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私の愛しいライオンくん

作者: サバ寿司

「動物園からライオンが逃げ出した模様です! 現在、警察などが捜索にあたり、付近の住民の皆様には外出を控えていただくようーー」



 テレビでは女性アナウンサーが、緊張感のある声で話している。



「物騒だねぇ……」と、おばあちゃんが言う。



 コタツに入り背中を丸めて、ずずっとお茶を飲んでいた。


 遠くの空を飛んでいるヘリコプターの音が、パタパタパタ……と聞こえる。


 パトカーのサイレンが町を巡回し、拡声器の声が部屋の中まで届いてくる。



「危険なので、絶対に外に出ないでください!」



 その声に、おばあちゃんは思わず身を縮めた。



「こわいわねぇ……」



 ふと、コタツで一緒にテレビを見ている、ある存在に目を向けた。



「ばあちゃん、世の中って本当に怖いことばっかりだ」



 人懐っこい声色で、軽やかな口調。


 ぱくぱくもぐもぐ、とミカンを食べると、大きなあくびをした。


 フワフワとした金色のタテガミが揺れている。


 それを見ておばあちゃんは思わず微笑む。



ーーまだ彼女は気づいていなかった。



「ばあちゃん」と呼ぶ相手が、ニュースを賑わせている張本人だということに。







 彼はそっと窓の外を覗いてみた。


 町中がサイレンの音で響きわたり、空には何機ものヘリコプターが旋回している。


 テレビで大騒ぎになっているのは、どうやら自分のことらしい。


 鼻先をひくひくさせて、少し心配そうに肩をすくめた。



「まったく、ちょっと散歩に出ただけなのに、こんな大事になっちゃうなんてさ……」



 動物園で、退屈しのぎに檻をガシガシ触っていたら、思いがけず扉が開いてしまったのだ。


 せっかくだからと気軽な気持ちで抜け出しただけなのに、気がつけば町中で「ライオン脱走!」と大パニック。


 もし警察に見つかったら、すぐに捕まるか、もっと怖いことになるかもしれない。


 その想像だけで背筋がゾワッと寒くなった。


 けれど今は、コタツの中でぬくぬくと温まっている。


 日本の家にこんな素敵な物があるなんて知らなかった……と大きな体を丸めて、ウトウトと眠くなってしまう。



「ばあちゃんの家で良かったよ、ほんと……」



ーーこの家に辿り着いたのは偶然だった。



 脱走してすぐ、警察の目を避けようと必死で住宅街を走り回った。


 そのとき開いていたドアが、おばあちゃんの家だった。



「あら、お客さんかしら? 外は寒いでしょう。おあがりなさいな」



 彼女は玄関にいた彼を見ると、優しく家に招いてくれた。


 みかんを出してくれたり、お茶を淹れてくれたり、とても親切にしてくれる。



「いつまでこうしていられるかなぁ……」



 少し不安になったが、「何かあったら、その時はまた考えればいい」と思うようにする。


 ライオンの名に恥じないよう、今はこの暖かいコタツに入り、ミカンを食べよう。







 おばあちゃんは、眠そうに体を揺らしている彼の姿を、そっと見つめていた。


 長らく一人暮らしの静かな日々を過ごしていると、久しぶりの来客は嬉しくなる。



「そういえば、お名前は、何というのかしら……?」



 今までこの大切な質問を忘れていた。


 年を重ねると、こういうことばかりねと、困ったように微笑む。


 すると彼の眼が、ぱちりと開いた。


 大きな琥珀色の瞳が、涙にゆれて綺麗だと彼女は思う。



「名前かぁ……。みんなから『ライオンくん』って呼ばれてるから、ばあちゃんもそう呼んでくれないかな?」


「まぁ、可愛らしいお名前だこと。それに、珍しいわ。外国の方なのかしらねぇ……」



