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アイ・マイ・シー  作者: 津久美 とら
第三章・ひとかげ
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第三章・ひとかげ(5)

 火曜日。

 相変わらず玄関ホールは薄暗く深閑(しんかん)としていて、屋外との寒暑の差は今日もシロのシャツを冷やした。

 先日と見た目には何も変わらない。強いて言えば階段横にある花瓶の花々が、ピンク色と白色に変わっているくらいだ。しかし、今日の笠原邸はどこか様子が違っている。

 シロは違和感の元を探った。


――香水のにおい。


 フローラル系の爽やかさの中に、ムスク特有の甘さ。女性ものの香水の香りだ。誰かがここを行き来したのだ。恐らくは、この香りを纏った女性が。

 お手伝いさんではないだろう。シロとは訪問日に()()があるはずであったし、長時間他人の家に滞在することを生業としている人間が、残り香が漂うほど強い香水を使うとは考えにくい。

 階段室へのドアを開く。ノックが要らないことはもう承知していた。


 この屋敷に出入りする人間は限られているはずだ。週に何度か来るお手伝いさんと、現在はともに暮らしていない両親。では、香りの元は笠原アンジュの母親だろうか。

 オレンジ色のブラケットライトも相変わらず、ぼんやりと薄く地下へ続く階段を浮かび上がらせている。

 一段、また一段と地下へ向かうほどに、その香りは強くなっているように感じられた。

 アンジュが待つであろう行き止まりにあるドアをノックする。


「どうぞ」


 先日よりも随分と明るく、可愛らしい声が返ってきた。今日はかなり上機嫌なようだ。


「失礼します」

「シロさん!」


 部屋の中はこれまで仄かに感じられていた、あの香りで満たされていた。香りの正体は、笠原アンジュその人であった。

 先日の穏やかな微笑みとは違う笑顔。心からシロを待ち侘びていたといった様子だ。


 襟ぐりの開いた緑のブラウスに、ジーンズ素材のスカート。ヒールの高いベージュ色の靴は、シロの思う十五歳の少女とはかけ離れていた。見れば化粧も施されていて、眼前のこの人はアンジュとは全くの別人、自分と同年代の女性なのではないかと思い込みそうになる。

 シロを真正面から見つめていた大きな瞳は、化粧品で縁取られ、上目がちだ。

 今日のアンジュは、ワンピースを纏っていた”大人びた印象の少女”では無かった。


「シロさん、座って」

「ああ、はい、失礼します」


 そのあまりの変貌ぶりに呆気にとられて棒立ちだったシロに、アンジュは至極親し気に椅子を勧めた。

 服装も、声も、表情も、話し方や呼び方まで違う。女というのはこの短期間でこんなにも変わるものなのか。いや、先日の顔こそがもしかすれば初対面の相手への余所行きの顔であり、彼女の本質はこれであるのかもしれない。


「私、今日シロさんが来るのすごく楽しみにしてたの!」

「そうですか、光栄です」

「ほら、この間の私って、すごく堅苦しいっていうか、可愛げが無かったでしょ? だからあんまり好かれなかったかもしれないと思って、ちょっと心配だったの。でもまた来てくれて良かった! 本当にうれしいわ!」


 アンジュは胸の前で手を叩き、上半身まで目いっぱい使って、跳ねるように笑う。「ニコニコ」という擬音にぴったりと当てはまる無邪気な笑顔には、彼女のポジティブな感情がこれでもかと詰め込まれているようだった。


「それでね、シロさんにちょっとしたお願いがあるの」

「なんでしょう」

「もう私とは初対面じゃないんだし、敬語をやめてほしいの。それに、さん付けじゃなくてアンジュって呼んで?」


 アンジュはついさっきまでの笑顔とは一変した表情でシロを見つめる。甘えるような上目遣いだ。今度は懇願するように胸の前で手を合わせ、彼女はことんと左へ首を傾げる。

 既視感と、何か色めいたものを感じた。目眩がする。


――幸太郎の周りにいる女によく似ている。


「敬語をやめるのは構わないけど、呼び捨てはさすがに気恥ずかしいかな」

「なあんだ。でもいいわ、まだ最初だものね! 十分だわ!」


 アンジュは一瞬口を尖らせ、すぐにまた甘えるような表情へと戻る。そのコロコロと表情が変わる様子も、シロは大学で散々目の当たりにしていた。

 好意を寄せる異性の気を引こうと(おもね)る、女子学生たち。今日のアンジュは正しくその女子学生たちと同じだった。


「ところで、今日はこの間とは随分と雰囲気が違うんだね。驚いた」

「シロさんに気に入ってほしいなあと思って」


 上目遣いはそのままに、アンジュはにっこりと微笑んで見せた。先ほどシロが感じたものは間違っていなかった。その笑みから無邪気さは取り払われ、やはり十五歳とは思えない色香が漂う。男を惑わせる艶麗(えんれい)な姿だった。

