私の愛しいライオンくん
「動物園からライオンが逃げ出した模様です! 現在、警察などが捜索にあたり、付近の住民の皆様には外出を控えていただくようーー」
テレビでは女性アナウンサーが、緊張感のある声で話している。
「物騒だねぇ……」と、おばあちゃんが言う。
コタツに入り背中を丸めて、ずずっとお茶を飲んでいた。
遠くの空を飛んでいるヘリコプターの音が、パタパタパタ……と聞こえる。
パトカーのサイレンが町を巡回し、拡声器の声が部屋の中まで届いてくる。
「危険なので、絶対に外に出ないでください!」
その声に、おばあちゃんは思わず身を縮めた。
「こわいわねぇ……」
ふと、コタツで一緒にテレビを見ている、ある存在に目を向けた。
「ばあちゃん、世の中って本当に怖いことばっかりだ」
人懐っこい声色で、軽やかな口調。
ぱくぱくもぐもぐ、とミカンを食べると、大きなあくびをした。
フワフワとした金色のタテガミが揺れている。
それを見ておばあちゃんは思わず微笑む。
ーーまだ彼女は気づいていなかった。
「ばあちゃん」と呼ぶ相手が、ニュースを賑わせている張本人だということに。
◇
彼はそっと窓の外を覗いてみた。
町中がサイレンの音で響きわたり、空には何機ものヘリコプターが旋回している。
テレビで大騒ぎになっているのは、どうやら自分のことらしい。
鼻先をひくひくさせて、少し心配そうに肩をすくめた。
「まったく、ちょっと散歩に出ただけなのに、こんな大事になっちゃうなんてさ……」
動物園で、退屈しのぎに檻をガシガシ触っていたら、思いがけず扉が開いてしまったのだ。
せっかくだからと気軽な気持ちで抜け出しただけなのに、気がつけば町中で「ライオン脱走!」と大パニック。
もし警察に見つかったら、すぐに捕まるか、もっと怖いことになるかもしれない。
その想像だけで背筋がゾワッと寒くなった。
けれど今は、コタツの中でぬくぬくと温まっている。
日本の家にこんな素敵な物があるなんて知らなかった……と大きな体を丸めて、ウトウトと眠くなってしまう。
「ばあちゃんの家で良かったよ、ほんと……」
ーーこの家に辿り着いたのは偶然だった。
脱走してすぐ、警察の目を避けようと必死で住宅街を走り回った。
そのとき開いていたドアが、おばあちゃんの家だった。
「あら、お客さんかしら? 外は寒いでしょう。おあがりなさいな」
彼女は玄関にいた彼を見ると、優しく家に招いてくれた。
みかんを出してくれたり、お茶を淹れてくれたり、とても親切にしてくれる。
「いつまでこうしていられるかなぁ……」
少し不安になったが、「何かあったら、その時はまた考えればいい」と思うようにする。
ライオンの名に恥じないよう、今はこの暖かいコタツに入り、ミカンを食べよう。
◇
おばあちゃんは、眠そうに体を揺らしている彼の姿を、そっと見つめていた。
長らく一人暮らしの静かな日々を過ごしていると、久しぶりの来客は嬉しくなる。
「そういえば、お名前は、何というのかしら……?」
今までこの大切な質問を忘れていた。
年を重ねると、こういうことばかりねと、困ったように微笑む。
すると彼の眼が、ぱちりと開いた。
大きな琥珀色の瞳が、涙にゆれて綺麗だと彼女は思う。
「名前かぁ……。みんなから『ライオンくん』って呼ばれてるから、ばあちゃんもそう呼んでくれないかな?」
「まぁ、可愛らしいお名前だこと。それに、珍しいわ。外国の方なのかしらねぇ……」
ライオンくんは、「ガウ☆ガウ」と返事をしたあと、「へへっ」と嬉しそうに笑った。
「私は、仁科ふみっていうの。もう80歳になって、耳も遠いし、動きもゆっくりになってしまってねぇ……」
そう言いながら、自分の白髪に触れた。
ライオンくんの綺麗な金髪がうらやましいと思う。
「それでね、もし私が同じことを何度も聞いても、怒らないでちょうだいね。最近とても物忘れがひどくて……」
「ばあちゃん、俺、お年寄りが大好きなんだ。こうしていると、なんだか落ち着くんだよ」
その言葉に、彼女は思わずくすっと笑った。
