静寂の園
「アーダに会わせてください」
嘆願の声には、まるで関係がない私のこころまで沈鬱にさせるような響きがあった。だが、そのような声にも、壮年の門衛を動かすほどの力はなかった。
「一日につき、一ライケールを寄進せよ。ただし、女人が立ち入ることはまかりならぬ」
にべもない彼の返答に、みすぼらしい農婦はかぶりを振り、痩せた農夫は顔を真っ赤にして押し黙った。彼らにはおいそれと払えないだろう額なのは、傍目にも明らかだった。
「アーダが、あの子が中にいるはずなの」
「中に立ち入るには、寄進が必要だ」
「アーダはお金なんか持っていなかった!」
彼女が哀願し、彼が怒鳴ったところで門衛は、白いものの混じった眉をぴくりとも上下させなかった。
若い門衛らがやってきて、夫婦の両脇を抱えてどこかへとつれていき、やがて列が進み、順番が来た。
用意していたライケール銀貨三枚を机に置き、私は机越しに修道院の門衛に右腕をさしだした。軽く奥歯をかみしめ、衝撃に備える。
魔術を我が身に受けるのは、生まれてはじめてのことだ。故郷ではもう、こうした術は廃れてしまっている。
門衛は、帳簿に寄進額を控えると、置かれていた丸い印章を手に取った。白木でできた印章は、男の握りこぶしよりも少し小さい。それを、机のうえで広げた手の甲にぐっと押しつけ、何事か短く詠唱する。
印章の縁がきらりと一周、水色に光った。痛みも熱もない。そのことに安堵して力を抜くと、門衛はのっぺりとした無表情で淡々と告げた。
「院内では、修道士らと同様に、いっさいのことばを慎むように」
「もし、うっかり話してしまったら?」
問いかけると、彼は次の見学希望者を見ていた目をこちらへ戻し、じろりと私を上から下まで眺めまわした。
答えはすぐには返らなかった。もしかして、ことばが通じなかっただろうか。もう一度、言いかたを変えて同じ質問をしようとしたところで、ようやく返答がある。
「三日間で二度の猶予がある。三度目は退場してもらう。再入場はかなわない。もう一度、列に並ぶところからだ」
そのことばを最後に、門衛はもう、私のほうを見ることはなかった。
分厚く堅牢な門を抜け、修道院に足を踏み入れると、あたりは異様なまでに静まりかえっていた。
沈黙の行とは、これほどまでに厳格なものなのか。私は気を引き締めなおし、深く息を吸い込んだ。
修道院は、修道士たちが常に生活する禁域と、一般の見学者が立ち入れる区域とに別れている。多くの見学者の目当ては、王立図書館にも引けを取らない稀少な蔵書の数々だった。
一部の書物の市場価値はあまりに高価すぎるため、盗難防止として鍵のかかった書庫に収納されているらしい。閲覧するには、身分証を提示し、専用の閲覧台まで修道士に持ってきてもらうことになる。
その煩わしさと言ったらないと、昨晩、宿でいっしょになった写本師が嘆いていた。彼はさる貴族に雇われて聖典を書き写すため、この三月というもの、毎日修道院に足を運んでいるのだそうだ。
三月ぶんの寄進額と考えただけで、私は正直、めまいを感じた。このうえ、高額な写本の技術料と材料費、写本師の滞在費を支払うのだ。いったい、総額いくらになるやら。三日ぶん払うのだって、だいぶ勇気が要ったというのに、お貴族様の道楽は理解に苦しむ。
ちなみに、一日ぶんの寄進額は一ライケールだが、これを麺麭に換算すると、四人家族が優に一月食べることができる。今日の粗末な宿であれば、三日ぶんの宿代になる。
それほど高価であったとしても寄進の列は毎日できるのだから、この修道院の価値が知れようというものだ。
磨き上げられた石の床に、靴音はどこまでも反響していく。私は案内表示に従い、中庭にそって廊下を曲がり、図書館の重厚な扉を開いた。
