19. 幻月の夜
「───旦那様、準備は整っております」
「うむ、ご苦労。遅くなってしまったが、そろそろ出るとしよう。娘の婚約者を待たせて怒らせるわけにもいかん。リアナ」
「はい。私も準備はできています。いつでも参れます」
仄白い満月がちょうど空に現れた時分。オースティン伯爵邸の中庭にて、オースティン伯爵父娘が四頭立ての豪奢な馬車に乗り込む。
彼らはあそこにいる伯爵家長女リアナ嬢の婚約者であるオルドラン子爵家にて行われる夜会に出席するため、ちょうど屋敷を出るところだった。そろそろ正式な結婚も発表されると目されており、嫁入り前に伯爵家の威光を見せつけるために移動するにも相当な支度が整えられていた。貴族の馬車といえば二頭以上の馬で引く大型馬車となるのだが、中でも四頭引きは大きさはもちろん維持管理にも莫大な金が掛かる富の象徴だ。夜会とはいえ出発がそろそろ日も暮れる今となったのは、準備に時間が掛かる以上仕方のないことなのだろう。流石は大金持ちの大貴族。豪奢な馬車や装飾などに興味はないが、金が有り余っているというのは羨ましいことだ。
「ダグラス、後は頼むぞ。くれぐれも、馬鹿娘が抜け出したりしないように見張っておいてくれ」
「はい、承知しております。それに、シャロン様もあれで物の道理は弁えておられるお方。こんな時に旦那様のお手を煩わせるような真似はされますまい」
「弁えていてなお、困らせようとしてくるから始末が悪いのだッ! まあよい、今は結婚発表の前の大事な時期だ。他所の家から余計な妨害が入らないとも限らん。警戒は怠らず守りを厳とせよ」
「はっ。旦那様もお気をつけ下さいませ」
白髪の混じった頭の執事長が主人へ深々と頭を下げる。あの執事長も、ああ見えて若い頃に《黒鷹》の異名とともに帝国中に武名を鳴らした武芸者だ。なぜ東部を治める三伯のひとつとはいえ、たかが一伯爵家に仕えているのかは謎であるが、その実力は衰えを知らないという。ある程度は伯爵家が虚仮威しのために吹聴している噂なのだろうが、警戒するに越したことは無い。
「【魅せよ】」
私、《月夜の死神》ことヒュプシス・レニーリョは主人たちを乗せた馬車を見送った執事長に【幻影】の魔法をかけようとし───魔力が霧散するのを感じ取る。
またか。一週間の前、獲物の確保の邪魔をした小僧に不可思議な術で魔法を妨害されて以来、我が光惑の魔法の発動が安定しないことがあった。恐らくはあの小僧の持つ魔法なのだろうが、我がレニーリョ家を《死神》たらしめる先祖代々の秘法を妨害された屈辱は度し難い。一切証拠を残さず、確実に獲物を葬るが故に、我がレニーリョ家は代々暗殺者として《死神》と呼ばれ恐れられてきた。我らの“仕事”は時としてこの国の歴史をも動かし、裏の世界ではそれこそ神の如く崇められる存在であったのだ。
その原動力にして継承者の証となるのが、この“光の魔法”。“光惑”の術として我が家に一子相伝で伝わるこの魔法は、一族の嫡子にしか発現しない究極の魔法だ。レニーリョ家の男子はこの魔法を賭けて暗殺者としての腕を磨き、最も優れた者にのみ《精霊》は後継者と認めて魔法を授けるのだ。
ゆえに、その熾烈な戦いを勝ち抜いた私には自らに対する強い自信があった。レニーリョ家の末弟として生まれながら、兄たちの確執を煽り潰し合わせるという見事な策略も用いて、私は己の実力を示したのだ。自らは極力表に立たず、最後の瞬間に一手、止めの一撃を加えるのみ。これこそ正しく、歴代最高の《死神》の手腕である。
その最後の一手、獲物を捕らえる極上の瞬間を二度にも渡って邪魔された。決して許されることではない。
魔力を紡ぎ続けていると、やがて我が“光惑”は水面に広がる波紋のように妖しげなゆらぎを空間に滲ませて、【幻影】の魔法を発現させた。
「……ふむ、奴の妨害も所詮はこの程度よ」