かつて家に人が多かった頃を思い出し、胸の奥がほんのりと温かくなる。
誰かがそばにいてくれるだけで、こんなにも心が明るくなるものね……と感じた。
「はい、どうぞ。あまり熱くないように入れたから、飲みやすいと思うわ」
お茶を差し出しながら、優しく声をかける。
ライオンくんは大きな手で湯呑を丁寧に受け取り、そっとすすった。
「うん、美味しいよ。前の場所じゃ、こんなお茶飲めなかったなぁ」
「どうぞ、ゆっくりしていってね」
彼女は湯呑に映る緑茶の揺らめきを見つめながら、そっと目を細める。
湯気とともに、ほのぼのとした空気が静かに流れる。
こんなゆったりとした時間が、大好きだった。
おばあちゃんは穏やかな気持ちで目を閉じる。
◇
ライオンくんはコタツから顔だけ出して、大きなあくびをした。
「ガオ☆ガオ☆ガオオ~」
部屋の窓がビリビリッと揺れた。
「ばあちゃん、聞きたいことがあるんだけど……」
彼女はのんびりと、ライオンくんを見る。
「ばあちゃんは、この家でずっとひとりなの? 家族の人とかは……?」
胸の中で、ずっと引っかかっていた疑問だった。
みかんの皮をむき終えたおばあちゃんは、手を止めて、少し物憂げな表情を見せた。
「昔はねぇ……」
彼女は遠い目をして天井を見上げながら、静かに語り始めた。
「この家には、お父さんも、子どもたちもいたのよ。みんなで賑やかに、暮らしていたんだけど……。気がついたら私だけ、残されちゃったの」
穏やかな口調だったけれど、どこか切ない。
「そうだったんだ……」
それ以上の言葉が見つからなかった。
ライオンくんも、故郷のサバンナで家族や仲間との別れを経験している。
大きな尻尾を静かに揺らしながら、ライオンくんは言う。
「寂しくなかった? ばあちゃん」
その問いかけに、彼女は柔らかな微笑みを浮かべた。
「寂しい日もあるけれどねぇ……。でも生きていれば、きっとまた、楽しいことも待っているって思うの」
その言葉に、ライオンくんの胸がぎゅっと熱くなった。
◇
「ねえ、あなたは……どこから来たの?」
おばあちゃんは聞いてみた。
ライオンくんは少しだけ考え込み、遠い目をして話し始める。
「俺の故郷は、アフリカのサバンナなんだ。どこまでも続く緑の草原に、青空が世界の果てまで広がっているような場所なんだよ」
さばんな……? どこかしらねぇと彼女は思った。
「そこは、どんなところなの?」
故郷の話をするのが嬉しいのだろう、ライオンくんは誇らしげに胸を膨らませた。
「朝焼けや夕焼けが、大きな空を染めるんだ。みんな必死で生きていた。自由な世界だけど、とても厳しい場所でもあるんだ」
彼女は耳を傾けながら、ゆっくりとお茶をすすり、草原の風景を思い浮かべる。
「生きるために狩りをしなきゃいけないし、敵も多いんだ。水を探して、ずっと歩き続けたこともあった。でも、どこまでも続く空と大地は……なんというか、本当に自由だったんだ」
自由、という言葉を口にしたとき、ライオンくんの瞳が懐かしそうに細まる。
「まるで夢物語みたいねぇ……。そんな遠いところから来たなんて……」
「でも、いろんなことがあって日本に来たんだ。故郷に比べたら、おばあちゃんの家は天国みたいだよ。特にコタツは最高だね! ガウ☆ガウ!」
ライオンくんの言葉に、おばあちゃんは思わず微笑んだ。
◇
ライオンくんは、コタツに入って横になり、ゆっくりと目を閉じた。
まどろみの中で、遥か遠い、アフリカのサバンナの風景が浮かび上がる。
「昔は、本当に命がけだったなぁ」
幼い頃は無邪気に走り回り、群れの仲間と遊んだり、狩りの練習に励んだり、毎日が土と太陽の香りに包まれていた。
ーーだが日常は突然、崩れ去った。
あの日、ライオンくんは夕暮れの空を眺めていた。
乾いた大地にどっしりと腰を下ろし、一人で遠くを見つめていた。
その時、轟音が響き渡る。
体が大きく揺れて倒れ込み、後になってそれが「銃声」だと知った。
茂みに潜んでいた密猟者に狙われたのだ。