故郷の国一番の大聖堂よりも広い空間には、木と本の甘い香りが満ちていた。
私は扉から数歩のところで立ち尽くし、思わず感嘆の声を漏らしそうになり、寸前でこらえきった。
こんなに大きな部屋が本で埋め尽くされている。にわかには信じられなかった。身の丈の十倍はあろうかという高さに天井がある。アーチの頂点をまっすぐに貫いて明かり取りの窓がある。アーチの左右に流れ落ちる先にあるのは、図書館の三階だ。私のいる一階から三階までが吹き抜けになっていて、窓からの光は一階まで注いでいる。
中央にはいくつもの閲覧台と作業台があり、多くの写本師たちがすでに席についている。閲覧台の隙間を、黒いローブを着た修道士が衣擦れの音もさやかに歩いていた。手には厚い書物がある。彼はひとつの閲覧台に寄り、書物を据え付け、鎖で書物と机とを繋いだ。流れるような動作だった。しゃららと鎖の鳴る音が涼やかにさえ聞こえた。
私は止めていた息を吐き出し、閲覧台の近くまで進み出た。すると、閲覧台の周辺は腰高の柵で囲われており、その柵の切れ目では修道士が受付台に着いているのがわかった。
目をむけると、彼は祝福のしぐさをして、私に黒板を示した。そこには白墨で書かれた書名がある。さきほど書物を持って歩いていた修道士がやってきて、その書名を布でていねいに消しさる。
そうか、ここに書名を書けば、稀覯本を奥から持ってきてもらえるのか。それでは、この一面の棚に置かれた本のなかから、目当ての一冊を見つけるには、どうしたら?
わからないが、だれに聞くこともかなわないし、案内も説明も見当たらないとくれば、探索してみるしかなかった。
私はまずは一階を歩きまわることにした。林立する書架をぬけ、入口から右手の壁までたどり着くと、壁沿いには無数の抽斗がずらりと並んでいた。絵筆箱くらいの抽斗だ。近づいていって、試しにひとつ引いてみる。
中には、書名らしきものの記された札が差されている。そこへ数字が数桁あった。ここまでくれば、ぴんときた。故郷の図書館と同様に、ここにも体系があるのだ。
私はこの図書館の泳ぎかたを概ね理解して、目当ての本があるとおぼしき方向へと進んだ。
ひとめ見たいと思ったのは、ある画家が手がけたという写本だった。
その画家は若いうちに大成し、宮廷に出仕するほどの地位を得たが、あるとき、異教の神の声を聞いたと言って家を飛び出していき、どこかで修道会の門をくぐったらしい。聖典の写本を作るとき、外部の写本師に頼むよりも、写本修道士が作成するのがまだ一般的だった時代の話だ。画家は祈りのことばのかわりに己の持ちうる技術のすべてを凝らして、写本を完成させ、病を得て天に召された。
それが、私の祖父だ。
成した財も名声も、妻子も捨て去り、異郷の地で没した彼が残し、唯一世に知られざる写本。その存在を、私は長年探し歩いている。
写本に、携わった者の名など基本は記されない。記されていたとしても、それが俗世の名ではなく宗教上与えられた名であれば、私にはわかりようがない。だが、生き別れの血縁者を求めるように、私はそれが見たかった。
研究書ではなく、聖典の棚を見つけ、私は片端から本を手に取った。手近な書見台で一枚一枚丹念に目を通していき、祖父の画風のかけらを探す。
時間は瞬く間に過ぎた。一日目にして、首筋が悲鳴をあげる。姿勢を正そうと、顔を上げたときだった。目の端に動くものがあった。
生成りの服の裾だ。ローブには短く、男の服にしては長すぎた。それが、ふわりと書架の陰に隠れた。追いかけたのは、ほとんど本能のようなものだった。
