の登記事項を確認している……?」


 不動産登記に関する法律は、戦後になってから何度かの工程を経て、現行法へと改正されていった。

 明治三〇年当時は、税務署に土地や家屋に関する台帳が置かれていた程度であり、現行の登記簿のように詳細な事柄は記載されていなかったという。


「たぶんな」


 建物を建てた人物は、既にこの世には居ないだろう。

 しかしあの建物は相続も売買もされていない。所有者も笠原勇その人のまま、現行版の登記簿に残っている。

 相続人がいたならば、所有者変更の手続きをしているはずだった。


「誰も笠原なんて知らない、見たことないってのは、こういうことだったんだよ」

「今この町に居る人間は、生きている勇氏を見たことが無い……」

「そう」


 シロはうすら寒いものを感じた。


「お待たせしました!」


 得も言われぬ感覚につぶされそうになっていた二人に、ようやく注文の品が運ばれてきた。

 アイスコーヒーの入ったグラスとストローはシロと幸太郎それぞれの前へ、ガムシロップとコーヒーフレッシュが山になった小さなバスケットは、テーブルの端に、いかにも添え物であるかのように置かれる。

 従業員の女性は注文票を無造作に伝票立てへ丸め入れ、よく訓練された笑顔でごゆっくりどうぞ、と足早に去って行った。

 店内には注文ベルの音がひっきりなしに鳴り響いていた。


「温かいものにすれば良かったなぁ」

「俺もそう思った」


 やたらと明るい女性従業員のおかげで、二人の間に張りつめていた空気は幾分か和らいでいた。

 それでも緊張による汗は店内の冷房に冷やされ、二人のうすら寒さを助長する。


「そう、それで、アンジュちゃんに話が戻るんだけど」

「えっ、うん」


 シロの意識はすっかり笠原邸と笠原勇氏の謎に心血を注ごうとしていた。

 アイスコーヒーで渇きを潤した幸太郎は、もう一度辺りを見回した。今日はやけに警戒心が強い。


「登記簿見て、やっぱり気になって行ってみたんだよ昨日。笠原邸に」

「昨日? わざわざ?」


 昨日といえば、シロが訪問し散々アンジュに振り回されたその日だ。

 しかし、この件について幸太郎は随分とアグレッシブである。やはり彼の積極性と行動力は見習うべきところだ。


「だってこええじゃん。シロが嘘つく理由なんて無いし、その家に住んでるのは笠原アンジュって女の子。その家の所有者は齢百二十超えのおじいちゃん。誰だって気になるって」

「そっか、まあ、そうだよね」


 シロだって例外ではない。今も頭の傍らで、何とかして笠原邸に露見した謎が解けないものかと思考を巡らせているのだ。


「俺が笠原邸に着いた時、日曜にS区で見かけたのと同じ子がいた。緑のブラウスでジーパンみたいな色のスカートで」

「ベージュのヒールで?」

「そう。十五歳には見えなかったな。なんかこう、明らかに色気があった」


 シロの感覚は一般的なものであったのだ。

 何となく安心感を覚えて、シロはふぅと息をついた。


「そこに黒いセダンが来た。迎えだったんだろうな。スモークとかは貼ってなかったから、やくざとかじゃないと思うわ」


 そしてアンジュは車へ乗り込むと、運転手の男性と濃厚なキスを交わしたという。

 シロの視界がゆっくりと揺れる。こと彼女には、目眩を起こされてばかりである。


「やっぱり、しっかり立って歩いてたよ」

「そう」

「なあ、笠原アンジュって何者なんだろうな」


 シロは車いすを使用する彼女しか見たことが無い。

 その彼女が自分の足で補助もなく歩き、男性と腕を組み歓楽街のラブホテルに入っていった。

 更に次の週には男性の車に乗り込み、まるで恋人同士のように親し気な様子であったという。

 そして彼女の住まう屋敷は、既に亡くなっているであろう笠原勇氏が所有している。

 シロの目眩は強くなるばかりだ。


「シロ、気を付けろよ」


 幸太郎はいつになく真剣な表情でそう言った。

 彼のそんな様子を見るのは、後にも先にもこれが最後であった。


 四日後の日曜日、早乙女幸太郎は死亡した。

 死因は何者かが自宅へ放火したことによる、焼死であると断定された。




第三章・ひとかげ  了

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