 ライオンくんは、「ガウ☆ガウ」と返事をしたあと、「へへっ」と嬉しそうに笑った。



「私は、仁科ふみっていうの。もう80歳になって、耳も遠いし、動きもゆっくりになってしまってねぇ……」



 そう言いながら、自分の白髪に触れた。


 ライオンくんの綺麗な金髪がうらやましいと思う。



「それでね、もし私が同じことを何度も聞いても、怒らないでちょうだいね。最近とても物忘れがひどくて……」


「ばあちゃん、俺、お年寄りが大好きなんだ。こうしていると、なんだか落ち着くんだよ」



 その言葉に、彼女は思わずくすっと笑った。


 かつて家に人が多かった頃を思い出し、胸の奥がほんのりと温かくなる。


 誰かがそばにいてくれるだけで、こんなにも心が明るくなるものね……と感じた。



「はい、どうぞ。あまり熱くないように入れたから、飲みやすいと思うわ」



 お茶を差し出しながら、優しく声をかける。


 ライオンくんは大きな手で湯呑を丁寧に受け取り、そっとすすった。



「うん、美味しいよ。前の場所じゃ、こんなお茶飲めなかったなぁ」


「どうぞ、ゆっくりしていってね」



 彼女は湯呑に映る緑茶の揺らめきを見つめながら、そっと目を細める。


 湯気とともに、ほのぼのとした空気が静かに流れる。


 こんなゆったりとした時間が、大好きだった。


 おばあちゃんは穏やかな気持ちで目を閉じる。







 ライオンくんはコタツから顔だけ出して、大きなあくびをした。



「ガオ☆ガオ☆ガオオ~」



 部屋の窓がビリビリッと揺れた。



「ばあちゃん、聞きたいことがあるんだけど……」



 彼女はのんびりと、ライオンくんを見る。



「ばあちゃんは、この家でずっとひとりなの? 家族の人とかは……?」



 胸の中で、ずっと引っかかっていた疑問だった。


 みかんの皮をむき終えたおばあちゃんは、手を止めて、少し物憂げな表情を見せた。



「昔はねぇ……」



 彼女は遠い目をして天井を見上げながら、静かに語り始めた。



「この家には、お父さんも、子どもたちもいたのよ。みんなで賑やかに、暮らしていたんだけど……。気がついたら私だけ、残されちゃったの」



 穏やかな口調だったけれど、どこか切ない。



「そうだったんだ……」



 それ以上の言葉が見つからなかった。


 ライオンくんも、故郷のサバンナで家族や仲間との別れを経験している。


 大きな尻尾を静かに揺らしながら、ライオンくんは言う。



「寂しくなかった? ばあちゃん」



 その問いかけに、彼女は柔らかな微笑みを浮かべた。



「寂しい日もあるけれどねぇ……。でも生きていれば、きっとまた、楽しいことも待っているって思うの」



 その言葉に、ライオンくんの胸がぎゅっと熱くなった。







「ねえ、あなたは……どこから来たの?」



 おばあちゃんは聞いてみた。


 ライオンくんは少しだけ考え込み、遠い目をして話し始める。



「俺の故郷は、アフリカのサバンナなんだ。どこまでも続く緑の草原に、青空が世界の果てまで広がっているような場所なんだよ」



 さばんな……? どこかしらねぇと彼女は思った。



「そこは、どんなところなの?」



 故郷の話をするのが嬉しいのだろう、ライオンくんは誇らしげに胸を膨らませた。



「朝焼けや夕焼けが、大きな空を染めるんだ。みんな必死で生きていた。自由な世界だけど、とても厳しい場所でもあるんだ」



 彼女は耳を傾けながら、ゆっくりとお茶をすすり、草原の風景を思い浮かべる。



「生きるために狩りをしなきゃいけないし、敵も多いんだ。水を探して、ずっと歩き続けたこともあった。でも、どこまでも続く空と大地は……なんというか、本当に自由だったんだ」