書架のあいだの狭い廊下を足音が駆けていく。のぞき込むと、編まれた長い髪とともに娘の後ろ姿が角を曲がっていった。おそらくは十三、四だ。この国の女性は、十五を迎えると成人し、出産するまでは腰に青い帯を巻く。だが、その帯がなかった。
私は急ぎ足で娘のあとを追った。あれが、今朝ほどの夫婦の子『アーダ』ではないかと思い至ったのだ。どこから潜りこんだかはしらないが、こんなところで遊んでいては、両親が心配するばかりではないか。
次の角を曲がると、娘の後ろ姿ははっきりと見えた。裸足と、寸足らずの生成りのドレスと前掛け、腕まくりをした両袖と、背の中程までのお下げ。思ったとおり、成人まであと少しと言った年頃の娘が足音も軽く走っていく。
「おい、きみ!」
呼びかけようとして、私は周囲の景色の激変にうろたえた。
書架は消え失せ、雑踏が背後に聞こえている。目の前にあるのは、朝方にくぐった修道院の門扉だった。
門脇の小屋の暗がりから、壮年の門衛がぬっと顔を出した。顎で示されて、見下ろした右手の甲、水色の入場査証の丸紋に、斜めに一本の線が入っていた。
「気落ちはいらぬ。三度目までは問題なく入場が可能だ」
朝のつっけんどんな様子とは打ってかわった慰めに意外な思いで彼を見やる。門衛は肩をすくめた。
「あと半刻で夕べの鐘だ。そろそろ、なかは窓辺でも暗くなろう。修道院内の見学は、夕べの鐘でしまいだ。戻るなら、門を開けるが、いかがいたそうか」
「……お気遣い感謝する。今日は疲れた。もう、よしておこう」
それがいいと言うように門衛はうなずき、小屋へと引き返していく。
ただそれだけのやりとりが、無性に快く懐かしかった。それほど、修道院のなかの静寂が身に堪えていたのだろう。
私は暮れかけの空を仰いで息をつき、いまだ根を詰めているであろう写本師たちよりも一足早く、昨日と同じ宿へと引き取った。
安宿には、写本師が多く滞在している。
夕食時に、沈黙の戒律を破ってしまったことを笑い話として提供すると、彼らは呆れ、あまり笑えないぞと私をたしなめた。
「俺たちは大枚はたいてもらっているからな。同じ三度で出入禁止でも、三日で三度と半年で三度では気の引き締めかたからして違う」
「駆け出しのころは慎重派で、十日ごとに入場査証をもらったもんだなあ。いまなんか、あの列に並ぶのが面倒で一気に長期で払いをしているが」
それなりに話に花が咲くなか、ひとりが問いを発する。
「それで、理由はなんだい。ひとりごととでも言うのかい?」
「娘を見たんだ、十三、四の娘っこ」
「──修道院の、なかで?」
そんなはずがなかろうと、どの顔も困惑している。女人禁制なのだ、当然の反応である。私もいま考えると不思議でならなかった。高い塀に囲われた修道院にこっそりと入りこむのも難しければ、飲まず食わずでひとに見つからずに過ごすのも難しい。では、彼女はどうやって、あの図書館に現れたというのか。
これまで口を開かずにいた古参の写本師が、酒の杯から僅かにくちびるを離した。
「おおよそ、修道院長の隠し子だろう。生臭坊主だと噂には聞く」
周囲を憚るような声量だった。我々はそこでやっと、これが危険な話題だと気づいて、互いに目配せをしてうなずき合った。
外から入るのが困難であれば、もとより中に居て、それが許されている存在だと考えるほうがよほど自然だ。そして、写本を生業にしている彼らにとって、修道院の悪い噂に関わることは、百害あって一利なしだった。
酒の席は有耶無耶のうちにお開きになり、私は早々に床についた。明日こそは祖父の写本が見つかればと、この地に御心があるかはわからない故郷の神に短く祈り、目を閉じた。