熱い血が流れ出し、意識が朦朧とする中、必死に逃げようともがいた。
でも足が思うように動かない。
空は一面、夕焼けの茜色に染まっていた。
「もう、ダメかも……」
それが故郷での最後の記憶だった。
意識がはっきりした頃には、冷たい檻の中にいた。
ーーサバンナでは想像もできなかった、動物園での日々が始まる。
決まった時間に餌がもらえ、飼育員さんは笑顔で、「今日も元気?」と声をかけてくれる。
檻の外から大勢の人々が覗き込み、スマートフォンやカメラを向けてくる。
最初は落ち着かなかったが、そのうち気にもしなくなった。
そうして月日を重ねるうちに、「故郷に戻りたい」という思いは薄れていった。
自由に走り回れない代わりに、安らぎのある生活も悪くないと思えるようになったのだ。
ライオンくんは、コタツで寝転びながら、大きく伸びをした。
「だけど、サバンナや動物園よりも、ばあちゃんの家の方が、自由も安らぎもありそうだな」
ライオンくんは、コタツ布団を引きよせて丸まりながら、ほろ苦く微笑んだ。
故郷の焼けつくような暑さとも、動物園のひんやりとしたコンクリートとも違う、コタツの温もり。
「ライオンくん。お茶を入れたけど、飲む?」
おばあちゃんの優しい口調に、ライオンくんは笑顔で答える。
「うん、もらおうかな。ばあちゃんのお茶、美味しいんだ! ガウ☆ガウ!」
◇
おばあちゃんは、温かい湯呑を両手で包み込みながら、コタツでくつろぐライオンくんを静かに見つめていた。
動物園から脱走したライオンについて、テレビから報道をする声が聞こえる。
遠くからヘリコプターの音も聞こえるが、この家の中だけは不思議なほど穏やかだった。
「ねえ、あなた……。帰るおうちは、あるのかしら?」
ライオンくんはその質問に、一瞬驚いた。
「帰る場所は、ないかなぁ……。うーん、あそこに戻るのは……。まずいよなぁ」
小さな声で呟くライオンくん。
「そうなの……? 行くところ、ないの……?」
優しく問いかけると、ライオンくんは困った様子でうつむいたまま、尻尾をそわそわと動かし始めた。
「実は、行く当てもなくてさ……。サバンナは遠いみたいだし……。どうしようかって考えてたんだ」
ライオンくんは帰る家がなくて寂しそう。
だけど、帰る家はあるのに、寂しいのは私も同じね……、と思った。
おばあちゃんはただ目の前にいる、大きな子どものようなライオンくんを、そっと抱きしめたい気持ちでいっぱいだった。
「……じゃあね、しばらくうちで、暮らすのはどう?」
思わず言葉が出たとき、自分でも驚いた。
こんな老人と一緒に暮らしても、嫌よねぇ……、と思う。
そう思ってライオンくんを見ると、大きな体を震わせていた。
「ばあちゃん……。俺、ここにいて、いいの……?」
ライオンくんの黄金の瞳から、今にも涙があふれ出そうとしていた。
おばあちゃんは、しわの刻まれた目尻を優しく細めて、小さくうなずく。
「いいのよ……。私一人じゃ、どうせ退屈だもの。あなたがいてくれると、きっと楽しくなるわ」
「本当に? ありがとう、ばあちゃん! ガウ☆ガウ☆ガウ!」
ライオンくんは大きな尻尾を嬉しそうに揺らし、目から滝のように涙を流した。
その姿を見て、自然と笑みがこぼれる。
まるで孫を見ているような、温かさが胸に広がった。
「じゃあ……、これからよろしくね、ライオンくん」
こうして、愉快で可愛いライオンくんとの生活がはじまった。
◇
朝の九時を少し回ったばかり。
ライオンくんは、いつものようにコタツに入り寝転んでいた。
ぼんやりとテレビのチャンネルを切り替えながら、至福の時間を過ごしている。
おばあちゃんは、毎朝五時には起床する。
今頃はもう洗濯も終わり、庭の花の手入れをしているのだろう。
ライオンくんも手伝えることは精一杯こなしていた。
高い場所の荷物を取り下ろしたり、お風呂場の掃除をしてピカピカに磨いたり。
ふさふさの尻尾でホコリを払うと、「あらまあ、助かるわねぇ!」と喜んでくれる。
この家の何もかもが居心地よかった。