 自由、という言葉を口にしたとき、ライオンくんの瞳が懐かしそうに細まる。



「まるで夢物語みたいねぇ……。そんな遠いところから来たなんて……」


「でも、いろんなことがあって日本に来たんだ。故郷に比べたら、おばあちゃんの家は天国みたいだよ。特にコタツは最高だね! ガウ☆ガウ!」



 ライオンくんの言葉に、おばあちゃんは思わず微笑んだ。







 ライオンくんは、コタツに入って横になり、ゆっくりと目を閉じた。


 まどろみの中で、遥か遠い、アフリカのサバンナの風景が浮かび上がる。



「昔は、本当に命がけだったなぁ」



 幼い頃は無邪気に走り回り、群れの仲間と遊んだり、狩りの練習に励んだり、毎日が土と太陽の香りに包まれていた。



ーーだが日常は突然、崩れ去った。



 あの日、ライオンくんは夕暮れの空を眺めていた。


 乾いた大地にどっしりと腰を下ろし、一人で遠くを見つめていた。


 その時、轟音が響き渡る。


 体が大きく揺れて倒れ込み、後になってそれが「銃声」だと知った。


 茂みに潜んでいた密猟者に狙われたのだ。


 熱い血が流れ出し、意識が朦朧とする中、必死に逃げようともがいた。


 でも足が思うように動かない。


 空は一面、夕焼けの茜色に染まっていた。



「もう、ダメかも……」



 それが故郷での最後の記憶だった。


 意識がはっきりした頃には、冷たい檻の中にいた。



ーーサバンナでは想像もできなかった、動物園での日々が始まる。



 決まった時間に餌がもらえ、飼育員さんは笑顔で、「今日も元気?」と声をかけてくれる。


 檻の外から大勢の人々が覗き込み、スマートフォンやカメラを向けてくる。


 最初は落ち着かなかったが、そのうち気にもしなくなった。


 そうして月日を重ねるうちに、「故郷に戻りたい」という思いは薄れていった。


 自由に走り回れない代わりに、安らぎのある生活も悪くないと思えるようになったのだ。


 ライオンくんは、コタツで寝転びながら、大きく伸びをした。



「だけど、サバンナや動物園よりも、ばあちゃんの家の方が、自由も安らぎもありそうだな」



 ライオンくんは、コタツ布団を引きよせて丸まりながら、ほろ苦く微笑んだ。


 故郷の焼けつくような暑さとも、動物園のひんやりとしたコンクリートとも違う、コタツの温もり。



「ライオンくん。お茶を入れたけど、飲む?」



 おばあちゃんの優しい口調に、ライオンくんは笑顔で答える。



「うん、もらおうかな。ばあちゃんのお茶、美味しいんだ! ガウ☆ガウ!」







 おばあちゃんは、温かい湯呑を両手で包み込みながら、コタツでくつろぐライオンくんを静かに見つめていた。


 動物園から脱走したライオンについて、テレビから報道をする声が聞こえる。


 遠くからヘリコプターの音も聞こえるが、この家の中だけは不思議なほど穏やかだった。



「ねえ、あなた……。帰るおうちは、あるのかしら?」



 ライオンくんはその質問に、一瞬驚いた。



「帰る場所は、ないかなぁ……。うーん、あそこに戻るのは……。まずいよなぁ」



 小さな声で呟くライオンくん。



「そうなの……? 行くところ、ないの……?」



 優しく問いかけると、ライオンくんは困った様子でうつむいたまま、尻尾をそわそわと動かし始めた。



「実は、行く当てもなくてさ……。サバンナは遠いみたいだし……。どうしようかって考えてたんだ」



 ライオンくんは帰る家がなくて寂しそう。


 だけど、帰る家はあるのに、寂しいのは私も同じね……、と思った。


 おばあちゃんはただ目の前にいる、大きな子どものようなライオンくんを、そっと抱きしめたい気持ちでいっぱいだった。



「……じゃあね、しばらくうちで、暮らすのはどう?」



 思わず言葉が出たとき、自分でも驚いた。


 こんな老人と一緒に暮らしても、嫌よねぇ……、と思う。


 そう思ってライオンくんを見ると、大きな体を震わせていた。



「ばあちゃん……。俺、ここにいて、いいの……?」



 ライオンくんの黄金の瞳から、今にも涙があふれ出そうとしていた。


 おばあちゃんは、しわの刻まれた目尻を優しく細めて、小さくうなずく。



「いいのよ……。私一人じゃ、どうせ退屈だもの。あなたがいてくれると、きっと楽しくなるわ」


「本当に? ありがとう、ばあちゃん! ガウ☆ガウ☆ガウ!」



 ライオンくんは大きな尻尾を嬉しそうに揺らし、目から滝のように涙を流した。


 その姿を見て、自然と笑みがこぼれる。


 まるで孫を見ているような、温かさが胸に広がった。