翌日、私は写本探しのあいまに、初めて中庭に出てみた。昨日は勝手がわからなかったが、写本師に聞くところによると、中庭であれば、多少の飲食の目こぼしがあるのだと言う。昼時に足をむけてみれば、中庭ではたしかに、そこここに腰を下ろして、少なくない人数が昼食をとっていた。
昨日、空腹のまま過ごしたのが馬鹿らしい。私は持参した食事を持って、ひと気のないほうへと足をむけた。だれかのようすを目にして、うっかりと声を出してしまってはたまらないからだ。
芝生と背の低い果樹があるばかりの殺風景な中庭は、回廊に囲まれている。南側は立ち入り可能だが、北側は禁域だ。ただ一箇所、いまは私の真向かいにある場所だけが回廊ではなく、尖塔を持った建物になっている。修道院の入口に比較的近いということは、貯蔵庫か何かだろうか。
尖塔の下は日陰になるせいか芝生が剥がれ、土が露出している。ほかの建物の影となる一階と二階には窓がなく、日の当たる三階部分にだけ、くりぬかれたような窓があった。内開きなのか、戸は見えない。
麺麭をちぎり、固い乾酪を乗せてかじる。もそもそした塩味を舌で転がしていると、奥から窓辺に進み出てくる人影があった。
それが、昨日の娘であると、気づくのに時間は要らなかった。昨日は見えなかった整った顔立ちは青白く、不健康さを漂わせている。
娘はどこを見るともないまなざしで外を見つめながら、だらりと細い右腕を窓の外に下ろした。その腕の先は、まっすぐに塔の下を指さす。
その手の甲に、入場査証はやはり、ない。正規の方法で入った者ではない。昨晩の話のとおり、生臭坊主の娘なのだろうか。だが、あれはあまりに大胆ではないか。他の目に見つかるのではないかと見回してみるも、だれもが己の食事に集中しており、塔に目を向ける者はなかった。
視線を窓辺へと戻すと、娘の姿はすでになかった。私は残りの食事を腹へ収めると、釈然としないものを感じながら、中庭をあとにした。
食事を適切に摂ったおかげで、午後も集中して取り組めた。順調に写本に目を通していくことができ、残るはあと少しだった。
残念ながら、成果はない。別の修道院への問い合わせでも同様であったのだから、ここで無かったからといって、ことに落胆する話ではないのだが、これほどの規模の図書館もほかにはなかなか見られない。焦りがあるのも真実だった。
私は挿画入りの写本ばかりではなく、装飾写本にも手を伸ばしていた。頭文字の飾りかたに特色は出ないものかと一縷の望みをかけて、ページをめくる。
と、不意に隣に影がさした。
ひとが? 顔をあげようとしたところへ、書見台のうえに伸びてきたものがあった。あかぎれだらけの青白い両手。それが、すうっと動いて、紙切れを押しやるようにする。つい受け取って、手の持ち主のほうを仰いでみて、私は「えっ……」と声をもらしていた。
そこには、だれもいなかったのだ。
身を隠す時間など、ありはしなかった。そう、状況をふりかえりながら、私は二度目の門扉を見上げて、さすがに肩を落とした。今日はまだ日が高い。もう一度、中に入れてもらわないと、割に合わない。
私は近づいてきた門衛に右手の入場査証を見せ、開門を請うた。壮年の門衛は入場査証に入った打ち消し線を笑い、若い門衛に声をかけて門を開けてくれた。
「これであとがないぞ、若人」
背にかけられたことばに首肯して、私は本日二度目の静寂の園へと舞い戻った。
二度目の退場は、写本師たちの目についたらしく、その晩の食事では、こちらから言いだすより先に、酒の肴にされてしまった。
一度目のときは再入場をしなかったが、今回は午後になってから再入場したため、多くの者の興味を引いたのだ。あれだけの寄進をするからにはと、見学者も皆、時間を有効に使うため、昼前には修道院を訪れる。午後の来訪者は、それだけで目立つ存在なのだった。
