Code.0005 非日常の道理
「きゃはっ…… ここまでおいでぇ!ベロベロベロ!」
「こ、こらっ!待てぇぇい、朱理ィ」
鉄色のブースターを手に握った、普段ならいかにも真面目そうで清楚ささえ感じさせる女性が一人のちょっと可愛くてロリータっぽさ
さえ思わせる女の子を懸命な顔をして追い回していた。すでに目をやるとどちらとも全身汗でびっちょりだ。
だが身体のラインが浮き出ていることさえ気にせずに二人だけの鬼ごっこは果てることなく続いていた。
「やだもんねっーだ!衣子ちゃんなんかに捕まりませんよーっ」
「あのねえ…… 『捕まる、捕まらない』の問題じゃなくって勝手に訓練から誰が抜けていいって言った?」
「いいじゃん、一回位さぁ。減るもんじゃないし。
頭が固すぎるんだよ。衣子ちゃんってば。
そんなんじゃすぐにババアになるよ」
「アンタねぇ…… そう言ってもう二十八回目よ。少しは何とかなさいっ!」
「拙僧には無理であります!」
細かく切れる息吹に乗りながら二人の懸命の言葉合戦も果てそうにない。
そんな追いかけっこの中、単調だった間合いにもある変化が生まれていた。
その言葉に呼応するかのように朱理が急に立ち止まる。
闇雲に追いかけ回していた衣子もある程度の距離を置き、立ち止まった。
「いい表情になったね。朱理」
「今、何っつったよ。あたしの家族の事、馬鹿にしてんのか!」
(ちょいとやり過ぎたか……)
立場逆転。
衣子が躊躇いながらじりじりと後ずさりするのを今度は冷たい瞳をした悪魔が追う。
直感で衣子は思う。このままだと本当に殺される、と。
南無三。
ブースターを構えて朱理の頬すれすれを狙いぶっ放すと大きな閃光と共に壁が破れる。
瞬間怒りで感情が抑えきれなくなっていた朱理は我に帰ると壁穴目掛けて身を突っ込んだ。
「くそったれが!」
衣子もそれを見て咄嗟に飛び込んだ先にまた人がいた。
それが先程に続いて出くわした男子の片割れ。
新島 浩司である。
「えええ…… またかよ!」
「ああああ!ごめん!ほんっとごめんなさい!」
ぶっ倒れた浩司の背中を朱理が蹴っ飛ばし衣子はもろに衝突し掛けた。
朱理は悪戯っぽい笑みを浮かべるとぴょんと跳ね飛んでどこかへ消えていった。
その後ろ姿を恨めしく見ながら衣子の方が観念し深い溜め息を吐く。
それからまたやってしまった背中の壁を見て十秒間、思考能力が完全に現実逃避する。
(こちらもやり過ぎちゃったみたいですなぁ)
そこに流石に業を煮やしたフロント嬢が立ちはだかる。衣子にはそうっと逃げ出すという選択肢はない。
半ば諦めた笑顔を浮かべながら衣子は頭を下げると、これでもかというくらいの罵詈雑言をマトモに受けた。
二人の大の男はじっと見てるだけである。
「衣子!壁代、頑張って払おうな?」
「ごめんなさい。二発も撃ってごめんなさい!」
「謝るポイントが違う!」
散々な目に遭った浩司と久の二人は完全に引いている。何せこの短時間でサバイバルめいた事に二回も、それも同じ人物たちの追いか
けっこを見させられたのである。壁まで貫通…… 普通の感覚の持ち主ならば真っ先に逃げているだろう。
ただようやく心が整理できたのか。二人の存在に衣子は気づき首を長くして、フロント嬢の後ろにある二人の顔を覗く。
「あの…… ところでそちらのそこそこイケメン二人は?」
「ああ、あなた達の後輩よ。これからよろしくやってあげてね。
それより今日の訓練の続きはいいの? あと朱理……」
「そうだった。でも朱理の事だから腹減ったら戻ってくるだろうしその時に壁壊さないレベルで羽交い絞めにします!」
(とてもじゃないが……)
(やさしい女性の言動ではないな)
二人がぼそっと見合わせて呟いたのを見ながら衣子はニンマリ笑うと男二人の肩の間に挟まった。
そして明朗快活に元気良く言葉を発する。
「あたし、遠野 衣子って言うんだ。
さっきのチビが前島 朱理。君たち二人と同じ宇宙機パイロットの訓練生だ。
よろしくな!」
「新島 浩司だ。よろしく」
「高岡 久だ」
「ヒロとヒサシね。覚えた。
そんじゃあまた夕ご飯の時にね。じゃっ……」
二人が衣子に向かって礼をしているとすぐに何かを思い出すかのように手を振って彼女はその場を去っていった。
まだ彼女はその時気づいていなかった。汗でくっきりとそのボディラインが浮かび上がっていたことに。
当然それを見て女っ気がこれまで皆無だった二人の男がどちら共なく顔を赤らめ、てんで違う方向に目を背けていた事を。
そのくだらなく情けない姿をフロント嬢は逃さず見ていた。
コホンと咳払いをすると、身体をびくっとさせた二人を流し目で確認してからフランクな言葉を掛けられる。
「さーて、さっさと案内するか……」