「じゃあ……、これからよろしくね、ライオンくん」



 こうして、愉快で可愛いライオンくんとの生活がはじまった。







 朝の九時を少し回ったばかり。


 ライオンくんは、いつものようにコタツに入り寝転んでいた。


 ぼんやりとテレビのチャンネルを切り替えながら、至福の時間を過ごしている。


 おばあちゃんは、毎朝五時には起床する。


 今頃はもう洗濯も終わり、庭の花の手入れをしているのだろう。


 ライオンくんも手伝えることは精一杯こなしていた。


 高い場所の荷物を取り下ろしたり、お風呂場の掃除をしてピカピカに磨いたり。


 ふさふさの尻尾でホコリを払うと、「あらまあ、助かるわねぇ!」と喜んでくれる。


 この家の何もかもが居心地よかった。


 動物園から抜け出して一週間以上が経過した。


 最近は巡回するパトカーの数も減っている。



ーーしかし、そんな平穏な日々に、不穏な影が忍び寄っていた。



 ここ数日ライオンくんは家の周辺で、誰かが徘徊している気配を感じていた。


 そしてある夕暮れ、事件が起きた。


 買い物から戻ったおばあちゃんが、玄関の戸を閉め忘れていたようだ。


 その隙を狙っていたかのように、突然ヘルメット姿の男が居間へ飛び込んできた。



「金を出せ!」



 ナイフを突きつけながら、男は叫んだ。


 その目がライオンくんの姿を捉えた瞬間、動きが止まる。



――コタツに鎮座するライオン。



 そんな非現実的な光景に、男の顔は見る見る蒼白に変わっていく。


 ライオンくんにとっても強盗を見るのは初めてで、しばらく互いに見つめ合う。


 やがてライオンくんは大きく口を開け、あくびをした。



「ガウウウウウウウ~☆」



 部屋の壁が振動するような轟音に、男は「うわああああああああ!」と絶叫。


 ナイフを投げ捨てて四つん這いになると、そのまま玄関へと逃げ去っていった。



「なんだか変わったお客さんだったわねぇ……」



 お茶を飲みながら、おばあちゃんは呟いた。


 コタツから身を起こしたライオンくんは、タテガミを軽く撫で下ろしながら決意をした。


 このまま逃がせば、また襲ってくる可能性もある。


 大切なおばあちゃんを危険な目に遭わせるわけにはいかない。



「俺、ちょっと散歩してくるね」



 そう告げると、玄関先へと飛び出した。


 動物園を抜け出して以来、家の外を出歩くのは初めてだった。


 鼻を空気中でひくつかせ、ライオンくんは男の匂いを追って走り出した。







 真っ暗な路地裏を、男は息を切らせながら全力で駆けていた。



「こんなはずじゃなかった……」



 情報では、ボケている老婆が一人で暮らしていると聞いていた。


 誰にでも簡単に稼げると教えられた、闇バイトの仕事だった。


 ちょっと脅して金品を奪う――そんな計画が一瞬で崩れ去る。


 あの家に踏み込んだ瞬間、そこにいたのは想像すらしていなかった「凶暴な猛獣」。


 信じられないことに百獣の王ライオンが、コタツにすっぽりと収まっていたのだ。



「話が……違うじゃねえか……!」



 ボスに連絡を取ろうと、携帯電話に手を伸ばす。


 走りながらポケットを探っていると、「ドンッ!」という鈍い衝撃とともに吹き飛ばされ、尻もちをついてしまった。



「いてて……。何にぶつかったんだ?」



 頭を振りながら見ると、そこには二本足で立つ、ライオンの姿があった。


 夜風になびくタテガミ、まるで仁王像のような威風堂々とした佇まい。



「う、嘘だろ……? なんでこんな路地裏に、ライオンが……っ!」



 恐怖でパニックになった彼は、咄嗟に身を起こすと「うわああああ!」という絶叫とともに全力で走り出した。


 あと数メートルで大通りという場所に来たとき、思わず後ろを振り返ると……。



――ライオンが人間のように、二本脚でシュババッ! と走って追いかけてくる。



「嘘だろおおおお!」



 悲鳴を上げながら、必死に走る速度を上げる。


 だがライオンの最高速度は、時速50キロを優に超える。


 100m走なら、約7秒で駆け抜ける。


 真後ろに存在を感じた瞬間、男の身体は地面へと投げ出された。



「た、助けてくれ……」



 かすれた声で懇願するが、ライオンは容赦なく近づいてくる。


 ガル☆ガルと口を開き、鋭い牙をちらつかせる。



「た、食べないでくれええ!」



ーーそして気を失う寸前……。



「人間なんて食べるわけないだろ……」という声が聞こえた気がした。



 男の意識が戻ったとき、警察署の前で横たわっていた。