私はふてくされながらも適当に話を合わせ、笑われるがままにした。一期一会だ。彼らにこの先、出会うことがそうあるはずもない。うっかり者という印象を打ち消す必要があるとは思えなかった。
舌に慣れぬ甘い酒をあおり、私はふと、思い立って懐を探った。そこには、あの青白い手の主から渡された紙切れが入ったままになっていた。断りを入れて席を立ち、物陰で内容を確かめる。
古びた装飾写本だった。だが、異郷のことばで記された古語を解読するのに少々時間を要す。書かれていたのは、次のような一節だった。
『先にあったことは、また後にもある。先になされたことは、また後にもなされる』
嫌がらせか! まるで、私が魔術によって修道院から二度も追い出されたことを示唆しているような一節だった。二度あることは三度あるとでも言いたげな文句に苛立ちを募らせて席に戻り、それでも好奇心から隣の写本師に水を向ける。
答えは案外、すぐに返ってきた。
「それは聖典の一節だな。たしか、『コヘレトの言葉』だ。ああ、間違いない」
彼が言うには、この一節は、私の考えているような意味ではなく、万物が巡るようすを示したことばなのだそうだ。日は昇り、沈み、また昇る。川は海へ注ぐが、海は満ちることなく、川は注ぎ続ける。
「俺たちの仕事も同じさ。書き写した写本がいつか正本となって、だれかに書き写される。いつか正本は朽ち、そのまた写本が正本に取って代わる。そうやって、聖なることばは生き延びるし、繋がっていく。新たな装飾文字を生み出したと思っても、それがほんとうに新しいかなんて、だれにもわかりゃしない」
その労苦はむなしいだろうか。いや、むなしいとは思わない。少なくとも私はそうして生まれたひとつの写本を求めてさまよっているし、この広い世のなか、他にもそうした人間はあるだろう。決して、貴族ひとりが喜ぶのではなく、他にほんとうの価値なるものを見いだす者があるのだ。多分。
私は、『コヘレトの言葉』という単語を胸に刻んで、食堂をあとにした。
あとのない最終日というのは、存外、重苦しいものでもなかった。
私は午前中のうちに残りの写本を見て、祖父の手によるものがないと断定し、好奇心を満たすことにした。
懐の紙切れの出所を探りあてるのだ。
少なくとも、これまで読んだ聖典の写本にはちぎれたものはなかった。ということは、別の書架だ。
聖典の抜粋だけがまとめられた本のなか、それらしきものを見つけては読みあさる。
その本は、無造作に置かれていた。最下段の本の上部、棚との僅かな隙間に、まるで隠すように横にして差し入れられていた。通りがかりであれば、屈まずには見つけられない場所だったが、本の抜き差しをすれば、すぐに見つけられる場所でもあった。
私は書見台のうえで該当箇所を見つけ、周囲を伺いながら懐に手を伸ばした。あてがうと、思ったとおり、ぴたりとあう。この本だ。
一枚めくって、裏側の文章からも確かめようとして、はたと手がとまった。
また別の紙切れが挟まっていたのである。だが、今度は本の切れ端ではなさそうだった。
肖像画だ。木炭で描かれた若い娘の憂い顔。絵の隅には、ジュセッピーナと書かれている。この娘の名だろうか。
だが、私が驚いたのは、そこではなかった。
はたして、その肖像画は、祖父の手によるものとわかるものだったのだ。女性のやわらかな肢体と、服の布地の質感、こぼれかかるおさげ髪のなめらかさ。描かれた娘は、私が昨日目にしたように、窓辺から外を見ている。だいぶ近くからの描写のせいで、場所がわかりにくいが、おそらく、あの塔の窓辺だろう。
メッセージだ。会ったこともない祖父が、私にメッセージを送っているのだ。そう、思えてならない。
いったい、私に何を伝えようというのだ?