動物園から抜け出して一週間以上が経過した。
最近は巡回するパトカーの数も減っている。
ーーしかし、そんな平穏な日々に、不穏な影が忍び寄っていた。
ここ数日ライオンくんは家の周辺で、誰かが徘徊している気配を感じていた。
そしてある夕暮れ、事件が起きた。
買い物から戻ったおばあちゃんが、玄関の戸を閉め忘れていたようだ。
その隙を狙っていたかのように、突然ヘルメット姿の男が居間へ飛び込んできた。
「金を出せ!」
ナイフを突きつけながら、男は叫んだ。
その目がライオンくんの姿を捉えた瞬間、動きが止まる。
――コタツに鎮座するライオン。
そんな非現実的な光景に、男の顔は見る見る蒼白に変わっていく。
ライオンくんにとっても強盗を見るのは初めてで、しばらく互いに見つめ合う。
やがてライオンくんは大きく口を開け、あくびをした。
「ガウウウウウウウ~☆」
部屋の壁が振動するような轟音に、男は「うわああああああああ!」と絶叫。
ナイフを投げ捨てて四つん這いになると、そのまま玄関へと逃げ去っていった。
「なんだか変わったお客さんだったわねぇ……」
お茶を飲みながら、おばあちゃんは呟いた。
コタツから身を起こしたライオンくんは、タテガミを軽く撫で下ろしながら決意をした。
このまま逃がせば、また襲ってくる可能性もある。
大切なおばあちゃんを危険な目に遭わせるわけにはいかない。
「俺、ちょっと散歩してくるね」
そう告げると、玄関先へと飛び出した。
動物園を抜け出して以来、家の外を出歩くのは初めてだった。
鼻を空気中でひくつかせ、ライオンくんは男の匂いを追って走り出した。
◇
真っ暗な路地裏を、男は息を切らせながら全力で駆けていた。
「こんなはずじゃなかった……」
情報では、ボケている老婆が一人で暮らしていると聞いていた。
誰にでも簡単に稼げると教えられた、闇バイトの仕事だった。
ちょっと脅して金品を奪う――そんな計画が一瞬で崩れ去る。
あの家に踏み込んだ瞬間、そこにいたのは想像すらしていなかった「凶暴な猛獣」。
信じられないことに百獣の王ライオンが、コタツにすっぽりと収まっていたのだ。
「話が……違うじゃねえか……!」
ボスに連絡を取ろうと、携帯電話に手を伸ばす。
走りながらポケットを探っていると、「ドンッ!」という鈍い衝撃とともに吹き飛ばされ、尻もちをついてしまった。
「いてて……。何にぶつかったんだ?」
頭を振りながら見ると、そこには二本足で立つ、ライオンの姿があった。
夜風になびくタテガミ、まるで仁王像のような威風堂々とした佇まい。
「う、嘘だろ……? なんでこんな路地裏に、ライオンが……っ!」
恐怖でパニックになった彼は、咄嗟に身を起こすと「うわああああ!」という絶叫とともに全力で走り出した。
あと数メートルで大通りという場所に来たとき、思わず後ろを振り返ると……。
――ライオンが人間のように、二本脚でシュババッ! と走って追いかけてくる。
「嘘だろおおおお!」
悲鳴を上げながら、必死に走る速度を上げる。
だがライオンの最高速度は、時速50キロを優に超える。
100m走なら、約7秒で駆け抜ける。
真後ろに存在を感じた瞬間、男の身体は地面へと投げ出された。
「た、助けてくれ……」
かすれた声で懇願するが、ライオンは容赦なく近づいてくる。
ガル☆ガルと口を開き、鋭い牙をちらつかせる。
「た、食べないでくれええ!」
ーーそして気を失う寸前……。
「人間なんて食べるわけないだろ……」という声が聞こえた気がした。
男の意識が戻ったとき、警察署の前で横たわっていた。
うめき声を漏らしながら目を開けると、数人の警官が首を傾げて立ち尽くしている。
その後、前科がバレた男は当然のように拘留された。
取り調べ室で「ライオンが……」と繰り返しても、話を聞く者など誰一人いなかった。
◇
強盗事件から一か月が過ぎた頃。
荷物を両手に提げながら、仁科裕司は古びた家の玄関を開けた。
先日警察から連絡があり、実家の周りをうろついていた不審者が捕まったから、警戒をした方が良いと言われやって来た。