 うめき声を漏らしながら目を開けると、数人の警官が首を傾げて立ち尽くしている。


 その後、前科がバレた男は当然のように拘留された。


 取り調べ室で「ライオンが……」と繰り返しても、話を聞く者など誰一人いなかった。







 強盗事件から一か月が過ぎた頃。


 荷物を両手に提げながら、仁科裕司は古びた家の玄関を開けた。


 先日警察から連絡があり、実家の周りをうろついていた不審者が捕まったから、警戒をした方が良いと言われやって来た。



「ただいま! 母さん、久しぶり」



 外は冷たい風が吹いていたが、一歩中に入ると、懐かしい匂いに思わずほっとする。


 数年ぶりの帰省だったが、家の中はまったく変わっていない。


胸に広がる懐かしさを噛みしめながら、居間へと続く襖をそっと開いた。



――その瞬間、思いもよらない光景が目の前に広がる。



 コタツを挟んで向かい合う二つのシルエット。


 一方は小柄で、背中の丸い母親の姿。


 もう一方は、どう見ても「巨大な獣」の姿だった。


 金色のタテガミをフワリと揺らし、堂々とした体格のそれは……。



――間違いなくライオン。



「うわああああああ!」



 驚きのあまり、彼の声が裏返る。



「母さん! なんで家に、ライオンがっ……!」



 するとライオンは、のんびりと大きな口を開けて、みかんを丸ごとパクリと頬張った。



「ん……? あら、ずいぶん久しぶりねぇ……。元気にしていた?」



 母はまるで何ごともないように、笑みを浮かべている。



「いやいや、母さん! ライオンだよ、猛獣だよ! どうなってるのこれ!」



 顔を真っ赤にして叫ぶものの、母はまったく動じない。



「うふふ。彼はライオンくんっていうのよ? しばらくうちで暮らしているの」



 さらりと言い放つその言葉に、膝から力が抜けそうになる。



「ライオンくんって……本当にライオンだろ? 母さん、分かってるの?」


「ええ、そうよ。外国からいらしたんですって」


「どうも、こんちわッス。俺がライオンくんです。ばあちゃんには、色々お世話になってま~ッス」



 一瞬、時が止まったように感じた。


 ライオンが流暢な日本語を話すなど、おとぎ話の世界にでも紛れ込んだんだろうか。



「ラ、ライオンが……喋った……!」


「お茶、入れてこようかしら……。ちょっと待ってねぇ……」



 母は何事もないかのようにゆったりと立ち上がり、台所へと向かっていく。


 居間に取り残され立ち尽くすと、恐ろしい獣と視線が交わった。



「俺、ほんとにライオンなんスけど、怪しい者じゃないんで……」



 ライオンが笑うと、その牙がギラリと白く光る。


 道端でこんな相手と出くわしたら、と想像するだけでゾッとする。


 どうして母がこんな猛獣を家に住まわせているのか。


 いや、その前に、なぜライオンが普通に会話をしているのか。


 疑問が次々と湧き上がる。


 やがて、母がゆっくりとした足取りで戻ってきた。


 お茶を注ぎながら、にこやかに息子の顔を見た。



「はい、裕司。熱いから気をつけて飲んでちょうだいねぇ……。あら、顔が真っ青よ?」


「息子さんも、みかん食べます? 皮ごとパクッといけますよ。俺、いつもこうやって食べちゃうんスけど」



 あまりの自然な会話に「あ、ああ……」と曖昧にうなずくのが精一杯だった。



……いったい、どうなってるんだ、この家は……。



 やがて母は、「こっちにきて、座ったら?」と声をかけた。


 ライオンも「ガウ☆ガウ! ぜひ一緒にコタツ入りましょうよ」と言い、しっぽを嬉しそうに振っている。



「……わ、分かったよ」



 とりあえず今は、おとなしくコタツに入ることにした。







 ライオンくんは、隣に座った男を見ていた。


 白髪交じりの彼は、おばあちゃんの子どもらしい。


 ふと、さっき彼が落とした紙袋に気がついた。



――なんか美味しそうな香りがするぞ……。



 長い尻尾をするりと伸ばして拾い上げてみる。


 包み紙に書かれた、「たい焼き」という文字が目に飛び込んできた。


 甘い香りに誘われて、つい一つパクリ。


 サクサクした生地と、中からこぼれ出るアンコの甘みが絶妙だ。


 こんな美味しい魚は初めてだった。



「こら! 勝手に人の持ち物に手を出すな!」


「え? これってお土産じゃないの?」


「おまえに買ってきたわけじゃない! そもそもおまえは何者だ? どうして人間の言葉を話せるんだ!」



 ライオンくんは当たり前のように答えた。