私は、切れ端によく目を通した。それから、離れたほうも読み込んだ。かたちに意味があるとは考えられない。──ほんとうに、そうだろうか。見直してみると、不自然だ。ただちぎったにしては、文字が一文字残されていたり、途中で中に入りこむように切れ目が入っていたりする。勢いよく引きちぎったのではなく、ゆっくりと慎重に切ったのだ。
切られている文章には、こうあった。
Nihil sub sole novus
『何ものも太陽の下に新しいものはない』
いや、違う。切り取られて残った文字だけを拾えば、別の短い文章ができあがる。
私は、息をのんだ。
sub soli
『土の下』
立ち上がった拍子に、ガタリと椅子が鳴る。静寂を破って、音は反響していく。だが、気にならなかった。まろびでるように図書館を飛び出す。回廊を少し戻り、中庭を目指す。
中庭には、早めの昼を食べにきたとおぼしき人影があった。彼は私の血相に驚いたようすだったが、私はひとにらみでその脇を通り過ぎた。
尖塔だ。あの尖塔の下、土の露出した場所。
仰ぎ見た今日の窓辺に、人影はない。私は腹を減らした犬のように、固くなった土に爪を立てた。道具を使うことなど、念頭にもなかった。指に力をこめて掘り進める。日陰にもかかわらず、顎から汗がしたたる。
気づけば、周囲に人だかりがしていた。
昨晩、一昨晩と軽口をたたき合った写本師たちは、しかしながら、私とは関わりあいを持ちたくないとでも言うように、回廊から遠巻きにこちらを見ていた。
彼らの後ろに、修道士の黒いローブが現れたのを認め、私は焦った。
そのときだ。がり、と、指先に確かな感触があった。
感触のあったあたりの土を急いで剥ぎ取る。
周囲から、声なき声がもれた。
白い骨だった。足の骨だろう、太い骨がはじめに見つかり、続いて、骨盤が見えた。もはや疑いようもなく、人骨であった。
修道士が複数名、私の肩を掴む。引き立たされながら、私は土まみれの両手を広げ、天を仰いだ。塔の窓辺を見上げる。そこにいた娘の姿は、私にだけ見えたものだったのだろうか。いまになって見ると、わからない。
おいで。安心させるようにうなずいた私にむかって、娘は飛んだ。あの高い三階の窓辺から、私にむかって、飛んだのだ。
髪の短い、ジュセッピーナとは似ても似つかない娘だった。
私は彼女をどうにか受けとめて中庭の地面にしたたか背を打ち付け、ささやいた。
「家へおかえり、アーダ」
そして、気づけば、三度の門扉の外だった。私は土にまみれた手で顔を拭いながら、石畳に座り込んでむせび泣いた。
門衛はもう、私には声をかけなかった。
私はしばらくして落ち着くと腰をあげ、宿への道を辿った。息苦しさを感じる。あばらでも折ったかと胸を押さえると、そこには持ち去ったつもりもなかった肖像画があった。
絵のなかの娘は憂い顔のようでいて、ほんのりと微笑んでいるようにも見えた。
こうして、世に知られぬ祖父の絵は、確かに私の手元に残ることとなった。
その晩、私は写本師たちと顔を合わせるのを避けるため、宿とは別の酒場で軽い夕食をとっていた。
食事をほぼ終えようというときだ、隣席の噂話が聞くともなしに耳に入った。
修道院で女性の人骨が見つかったこと。塔に囚われ、暴行を受けていたと訴える農夫の娘がいること。どうやら、どちらも見つけたのは一介の観光客であること。
私は勘定を済ませ、席を立った。
明日には、この町をたつつもりだった。
結局、祖父の写本は見つからなかったが、期間を延長する気も起きなかったし、今日のことがあったあとで、入場が許可されるとも考えにくかった。
だが、満足だった。
万物は巡る。私が傾けていた写本への情熱もきっと、このときのためにあったのだ。そう、感じられてならなかったのだ。