第1章③揺れる午後の陽ざし
見えた未来を、もっとはっきりと覚えていればよかった。
剣の光。倒れた人影。血。
それだけでは、何も救えない。誰を守ればいいのか、何を変えればいいのか──わからない。
執務室の窓から差し込む光の中で、わたしは無言のまま思考を巡らせていた。
祖父も、セリウスも、動き出してはいる。それはきっと、あの夜の未来視を受けてのこと。
でも、わたしにはまだ何もできない。何も足りない。
わたしは、王女であるのに。
「アリお姉ちゃーん!」
不意に弾けるような声が廊下から響いた。扉が軽やかに開き、金色の巻き毛を揺らしながら、ティアナが駆け込んでくる。
「いたっ! やっぱりここだと思った!」
「ティアナ……どうしたの?」
「なんとなく、お姉ちゃんに会いたくなっちゃって!」
ティアナは屈託のない笑顔でわたしに飛びつくように抱きついた。わたしも思わず笑ってしまう。
──この国の第二王女、ティアナ・フィリシア。セドリック叔父上の娘で、わたしの従妹。
無邪気で、少しわがままで、でも憎めない、可愛らしい存在だ。
「ねえねえ、お姉ちゃん。おじいさまに会いに行こうよ!」
「……今?」
「うん! この間、すぐ帰っちゃって全然お話できなかったんだもん」
その言葉に、わたしはふと微笑んでうなずいた。
考えごとを続けるより、少し風を変えた方がいい気がした。
祖父の執務室を訪れると、アルディス陛下はすでに待っていたように、わたしたちを温かく迎えた。
「アリ、ティアナ。よく来たな。……ちょうど、お茶の時間だ」
テーブルには、紅茶と小さな焼き菓子が用意されていた。
わたしが座ると、ティアナはさっそく嬉しそうにカップを手に取る。
「わあ、おいしそう! ねえねえ、アリお姉ちゃん、こっちのクッキーも食べてみて!」
「ありがとう、ティアナ。……でも、そんなに急がなくても、お菓子は逃げないわよ」
「でも、おいしいうちに食べたいんだもんっ!」
祖父はその様子を優しく見つめながら、静かにカップを傾ける。
しばらくの間、平和な時間が流れていた。
ふいに、ティアナが口を開いた。
「そうだ。おじいさま、どうして視察行かなくなっちゃったの?」
空気が、少しだけ変わる。
祖父は一瞬言葉を探すようにしてから、穏やかな声で応じた。
「うむ、急ぎの政務が入ってな。残念だが、今回は見送ることにしたのだよ」
「ふーん……なんか、残念」
わたしは紅茶のカップをそっと置いた。
──やはり、あの未来が理由なのだ。祖父はわたしには言わなかったけれど。
ティアナは無邪気なまま、続けた。
「そういえば、この前ね。パパ、知らない人と会ってたよ。すっごく変な服の人!」
祖父の目が細くなった。
「……どんな人物だったか、覚えているかい?」
「うーん、顔はよく見えなかったけど……黒っぽいマント着てた。あと、パパとこそこそ話してたよ」
「そうか……ありがとう、ティアナ。よく覚えていてくれたな」
祖父の声には、わずかに張り詰めたものが混じっていた。
セドリック叔父上が、何かを動かしている──やはり、それは事実なのだ。
そんなときだった。扉が、重く開かれた。
「ティアナ。こんなところにいたのか」
その声に、ティアナがぴたりと動きを止める。
「パパ……」
セドリック叔父上が、ゆっくりと執務室に足を踏み入れた。
その顔にはいつもの微笑みがある。けれど、その目だけは笑っていなかった。
「おじいさまもアリエルもお忙しいのだから、あまり邪魔をしてはいけないよ」
「でも……まだ一緒にいたいの。アリお姉ちゃんとも、おじいさまとも、お話したい!」
「ティアナ」
セドリックの声が低くなる。
ティアナは少し不満そうな顔をしながら、わたしの手を握る。
「……アリお姉ちゃん、また遊ぼうね。すぐに、また来るから!」
わたしはうなずき、優しく彼女の手を握り返した。
「ええ、いつでも。……また、来てね」
セドリックはわたしたちに軽く頭を下げ、ティアナの肩に手を置いて部屋を後にした。
その背中を見送りながら、わたしは胸の中の静寂が、少しずつ崩れていくのを感じていた。
──それでも、笑顔を保ち続けなければならない。
わたしは、王女なのだから。