序章
バス停から坂道を上り、三十分。
太陽は出ていないものの、五月も下旬である。背中のリュックサックと皮膚の間に挟まれていた綿素材のシャツは、べっとりとシロの身体に張り付いていた。
——グレーは避けるべきだった。
山を歩くことに慣れているとはいえ、所詮は文系、これまでコンクリートの急勾配を延々と上ったことなどなかった。
もうすぐ。そろそろ。
何度か自分を奮い立たせ、最後にあきらめ半分でもう着く筈だと言い聞かせてから、十五分が経っていた。
周囲は山だ。森でも、林でもない。
鬱蒼と天高くそびえる樹木。枝先では、本格的な夏に向けて青葉が色を濃くし始めている。
どれだけ晴れていても、大した日差しは期待できそうにない。
そのくせじっとりと暑さがまとわりつき、季節感だけが身に染みた。
汗で張り付くグレーのシャツを気にしながら、ひたすらに坂を上っていく。
照り返しがあるわけでもないのに、足元からも熱を感じる。
じめじめじめじめ。
――いっそ一雨降ってくれれば幾分かすっきりするだろうに。
空気中の水分はこんなにも多いが、樹木の間から時折見える空には、雨の降りそうな気配はない。
そびえる樹木が邪魔をしているからか、彼の願いは天には届かないようだ。
<バス通勤可。交通費全額支給>
というから、さほどバス停から離れてはいないのだろうと勝手に高を括っていた。
なぜきちんと確認をしておかなかったのか。シロは能天気な過去の自分を呪った。
いい加減息も切れ始めたころ、「それ」は突然現れた。
否、現れたのはシロであって「それ」ではない。「それ」は恐らく、何十年も前からそこに在ったに違いないのだ。
まるで童話の挿絵のような石造りの洋館(その時シロの脳裏に浮かんだのは児童書“ドラキュラ”の表紙)であった。
坂の途中、建物や人の気配など微塵もなかったにも関わらず、その洋館は悠然とそこに在った。
――本当にここで合っているのだろうか。
一抹の不安が過るが、この先に他の建物があるようにも思えず、寧ろこの建物であってほしいとすら思った。
言わずもがなこの先も、鬱蒼と樹木の生い茂る坂道なのである。
二メートルほどの鉄の門扉。
その両脇は洋館と同じ石材で造られた塀であった。庭からはみ出したツタや木の枝が、塀を覆っている。
成程すぐ脇を歩いていても、建物の存在など気が付かないはずだ。
門扉の横には建物の築年数におよそ似つかわしくない、真新しいインターホンが設置されていた。
何とはなしに門の奥を覗く。
百五十メートル程先に、洋館の玄関扉が見える。
こちら側に面している窓はいくつもあったが、全てのカーテンが閉められていた。
人の気配は窺えず、人家に宿る生気というものが見られない。
ギャッギャッ。どこか後方で鳥が鳴いた。
――これではまるで空き巣じゃないか。
鳥の鳴き声で拍動を速めた心臓をなだめるように、胸に手を当てる。
シロはインターホンに向き直った。
自分は招かれざる客ではない。きちんとアポイントメントは取っている。
腕時計も、約束の時間ぴったりを指していた。本来ならば余裕をもって到着できるよう出発したはずであったが、想定外の長い坂道に時間を取られてしまったようだ。
胸に当てた手をそのままに、深呼吸をする。意を決してインターホンを押した。
ピンポーン
荘厳とも言えるその洋館にはやはり似つかわしくない、まるで場違いな軽快な呼び出し音。
拍動が更に速くなる。先ほどまでとは違う汗が、シロの背中を伝う。
じっとりと湿った手のひらをジーンズでゴシゴシと拭った。シャツにこれ以上の汗滲みを作るわけにはいかない。
彼にとって今できる精いっぱいの身繕いだった。
「はい」
唐突に聞こえた声がインターホンから発せられたものだと理解するのに、たっぷり三秒は費やしてしまった。
思っている以上に自分は緊張しているらしい。
数十分ぶりの発声が聞き苦しくならないよう、姿勢を正す。
「川田武白と申します。ええと」
早速失態だ。
シロ、川田武白は自己紹介の次の言葉を用意していなかった。
大学の文学部で日本語を勉強しているくせに、なんともはや、情けないことだ。
彼はまだ見ぬインターホン越しの人物を思って一人赤面した。
「ようこそお越し下さいました。どうぞ」
インターホンの向こう側の人物が促すと、ガチャリ、ギギギ、と重苦しい音が響いた。
門扉が錠を開き、ゆっくりと内側へ弧を描く。
――童話か、ドラマか。
どちらにせよ、自動で開く門などというものはシロにとっては空想の世界の出来事である。
「まっすぐ、玄関へお進み下さい。玄関の鍵は開いております、そのまま中へどうぞ。入られましたら、左手のドアから階段をお降りください。少々暗くなっていますから、足元にお気をつけて」
インターホンの向こうの人物は、ゆったりと落ち着いた声でそう言った。
ぶつり、と通信が切れる。
中性的で穏やかな口ぶりだったが、シロには有無を言わせぬ圧力のようなものが感じられた。
勿論、彼に有無を言う権利など無いのだが。
くっと軽く生唾を飲み、シロは一歩を踏み出した。