「ただいま! 母さん、久しぶり」
外は冷たい風が吹いていたが、一歩中に入ると、懐かしい匂いに思わずほっとする。
数年ぶりの帰省だったが、家の中はまったく変わっていない。
胸に広がる懐かしさを噛みしめながら、居間へと続く襖をそっと開いた。
――その瞬間、思いもよらない光景が目の前に広がる。
コタツを挟んで向かい合う二つのシルエット。
一方は小柄で、背中の丸い母親の姿。
もう一方は、どう見ても「巨大な獣」の姿だった。
金色のタテガミをフワリと揺らし、堂々とした体格のそれは……。
――間違いなくライオン。
「うわああああああ!」
驚きのあまり、彼の声が裏返る。
「母さん! なんで家に、ライオンがっ……!」
するとライオンは、のんびりと大きな口を開けて、みかんを丸ごとパクリと頬張った。
「ん……? あら、ずいぶん久しぶりねぇ……。元気にしていた?」
母はまるで何ごともないように、笑みを浮かべている。
「いやいや、母さん! ライオンだよ、猛獣だよ! どうなってるのこれ!」
顔を真っ赤にして叫ぶものの、母はまったく動じない。
「うふふ。彼はライオンくんっていうのよ? しばらくうちで暮らしているの」
さらりと言い放つその言葉に、膝から力が抜けそうになる。
「ライオンくんって……本当にライオンだろ? 母さん、分かってるの?」
「ええ、そうよ。外国からいらしたんですって」
「どうも、こんちわッス。俺がライオンくんです。ばあちゃんには、色々お世話になってま~ッス」
一瞬、時が止まったように感じた。
ライオンが流暢な日本語を話すなど、おとぎ話の世界にでも紛れ込んだんだろうか。
「ラ、ライオンが……喋った……!」
「お茶、入れてこようかしら……。ちょっと待ってねぇ……」
母は何事もないかのようにゆったりと立ち上がり、台所へと向かっていく。
居間に取り残され立ち尽くすと、恐ろしい獣と視線が交わった。
「俺、ほんとにライオンなんスけど、怪しい者じゃないんで……」
ライオンが笑うと、その牙がギラリと白く光る。
道端でこんな相手と出くわしたら、と想像するだけでゾッとする。
どうして母がこんな猛獣を家に住まわせているのか。
いや、その前に、なぜライオンが普通に会話をしているのか。
疑問が次々と湧き上がる。
やがて、母がゆっくりとした足取りで戻ってきた。
お茶を注ぎながら、にこやかに息子の顔を見た。
「はい、裕司。熱いから気をつけて飲んでちょうだいねぇ……。あら、顔が真っ青よ?」
「息子さんも、みかん食べます? 皮ごとパクッといけますよ。俺、いつもこうやって食べちゃうんスけど」
あまりの自然な会話に「あ、ああ……」と曖昧にうなずくのが精一杯だった。
……いったい、どうなってるんだ、この家は……。
やがて母は、「こっちにきて、座ったら?」と声をかけた。
ライオンも「ガウ☆ガウ! ぜひ一緒にコタツ入りましょうよ」と言い、しっぽを嬉しそうに振っている。
「……わ、分かったよ」
とりあえず今は、おとなしくコタツに入ることにした。
◇
ライオンくんは、隣に座った男を見ていた。
白髪交じりの彼は、おばあちゃんの子どもらしい。
ふと、さっき彼が落とした紙袋に気がついた。
――なんか美味しそうな香りがするぞ……。
長い尻尾をするりと伸ばして拾い上げてみる。
包み紙に書かれた、「たい焼き」という文字が目に飛び込んできた。
甘い香りに誘われて、つい一つパクリ。
サクサクした生地と、中からこぼれ出るアンコの甘みが絶妙だ。
こんな美味しい魚は初めてだった。
「こら! 勝手に人の持ち物に手を出すな!」
「え? これってお土産じゃないの?」
「おまえに買ってきたわけじゃない! そもそもおまえは何者だ? どうして人間の言葉を話せるんだ!」
ライオンくんは当たり前のように答えた。
「だから俺はライオンくん。ガウ☆ガウ! ばあちゃんにはお世話になってるんだ」
「母さん、危険すぎる! 早く警察に通報したほうがいい!」