 部屋に充満する香りと、少女であるはずの彼女の妖艶(ようえん)さに、しばらく目眩は治まりそうにない。


「どうしてまた、そんな風に?」

「シロさんには私が女の子なんだって、ちゃんと見て分かってほしかったの」

「それは元々分かってるよ。だから最初に、本当に僕でいいのか確認もしたでしょう」

「そうだった? でも違うの。シロさんに、女の子として意識してほしいの」


 目眩がひどい。目を瞑り額に手を当てて、呼吸を深く保つ。

 そうでもしないと、シロはこのまま倒れてしまいそうだった。情報も、意外性も多すぎる。

 ふわりと香水の香りが強くなる。伏せた顔を上げると、シロの横にはテーブルの向かいに座っていたはずのアンジュの姿があった。テーブルには向かわず、シロを真横から見つめている。いつの間に移動したのか、まったく気づくことができなかった。

 彼女は妖艶な笑みを浮かべたまま、自身の太ももに両手で頬杖をつく。


「ねえ、シロさん。面白い事教えてあげようか!」

「どうしたの、突然?」

「この間、殺人事件があったでしょ? シロさんのH大学の教授がお腹を包丁で刺されたやつ」


 彼女は知っていた。事件のことも、H大の教授であることも、腹を刺されたことも。そしてその凶器までも。

 とっておきの話題であると思っていたのに。シロは少なからず落胆した。


「事件のこと、知ってたんだね。てっきりまだ知らないかと思ってた」


 何せ、この部屋にはテレビやラジオといった、世間の情報を知りうる家電が無いのだ。

 あるのは一人用の冷蔵庫に簡素な電子レンジ、IHのひとくちコンロ。冬に備えてか、FF式ストーブも見える。家具もベッドとテーブル、いくつかの本棚に食器棚と、最低限に留められていた。

 もちろん、彼女が何かしらの携帯端末を持っていることも否定はできない。


「だけど、ニュースでは包丁でお腹を刺されたとは言ってなかったよね」

「そうだった? 真犯人と警察しか知らない情報ってことかしら」


 アンジュはまるでシロを試すように笑う。

 目眩はいつの間にか治まっていた。

 少女の異様な変貌ぶりよりも、事件への興味のほうが今のシロにとっては重要だった。


「ああ、刺されたというより、お腹をざっくり裂かれたって言った方が正しいかしら」

「なぜ知ってるの? 警察関係者に知り合いがいるとか?」

「違うわ。……シロさんはどれくらい詳しいことを知ってるの?」

「そこまで詳しいことは分からないかな。友達の家に、刑事が来たんだ。彼の父親は工場をやっていて、機械の盗難防止に工場の外に防犯カメラを付けてるんだ。それで、手がかりが無いか見せてほしいって刑事がやって来て、口を滑らせたんだ。そのうっかり話した情報が、友達から僕にも回ってきた」

「カメラには何か映ってたの?」


 アンジュは未だ試すような笑いのまま、ほんの少し身を乗り出した。よほど興味があるのか、瞳が大きく開かれている。


「それが友達もその家族も、経営者であるお父さん以外は防犯カメラは勝手に触れないらしくて。そのあとは警察とお父さんから緘口令(かんこうれい)が敷かれたって言って、教えてもらえなかったよ」

「そっか、シロさんはカメラの中身知らないのね」

「そういうことになるね。残念というか、興味はあったけど」

「そう! じゃあ特別にシロさんにだけ教えてあげるわ!」

「え?」

「あの事件の犯人、私のとってもよく知る人なの!」


 アンジュは自慢げに、楽しげに胸を張った。

 

――まさか、こんなところに情報が転がっていようとは。


 シロは生まれて初めて、鈍器で後頭部を殴られたような衝撃を味わった。物語ではよく見かける表現だが、正しくその通りだった。

 頭が働かない。訊きたいことが山ほどあるはずであるのに、声帯も、その仕事を全うする気配は無かった。

 酸欠の金魚のようにポカポカと口を開けるシロを眺めて、アンジュはくすりと、やはり妖艶に笑った。


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