「だから俺はライオンくん。ガウ☆ガウ! ばあちゃんにはお世話になってるんだ」


「母さん、危険すぎる! 早く警察に通報したほうがいい!」



 その言葉に、おばあちゃんは首を傾げながらも、優しい笑みを浮かべる。



「あらあら、ライオンくんは良い子よ? 家の手伝いもしてくれるし」



 しかし息子は不安げな表情のまま、ライオンくんを指差し続ける。



「こいつは猛獣なんだ! いつ母さんを襲うか分からないじゃないか!」



 その言い方に、ライオンくんは思わずムッとした。



「俺がばあちゃんを、傷つけるわけないだろ……」


「そんなの分からない! おまえはライオンだぞ! いつ本性を表すか分からないんだ!」



 息子は頬を引きつらせたまま、怒りを隠せない。


 ライオンくんはため息をつきながら、タテガミを軽く撫でる。



「本当にただ一緒に暮らしてるだけだよ。それに、そんなにばあちゃんが心配なら、もっと早く会いに来ればよかったんじゃないか? ばあちゃん、ずっと一人ぼっちだったんだぜ?」



 その一言が図星だったのか、彼は言葉に詰まる。



「仕方ないだろ……。仕事が忙しかったんだ……。人間には、色々あるんだよ……」


「人間も動物だろ? 家族を大切にできない奴なんて、あんまり格好良くないぞ」


「まあまあ、せっかく来てくれたんだから、ゆっくりしていけばいいのよ。美味しいみかんをたくさん買ってあるの」



 おばあちゃんが温かいお茶を差し出しながら、にっこりと微笑んだ。


まったく、親子なのにぜんぜん似てないなぁ……と、ライオンくんは尻尾を揺らしながら考える。


 ばあちゃんはいつものんびりとして優しい雰囲気なのに、息子は神経質でせっかち。


 でも、これも人間という生き物の面白いところなのかもしれない。


 コタツの上には、おばあちゃんが買ってくれた甘いみかんが山盛りと、息子が買ってきたたい焼きがある。



「どうぞ、食べてねぇ……」



 優しい声に誘われライオンくんは、ミカンとたい焼きを交互に口の中に放り込み、幸せそうに、ぱくぱくもぐもぐと食べる。


 その様子に息子は目を丸くしているが、しばらくしてこう言った。



「母さんが良いなら……まあ、いいか……」







 おばあちゃんは背中を丸めながら、急須にお湯を注いだ。


 立ち上る湯気が、茶葉の香りを運び、優しく鼻先をくすぐる。


 コタツを囲むように、息子とライオンくんが向かい合って座っている。


 その様子を横目で見ながらコタツに戻り、ゆっくりと新しいお茶を注いでいく。



「はい、どうぞ。熱いから気をつけて飲んでねぇ……」



 息子の前に湯呑を置いた後、ライオンくんにも「いる?」と声をかける。


 ちょうどたい焼きを頬張っているらしく、甘い香りが漂ってくる。



「久しぶりに、人が集まって楽しいわねぇ……」



 彼女は溜息をついて呟いた。


 息子家族も仕事が忙しく、正月やお盆ですら帰ってこなくなった。


 でも、今は違う。


 ライオンくんが一緒に暮らしてくれて、そこに久しぶりに息子も顔を見せた。


 まるで昔のような賑やかさが戻り、懐かしさに心までぽかぽかと温まっていく。



「俺も楽しいぞ♪」



 ライオンくんはたい焼きを飲みこんで、陽気に応える。



「まるで昔みたいに、家族がそろった気がするわ……」



 静かに呟きながら、湯呑を手に取る。


 緑茶の優しい香りが立ち込める。


 うっすらと夫の面影を思い返しながら、茶の間の様子を見つめる。



「ライオンくん、ずっと一緒に暮らせたらいいわねぇ……」



 小さくつぶやくと、ライオンくんが「ん?」と耳をピクリと動かした。


 彼女は微笑んで、「ああ、なんでもないのよ……」と言葉を濁す。


 彼は「ガウ☆ガウ!」と楽しそうに鳴いた。


 そんな様子を見て、おばあちゃんはそっと目を細める。


 いつの間にか、止まっていた時を刻む針が、また動き出したように感じられる。


 静まり返っていた家に再び賑わいが戻り、心の奥に、ぽっと小さな灯がともる。


 長い間求めていた家族の温もりが、思いがけない形で、この茶の間に戻ってきたのだ。


 それは、まるで小さな奇跡のような出来事だった。


 おばあちゃんは穏やかな気持ちで目を閉じる。






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読みました!!!!!! 感想らしい言葉が見つからないので感動した勢いだけ残します。 ずごぐ良がっだ!!!!!!!!!!!
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