その言葉に、おばあちゃんは首を傾げながらも、優しい笑みを浮かべる。
「あらあら、ライオンくんは良い子よ? 家の手伝いもしてくれるし」
しかし息子は不安げな表情のまま、ライオンくんを指差し続ける。
「こいつは猛獣なんだ! いつ母さんを襲うか分からないじゃないか!」
その言い方に、ライオンくんは思わずムッとした。
「俺がばあちゃんを、傷つけるわけないだろ……」
「そんなの分からない! おまえはライオンだぞ! いつ本性を表すか分からないんだ!」
息子は頬を引きつらせたまま、怒りを隠せない。
ライオンくんはため息をつきながら、タテガミを軽く撫でる。
「本当にただ一緒に暮らしてるだけだよ。それに、そんなにばあちゃんが心配なら、もっと早く会いに来ればよかったんじゃないか? ばあちゃん、ずっと一人ぼっちだったんだぜ?」
その一言が図星だったのか、彼は言葉に詰まる。
「仕方ないだろ……。仕事が忙しかったんだ……。人間には、色々あるんだよ……」
「人間も動物だろ? 家族を大切にできない奴なんて、あんまり格好良くないぞ」
「まあまあ、せっかく来てくれたんだから、ゆっくりしていけばいいのよ。美味しいみかんをたくさん買ってあるの」
おばあちゃんが温かいお茶を差し出しながら、にっこりと微笑んだ。
まったく、親子なのにぜんぜん似てないなぁ……と、ライオンくんは尻尾を揺らしながら考える。
ばあちゃんはいつものんびりとして優しい雰囲気なのに、息子は神経質でせっかち。
でも、これも人間という生き物の面白いところなのかもしれない。
コタツの上には、おばあちゃんが買ってくれた甘いみかんが山盛りと、息子が買ってきたたい焼きがある。
「どうぞ、食べてねぇ……」
優しい声に誘われライオンくんは、ミカンとたい焼きを交互に口の中に放り込み、幸せそうに、ぱくぱくもぐもぐと食べる。
その様子に息子は目を丸くしているが、しばらくしてこう言った。
「母さんが良いなら……まあ、いいか……」
◇
おばあちゃんは背中を丸めながら、急須にお湯を注いだ。
立ち上る湯気が、茶葉の香りを運び、優しく鼻先をくすぐる。
コタツを囲むように、息子とライオンくんが向かい合って座っている。
その様子を横目で見ながらコタツに戻り、ゆっくりと新しいお茶を注いでいく。
「はい、どうぞ。熱いから気をつけて飲んでねぇ……」
息子の前に湯呑を置いた後、ライオンくんにも「いる?」と声をかける。
ちょうどたい焼きを頬張っているらしく、甘い香りが漂ってくる。
「久しぶりに、人が集まって楽しいわねぇ……」
彼女は溜息をついて呟いた。
息子家族も仕事が忙しく、正月やお盆ですら帰ってこなくなった。
でも、今は違う。
ライオンくんが一緒に暮らしてくれて、そこに久しぶりに息子も顔を見せた。
まるで昔のような賑やかさが戻り、懐かしさに心までぽかぽかと温まっていく。
「俺も楽しいぞ♪」
ライオンくんはたい焼きを飲みこんで、陽気に応える。
「まるで昔みたいに、家族がそろった気がするわ……」
静かに呟きながら、湯呑を手に取る。
緑茶の優しい香りが立ち込める。
うっすらと夫の面影を思い返しながら、茶の間の様子を見つめる。
「ライオンくん、ずっと一緒に暮らせたらいいわねぇ……」
小さくつぶやくと、ライオンくんが「ん?」と耳をピクリと動かした。
彼女は微笑んで、「ああ、なんでもないのよ……」と言葉を濁す。
彼は「ガウ☆ガウ!」と楽しそうに鳴いた。
そんな様子を見て、おばあちゃんはそっと目を細める。
いつの間にか、止まっていた時を刻む針が、また動き出したように感じられる。
静まり返っていた家に再び賑わいが戻り、心の奥に、ぽっと小さな灯がともる。
長い間求めていた家族の温もりが、思いがけない形で、この茶の間に戻ってきたのだ。
それは、まるで小さな奇跡のような出来事だった。
おばあちゃんは穏やかな気持ちで目を閉じる。
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