Code.0003 スターティング・オーヴァー
「宇宙」。
それは未だに人々が操作できずにいる未知なる世界が拡がっている領域であり、人類にとって魅力的で偉大な拡がりを持ったありとあらゆる夢が積み込まれた大気空間だ。
だが結局の所そんな「宇宙」の事を人々は常に「神秘的ではあるが想像のつかない暗き存在」と想像および仮定して決めつけ、現実問題からは外しいていってしまう。
夢などいくら語った所でキリがない。
彼もまたそんな者の一人にその夜は成り果てていた。
軽い酔いを覚えながらも何とか浩司はベッドで眠ろうとしていた。
だが妙な緊張と胸の高鳴りのせいで容易に眠ることなどできず、何度も迸る汗を拭っては起き、拭っては起きするが落ち着かない。
(眠れねえよ、畜生……。
何が宇宙だよ。今の今まで飛行機野郎だった奴にいきなりンな事できるわけねえだろ)
「はぁ……」
ため息をついた挙げ句気持ちを落ち着かせるため寮内をぼんやり会うと示し合わせた訳でもなく、久に出会い現在に至る。
「花江さん。すみません。
あんだけどんちゃん騒ぎした挙げ句開けてもらってしまって」
「いいんだよ。浩司ちゃんや久坊のためだったら……
ロクなモンだせないけどこれでいいかい?」
二人に出されたのは一杯の茶そばと一献の日本酒だった。
酒を飲んだ直後にまた食べ物と酒とはあまり関心できないかもしれないが、そうまでしないと寝付けないのだから仕方なかった。
「高岡。お前さ。正直選ばれた時の気持ちってどうだった?
俺はさ…… 認められたのは嬉しかったけど複雑だったぜ。
何か飛行機乗る事を否定された気がしてな」
「……俺は誇りに思った。皆を代表して行くんだからな。
ただ寝首だけはかかれないように気をつけないとなとは思ってる」
「俺に、か?」
「馬鹿か。もっと大きな意味でだ」
浩司と久は知り合ってもう六年になる。
最初は本当に殴り合いの喧嘩をしそうになって教官によくどやされたり、先輩達に叱責を受けたりもした。本当に気が合わない犬猿の仲というものはこういう事かと感じた事もあった。
ただふとしたタイミングから背中を預け合う者同士となり、今回のパイロット選定で両者が選ばれた時にどこか互いにほっとしていたのも事実だった。
「ハナさん。蕎麦うまかったよ。
またぜってぇ食いに戻ってくっから」
「その時はこの馬鹿と土産ぶらさげてきますね。
ありがとうございました」
「いいんだよ」
言葉にしなくてもお互い高ぶる気持ちも不安になる気持ちも感じられればそれだけで良かった。あとはほんのちょっとダメ押しの日本酒が眠気を後押しし、浩司が気づいた時には窓から日差しがこぼれていた。
(そっか……)
「これでこことも最後になるんだな」
さっさと身支度を済ませ何も言わずに何も告げずにアタッシュケースに残っていたありったけの荷物を積み込むと部屋は伽藍洞となった。
これで全ては元のまま。まるで今まで誰も住んでいなかったような気さえ起こさせる位だ。
ゆっくりと部屋を出て二回程掌を合わせて叩いてお辞儀をし敬礼をすると、長い間世話になった部屋の扉から背を向けた。
寮の廊下はいつになく珍しく人気を感じなかった。
普段なら朝礼をする為やらで歩いている者もぽつりぽつりと居るはずなのに、今日に限って不気味とも言える程ひっそりとしていて気配すらない。
寮の出口に向かって歩いていくと戦友は待っていたかのように浩司の方にじっと目を向けていた。
「へぇ…… いつものお前なら昨日の感じだと大抵寝坊すると思ってたんだが…… 性格がガキの割りに学習能力だけはちゃんとあったんだな……」
「うるせい。冷血漢のエリート気質気取ってるお前にだけは言われたくねえやい。
それより時間。0800だろ?
このくらいの時間だったら今頃皆飯だよな」
「食堂にはさっき立ち寄ったが人っこ一人いなかったぞ」
「? ま、いいか」
軽い世間話をしながら出口を抜けて空港までの送迎用のタクシーへ向かって歩こうとすると言葉にできない程壮観で勇ましい景色が二人の目の前には広がっていた。
全員が二人を送るために士官服または戦闘服に着替え敬礼して待っていたのである。
「馬鹿だな。皆」
「ホント、大馬鹿だ」
浩司と久はチームメイトにもみくちゃにされながらゆっくり前進していくと、二人の直属の上長だった高柳 孝長官が敬礼をして立っていた。
「どうだ。二人とも今の心境は?」
長官は久の方に最初に顔を向けて尋ねた。
久は敬礼をして表情を強ばらせながらただ一言だけ発した。
いかにも常に冷静である彼らしい言葉だった。
「感無量です。高柳長官」
「そうか…… お前らしい。
じゃあ、新島。お前はどうだ?」
そう言った瞬間長官は軽く微笑んでみせて、次に浩司の方に顔を向けた。
その顔はいつもの訓練時のような厳しさは微塵もなく、ただただ長官の言葉からは父親のような優しさや愛おしさだけが滲み出て放たれているようだった。
「はっ。自分はやれるだけの事はやってみます。
それで駄目だったらどっかをほっつき歩きます。
戻る所は一つも無い覚悟でいます。
けれどそういう事が…… 皆の顔に泥を塗る事がないように務めて参ります。本日の催し至極感激であります」
「大人になったな。新島」
浩司はいつもとは違ったはっきりとした誓いを口にした。
本当はこんな大勢の人間がいる場所でクサイ台詞を言うべきではないのかもしれない。だが今心の底からの気持ちを言っておかなければ大いに後で悔いる事になりそうな気がしてならなかったのだ。
「お前には期待している。精一杯やれるだけやって来い。
ずっと俺はお前達を見ているからな」
「えっ…… あ、はい。ありがとう…… ございます」
思わず浩司は耳を疑った。
今までそんな言葉を個人的に掛けてくれたりした事は一度たりとも無かったからだ。それなのに今日こういう場で言ってくれた。
それ程高柳は厳しい人物だった。
浩司や久、そして目の前にいる訓練生達にとって絶対的な模範であり、お手本であり生きるルールだった。浩司と久の二人は特にトラブルメイカー的存在であり散々迷惑を掛けてきたから苦言を呈される事も多かった。 それだけに余計に耳を疑ってしまった。
むしろ悪態をつかれるに決まっていると思いこんでいた。
だからこそじわっと胸に湧いてくる感情は倍以上だった。
「高柳長官にご期待に応えられるよう頑張ってきます」
浩司は敬礼をし直すと拍手の束はさらに花開いた。
「それでは!」
「行って参ります!」
「健闘を祈る!」
ブルルルルル……
エンジンの唸りを立てたタクシーに二人は後ろのトランクへとアタッシュケースを詰め込むと、そのまま勢い良く後部座席へと乗り込んだ。
車はゆっくりと発車した。
歓声はまだ響き鳴り止まない。
ゆっくりと“我が家”が遠ざかっていく。
「俺達はいい長官に恵まれたもんだな……」
珍しく久の方から口を開いた。
するとようやくその頃になって浩司は目に涙をうっすらと浮かべ黙って頷いた。久はそれを見て微笑みながら外を眺めた。
もう二度とこの場所へとは戻れないのだ。
だが二人にはやらなくてはいけない使命がある。
「……あの空の向こうの宙」
ぼそっと久は呟くと軽く瞳を閉じた。