再びフロント嬢は二人の前に立ち躍起になって誘導し始めた。
今度の今度こそは邪魔者はいない。
因みにその頃行方不明に勝手になってしまっていた朱理は、まだまだ衣子から捕まるまいと逃亡していた。
そしてもう一方で浩司と久と別れた衣子は着替えをする為に部屋に戻り、疲れた全身を上から下までを鏡でなぞるようにして見ていた
。汗で光っていた髪。汗でびっしょりになって浮かび上がっていた身体の輪郭に気づき青ざめた後、顔を一気に赤くする。
またしても息が凍りつくように止まった。
そして程なくして両腕で身体を仕舞い込むようにして、叫びきれない思いを大きな奇声に変える。
「きゃああああああああっっっっっっ……!」
『うるせぇぇぇぇぇぇ!遠野』
「ここよ」
案内された部屋はごくごく平凡な何の変哲もない洋室の六畳間だった。
何の飾りもなく、何の汚れもなく、まだ誰も使っていない感じが伝わってくる。
何も不思議がらずに二人は部屋をぼうっと眺める。
その間合いを差すようにフロント嬢が青いファイリングノートに目を零しながら喋り出す。
「ええっと…… あなたが高岡 久君ね?あなたが此処。
で、新島 浩司君。あなたは此処のちょうど右隣の部屋よ。
じゃ、わたしはこれで……。
あ、そうそう。何か用件があったらいつでも聞きにいらっしゃい。答えられる事だったから答えるから。
わたしの名前は山田 陽。今後ともよろしく」
『よろしくお願いします』
陽があっさりと部屋を後にすると浩司は溜息をつきながら久に話を吹っ掛ける。
「お前、どう思う? ここが天国か地獄か」
「さぁな。俺は知らん。そういうのに興味がないからな」
「またまたぁ……」
浩司がふざけた顔をしながら久の腹を肘で押す。しかし久は全くそんな事に応じない。
だが浩司の態度があまりにもしつこかった為、いらいらを隠しきれずに爆発する。
ばんっ。
気付けば久は浩司を突き飛ばしていた。
「何すんだよっ!」
浩司は一瞬何が起こったのかわからないかのように、部屋の地面に見事に尻餅をついていた。
見下ろす久の視線は冷ややかで先程の騒動の時のような手を貸す素振りもしない。
浩司も流石に何も言わずに行為に出た久が許せなかった。
だからつい、大声が昨日ぶりに出る。
「よく聞け、新島。曲りなりにも俺とお前はどういう形で勝手に仕組まれたライバルみたいなもんだ。
別に同じ部署から配属されたからって俺はお前なんかと仲良しになりたいとも思わないし、ここの女にも手を出すつもりも気を許すつ
もりもない。
ここは俺の部屋だ。わかったらさっさと俺の前から消え失せろ。目障りだ。
あと…… 邪魔する奴は誰だろうとぶっ潰す」
その声には相変わらずの冷静さと冷徹さがあった。いやそれ以上の迫力が言葉にはあった。
「わかったよ。さっさと消えてやるよ。
そっちの方がお前らしいな。悪かった」
仕方なく浩司は謝罪し喧嘩するのをぐっと耐えた。
もし喧嘩をして勝ったとしてもお互い何の利益もないし、止めてくれる仲間はもはやここにはいないのだ。
ゆっくり立ち上がると踵を返し自分へ与えられた部屋へ行く事にした。
久は浩司が背中を向けた後、少しだけほっとしたように微笑んだ。
別に勝ったとかいう喜びや安心感ではなく、彼にも自分の事を改めて分かってもらえただろうという事に対して嬉しかったのだ。
浩司が一番自分の事をよくわかってくれているのだ。
自分が本当の冷静冷徹冷血感ではなく、浩司以上に熱血漢であるという事を。
そして面倒な性格である事を。
「アイツももうちょっとあの性格、どうにかなんないものかねぇ……
やれやれ……」
浩司は自分の部屋に着くとある程度荷解きをして整頓してから私服に着替えるなりシングルベッドに身を放り込んだ。
いつもの仲間がいない寂しさにはすぐ気づいた。
いつもならどこかで笑い声や喧騒が聞こえてくるはずなのにこの場所は基本的には静かすぎだ。
性に合わない感じを彼は彼なりに覚える。
「はぁ…… こんなんだったら案外、向こうの方が居心地よかったかもなぁ……」
浩司はぼそっと聞いてくれる宛のない独り言を呟き、見知らぬ天井をある程度眺めとぐっと目を閉じた。
暗闇が映像となる。それから出来る限りのこれまで起こった様々な事等を思い巡らすことにした。
自分を大事にしてくれた長官の事。いっつも苛めていたのにそれでもくっついてきてくれた親友、久保 安彦の事。
国防機関TIKSに入って以来、別れたきり会いも手紙のやり取りすらしていない両親の事。
そして恋人だったたった一人の女の事……。
浩司には抱えきれない程の思い出がある。
それだけに自然とこんな風に独りぼっちになって思い出を思い起こすと、涙腺が緩くなるのは訳なかった。