我が“光惑”は人を惑わせ、思考を遮り空間さえも意のままに操る。虚構の空間に人や場所を捕らえ、内と外の両面から欺く至高にして究極の魔法。今宵のような満月の下であれば、この屋敷全てを虚構に閉じ込めることさえ可能。あのような若造に、手出しができるような代物ではないのだ。
魔法が発動すると、執事長と周りの騎士たちがまとめて【幻影】の虚空へと引きずり込まれる。これで、《黒鷹》ダグラス・ウィンゼルは消えた。あとは他の有象無象を適当に処理しつつ、獲物であるあの娘を手中へ収めるのみ。《黒鷹》たちが現実へ引き戻される頃には、私はあの娘を連れて例の旧貴族邸の“隠れ家”へ戻れば良い。
わざわざ暗殺者である私への依頼を、「暗殺」から「誘拐」へと切り替えるのだ。依頼主であるかの貴族が何を考えているかなど、状況を鑑みれば火を見るよりも明らかだ。あの小僧を誘拐の犯人へと仕立て上げ、奴を“討伐”して娘を奪還して見せるつもりだろう。そして、貞操を汚された娘を自らが庇護してみせる。そうして伯爵家の娘を二人とも娶り、強固になった縁故でもって、この街を治め東部地域を統べるオースティン伯爵家の権勢を丸ごと取り込む。見え透いてはいるが、追及は不可能だろう。なにせ、“下手人”は本当に彼と何の繋がりもないのだから。
全く、政敵に嫁がれることで影響力の低下に繋がりかねない重要な婚家の次女に、偶然にも悪い虫が付く場面に遭遇するとは。かの御仁も中々どうして、運に恵まれているようだ。そうでもなければ、三伯に次ぐとまで言われる地位にまで上り詰めることはできなかったに違いない。
「あの小僧も哀れなものだ。伯爵令嬢の誘拐ともなれば、極刑は免れまい」
私は、これから惨めに破滅する若造を思い、ほくそ笑む。
自分が手籠めにしようとしていた娘の、憎むべき誘拐犯として処刑されるのだから。だが、我が手を煩わせた報いとしては妥当だろう。私に楯突こうとした結果、私を邪魔立てしたという自らの軽率な行いを悔いながら死んでゆくのだから。しかも、私自身は何も手を下すことなく。これぞ、《死神》に相応しい最上の凶手と言えよう。
全てが上手く進んでいることに満足を覚えつつ、私は獲物の待つ屋敷へと潜入を開始した。
主のいない屋敷は静かなものだった。つい先刻までは夜会への出席の準備のためか物々しい雰囲気を漂わせていたが、いざ主人が発ってしまえば途端に空気が弛緩したものに一変した。真に優秀な者は、いつ如何なる時でも気を抜かないもの。伯爵家といえど、家人の質がこの程度であるのならば底が知れるというものだ。
「この部屋……計画通りだな」
屋敷の最奥、伯爵家の者たちの私室のある区画。他の場所であれば侍女たちに交じって警備の騎士が巡回しているはずのところに、女の姿しか見えない一角があった。事前情報の通り、ここが獲物の私室のようだ。夜にしては侍女たちの姿がやけに多いが、私にかかれば物の数ではない。素人の仕業を装うために少々手荒な手段で侍女たちを手早く片付け、目的の部屋に侵入した。
「誰っ……!?」
私の侵入に気が付いた娘が、寝間着のままベッドから飛び起きる。この私に気付くとは、なかなか侮れない勘を持っているらしい。額に差された小さな羽根の髪飾りが窓の月明かりを反射して煌めいた。
「動くな。大人しくすれば命は取らない」
「っ……!」
喉元にナイフを突き付けられ、娘は怯えながら息を殺した。
容易い仕事だ。あとはこの娘を眠らせ───
「───この程度で、ボクを脅したつもりかい?」
突然、娘が不敵な笑みとともに私の腕を掴み、
「オースティンの護りを、フォンティールを舐めるなよっ!!」
【暴風】を巻き起こし、私の身体を投げ飛ばした!?
「グッ、キサマ───ッ!!」
「こうもあっさり引っかかってくれるなんてね。アイツの読みは正しかったみたいだ」
寝間着姿の小娘は、貴族令嬢とは思えない隙の無い構えで剣をかざした。
「オースティンを守護せし《風護り》の一族。フォンティール子爵家が長女、エレノア・フォンティール! 《死神》如きに遅れは取らないよ。覚悟っ!!」




